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近江の轍  作者: 藤瀬慶久
二代 甚五郎の章
29/97

第29話 三井高利

 

 1633年(寛永10年) 秋  蝦夷国福山 松前城




 慶広の後を継いだ二代松前藩主・松前公広(きんひろ)は、不機嫌な顔を隠そうともせずに上座に座っていた

 材木屋建部七郎右衛門と福島屋田付新助は公広より呼び出され、御前に伺候していた



「……志摩守様、お召しにより参じましたが、一体何事でしょうか?」

 新助が恐る恐る口火を切る


「…うむ。ご公儀により松前城下でのアイヌとの交易は禁止となった。ついては、その方ら両浜組に今後の交易を相談しようと思ってな」


「―――!?」

 七郎右衛門は虚を突かれた

 一体何故ご城下での交易が禁止されるのか



「先だって、ご公儀よりの巡検使が見えていたことは知っていよう」

 公広が七郎右衛門の思考を読んだように話し出す


「巡検使の話では、今上様はキリシタンの取り締まりを厳しく行っているそうだ。長崎では伴天連の乗る船は一切入港を禁止されておるらしい」

「越前でも噂には聞いておりまする。なんでも、五年以上海外に居住する者の帰国も認められぬようになったとか…」


「我が松前城下でも元和よりご公儀の目を逃れて伴天連の布教が行われており、キリシタンも城下に住んでいる」

 松前城下のキリシタンは蝦夷の砂金集めに従事しており、藩も黙認状態だった


「彼らは蝦夷の砂金取りと金鉱脈の発掘に力を尽くしておりますが…?」

「わしもそう言ったのだがな… 禁令は禁令と巡検使側も一切譲らぬのだ」

 それで不機嫌なのか… ご公儀のゴリ押しに辟易しておられるのだ



「キリシタンを排除することもそうだが、寺請けにて宗門改めができぬアイヌの民が城下に出入りしては、蝦夷よりキリシタン・伴天連が領内に入り込むやもしれぬ。

 それ故、アイヌの和人地(松前藩領)への立ち入りは罷りならんとのことだ。


 ―――まったく!」



 公広が大きくため息を吐いた


「そこでだ。アイヌとはこちらから出向いて交易を行う必要が出てきた。まあ、これは以前からこちらからも夷人地(アイヌ居住地)に出向くこともあった故問題ない。


 問題は家臣達の俸禄よ。今までは松前家が城下で交易を行い、家臣らに俸禄を与えておったが、夷人地全土に出向いて交易を行うとなれば松前家で全てを行うことも出来ぬ。

 その方らには良い知恵がないかと思って来てもらったのだ」



 なるほど。確かに蝦夷全土へ出向くとなれば相当な経費が掛かるし、今こちらに店を構えている商人では人手も足りぬ…


 ならば―――


「―――ならば、ご家中の方々に知行として交易権をお与えになってはいかがですか?」

「交易権…?」

「左様。我が松前藩では米が取れぬ代わりに、交易によって藩を建てておりまする。

 米が取れる地の大名はご家中に知行地として田畑をお与えになります。ならば、志摩守様は交易の権を知行としてお与えになればいかがでございましょう。


 もちろん、金堀や主たる交易地は志摩守様の直轄とされれば良い。

 与えられた知行からいかように利を得るかは、各々の才覚によるとされれば、藩の負担は少のうございましょう」


「…ふむ …ふむ …なるほどの。つまり、一定の俸禄を与える代わりに、各々で産物を取り米を稼げという事にするわけか」

「左様にございます。ご家臣方も必要に迫られれば、交易を担当する商人を招きましょう。

 もちろん、出来得る限りの斡旋は両浜組にて請け負わせていただきまする」


「それは良いな。家臣達は自らの才覚でいかようにも俸禄を増やすことができるというわけか。

 …しかし、その方らは良いのか?両浜組に属さぬ商人が蝦夷に赴くことになるぞ?」

「それについては、やむを得ぬかと。現実に我ら両浜組のみにては蝦夷全土との交易など手に余りまする。

 ここは共存共栄の精神で行きたいと存じまする」



 公広の顔が見る見る晴れていく

「ならば良し。正式には家老達に諮る故、令の発布はそれからとなるが、その方らは家臣達の交易を担当できる商人を呼び集めてくれ」

「かしこまりました」




 こうして松前藩独特の知行制である『商業知行制』が始まった

 キリシタン禁令に端を発した鎖国令は、長崎から遠く蝦夷の地にまで影響を及ぼしていた

 その影響は、江戸期を通じてアイヌと和人の関係を運命づけてゆくことになる




 1635年(寛永12年) 春  武蔵国豊島郡江戸本町 釘抜越後屋




「おお、来たな」

 重俊は嬉しそうに来客を迎えた

 今年十四歳になる末弟の八郎兵衛(はちろうべえ)高利(たかとし)が、俊次・重俊に続いて江戸へ出てきたのだ


「兄さん!ご無沙汰しています!」

「店では『番頭さん』だ。ここでは兄弟ということは忘れて商いに打ち込まないと、大成しないぞ」

「はい。すみません。番頭さん」

「ははははは。まあ、今日はゆっくり休んで、明日からしっかりと奉公に励めば良い」


 長兄俊次が次々と送り付けてくる反物を捌くうち、重俊には年に似合わぬ風格が備わってきていた

 まだ二十二歳だが、釘抜越後屋の誰もが重俊を頼りにし、また支配人として尊敬もしていた




「よお!八郎兵衛か!」

「兄上、いえ旦那様。お久しぶりでございます」

「ははは。まあ、そう固くなるな」


 数日後、店主である長兄俊次も江戸店へ顔を出した

 重俊が微妙な顔をしているのを高利は不思議に思った


 高利に色々と商いの心得を語ったところで、俊次はすぐに京店へ戻って行った



「あれな、旦那様は自分こそが店主ということをお前に見せつけたかったのだ」

「自分こそが…?誰が見ても三郎兄様が店主でありましょう?」

「その通りなんだが… ちと、な…」

 重俊は妙に歯切れが悪かった



 この頃、江戸の釘抜越後屋の奉公人は、毎度無茶な量と価格の反物を京から送り付けてくる店主・俊次に反感を抱き、その分だけ振られた無茶ぶりを文句ひとつ言わずに黙々とこなす江戸支配人・重俊に懐いていた

 重俊は自分が店主の座を狙うなどということは一つも考えていなかったが、何も言わずに黙々と仕事をこなせばこなすほど俊次の猜疑心を刺激し、兄弟の間には何とも言えないわだかまりが残っていた



「お前は何も考えずに、旦那様を盛り立てて越後屋を繁盛させることだけを考えればいい」

 重俊はそう言って高利に一つ一つ呉服の商いを教えていった



 高利は自分が生まれた時には既に江戸に行っていた俊次には、どうしても実の兄ではなく店主としての感情が先立った

 対して重俊には、短い間ではあったが伊勢で共に過ごし、支配人という前に兄弟としての情があった


 幸いというべきか、俊次は通常は京に居て江戸へ顔を出す事は年に一度あるかないかだったので、俊次にはその感情を読まれることはなかった




 1639年(寛永16年) 秋  武蔵国豊島郡江戸本町 釘抜越後屋




「じゃあな、八郎兵衛。後の事は頼んだぞ」

「…」

「そんな顔をするな。お前なら大丈夫だ。俺以上にやれるさ。

 兄上を盛り立てて、越後屋を江戸一の呉服屋にしてくれ」


 高利は泣きそうになるのをなんとか堪えていた

 尊敬する兄・重俊が伊勢に残る母・春の面倒を見るようにと、店主であり長兄の俊次から暇を出されたのだった


 この頃、父の則兵衛高俊は既に亡くなっており、春は髪を下ろして殊法(しゅほう)と名乗っていた

 殊法も既に五十歳を目前に迎え、伊勢の本家越後屋は後継者がいないという事情もあった

 だが、高利の目にはどう見ても重俊の声望を妬んだ俊次が厄介払いをしたようにしか見えなかった



「兄上を疑ってはいかんぞ。三井家を割ってはならん。

 誰かが母の世話をしなければならんのだ。俺よりもお前の方が商才は確かなのだから、俺が母の面倒を見るために帰るのは妥当なことなんだ」

 重俊が高利の肩に手を置いて諭すように話しかけた


「―――しかし、私は兄上ほどに商いが上手くはありません」

「はははは。俺の目は節穴じゃないぞ。お前は俺の下にいるからその器量を発揮できていないだけだ。

 お前が支配人となれば、俺以上に越後屋を繁栄させられるさ。

 いずれ、越後屋の祖業を一から興した宗兵衛高安(おじいさま)以上の大商人になる男なんだからな」


「そんな…買いかぶりです…」

「ふふっ。そのうち皆にもわかるだろう」



 こうして、重俊は伊勢に戻って本家越後屋の家業を継ぎ、高利は若干十八歳にして釘抜越後屋の支配人になった

 風格を増す重俊よりも、若造である高利の方が御しやすいと俊次が思ったのだろうか


 しかし、三井家の運命はこの瞬間(とき)から大きく動き出すことになる




 1639年(寛永16年) 冬  近江国蒲生郡武佐宿




「五兵衛殿。もう人も馬も限界だ。ご公儀にお願いして、周辺の人馬を貸してもらうようにできんもんか…」

「うむ… お代官様に何度も掛け合っているのだが、お上の威光を畏れよとしか言われぬ。もう限界かもしれぬ…」

「これ以上伝馬の負担が増えたら、わしらここを捨てて逃げるしかないぞ」

「判っておる。もう一度お代官様へ訴えを申し上げる」


 武佐宿の旅籠の一室で、町の肝煎りの五兵衛と旅籠主の田吾作が深刻な顔で向き合っていた

 四年前の寛永十二年に制定された武家諸法度により、大名の参勤交代が正式に幕府の御用となった

 今まで大きな収益を上げていた行列のお世話が、一転大赤字の客になってしまったのだ


 特に参勤交代は春に行われるため、春に徴発される人馬が集中した

 手持ちの人馬だけではとても間に合わず、周辺からわざわざ金を払って御用の為の人馬を借りて提供しても、渡される報酬は雀の涙ほどでしかなかった


 既に武佐宿では伝馬役を務めることを役得ではなく苦役と思うようになっていた




 1639年(寛永16年) 冬  武蔵国豊島郡江戸城




 江戸城の一室で老中が評定を開いていた


「参勤交代による宿駅の負担は思ったよりも重大であります。各宿場から伝馬免除・宿駅免除を願い出る訴えが引きも切らずに届いておりまする」

 松平信綱が周囲を見回しながら慎重に話す


「参勤交代か…上様の威光を損なうわけにはいかぬが、さりとて一時に人馬が集中する苦しさも判らぬではない」

 内藤忠重が後を受ける


「しかし、ご公儀のお役目なのです。お上の威光に大名家が服しているからこそ、日ノ本には戦乱が無くなったのでございますぞ

 平和を保つことは、ひいては民の為でもござろう」

 松平乗壽が居丈高に主張した


「とはいえ、あまり追い詰め過ぎては島原のようにならぬとも限りませぬ。権現様も、『百姓を死なぬように生きぬように収納申し付ける事』と御遺訓を残されております。

 生きることができぬほどに負担を課しては、権現様のお志に背くことになりますぞ」

 阿部重次がたしなめるように言い添える



 徳川家康が言ったと伝わる『百姓をば、死なぬように生きぬように…』という有名な言葉がある


 この言葉は、五公五民の年貢は精一杯生業に励まなければ支払えない年貢であり、あまり百姓を遊ばせすぎてはいけない

 だが、凶作などで困窮している時にそれをあまりに苛烈に取り立てて死なせてはいけない

 苦しい時は死なないように、来年の生業を営めるように収入を残してやらねばならない

 という意味で使われた言葉だとの研究がある


 しかしながら、いつの間にかこの言葉は『殺さぬように生かさぬように』という物騒な物言いにすり替わり、徳川政権の負の側面を強調する言葉になる


 歴史の不思議というべきか、あるいは恣意的に言い換えられたものなのか…




「宿駅の負担は無視するわけにはいかんでしょう。ここは、周辺の村から臨時に助郷(すけごう)を出すようにしてはどうでしょうか?」

 松平信綱が周辺を見回しながら、腹案を述べた



 少しの間沈黙があったが、内藤忠重が賛成したことで会議の趨勢は周辺郷方に助郷役を課すことで一致した

 この助郷役こそが、江戸時代後期に百姓の暮らしを苦しめた最大の原因となるが、この当時はまだそこまでの負担とは受け取られていなかった





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