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近江の轍  作者: 藤瀬慶久
二代 甚五郎の章
27/97

第27話 近江蚊帳

 


 1625年(寛永2年) 春  近江国蒲生郡八幡町




「赤は華やかでいいのだが、これではちと派手派手しすぎるな…」

 西川甚五郎は八幡町に戻り、蚊帳織りの染め物を色々と試していた


 山形屋の江戸日本橋店は、甚五郎の営業努力の成果があって畳表は順調に販売額を伸ばしている

 だが、蚊帳の方は今一つ振るわなかった


 近頃の江戸は好景気の影響か、物の品質だけではなくそのデザイン性も売り上げを決める重要な要素となっていることを甚五郎は敏感に察していた

 引き比べて、麻の茶色一色の蚊帳はいかにも地味で野暮ったい

 それならば染め色を付ければいいかもしれんと、八幡町で染め物職人と一緒にあれこれと工夫を重ねていた



「甚五郎、精が出るな」

「父上。紅花染は華やかで良いのですが、中から外の景色を見ると血に染まっているようでいけません。

 藍染は寒々しい印象になりますし…」

「ふうむ…わしなどは物の質が十分かどうかしか見ておらぬが、そういった飾り気も必要なのか?」

 仁右衛門にはその辺りが理解できなかった

 昔ならば良い物は必ず求めてもらえたが、時代は変わったのだと思わざるを得ない


「あまり日本橋店を留守にするわけにもいきません。一度戻ってどのような色が良いか思案してみます」

「あまり根を詰めすぎるなよ」


 仁右衛門は息子の心配をしたが、立派にやっている姿は頼もしくもあった






(どういう色合いがいいか…生地の色が白ならば霞がかかったような幻想的な雰囲気になるのだが…)

 甚五郎は歩きながら、とつおいつ思案していた


 江戸を目前にした箱根の山で、あまりの暑さに木陰に入った

(これはたまらん。ちと木陰で一休みしよう)


 しばらく木陰で休んでいると、甚五郎の目に一面のつたかずらの緑が目に入った

(なんとも目に涼やかで心地よい…まるで仙境に至るようだ)


 しばらく眺めていたが、ふと我に返って目が覚めた

 耳には蝉の声がうるさく響く




(―――俺は夢を見ていたのか)


 思わず昼寝をしてしまった甚五郎の目の前には、夢の中と同じつたかずらが緑の葉を青々と繁らせていた

(…これだ!このつたかずらの萌黄の緑ならば、目覚めたときに涼味と爽快さを味わわせてくれるに違いない!)


 天啓を得たと思った甚五郎は、江戸行きから引き返し、急いで八幡町に戻った







「ほう、萌黄色に染めたのか」

 甚五郎は父仁右衛門に萌黄染の蚊帳を見せた

「どれ、どのような目覚めの景色になるのか…」


 ―――翌朝

 目覚めた仁右衛門は薄緑にもやがかかったような蚊帳越しの景色に歓声を上げた

「これは良いな。目覚めた時にとても爽やかな景色が眼前に広がる。また紅花染めの縁取りも華やかさを添える趣がある」

「良い出来でしょうか?」

「うむ、上出来だ」


 心を強くした甚五郎は早速に萌黄染の蚊帳を持てるだけ江戸日本橋店へ持って行った





「萌黄…ですか。何やら変わった蚊帳で…」

 番頭に昇格させた善助が戸惑いを隠せない様子で言った


「今までの蚊帳よりも目覚めた景色が格段に爽やかになる。最初は色町を中心に売捌きに行こう。

 色町ほど粋を重視する者達もおらんからな」

「…まあ、一つ試してみますか」

 翌日から江戸吉原を中心に手代を売捌きに出した

 甚五郎も売捌きに参加した



「蚊帳ぁ~ 萌黄の蚊帳ぁ~」

 大声で呼ばわりながら町を歩き、一軒づつ妓楼の裏口を訪ねる


「萌黄の蚊帳ねぇ…うちは紙帳に絵を描いて景色にしているから…」

「この蚊帳ははるか向こうに緑の霞がかかったような幻想的な景色を出してくれます。お目覚めのお客に素晴らしいもてなしとなります。

 それに紙帳よりも格段に長持ちします。

 一度試しに使っていただけませんか?最初の三枚はお代は結構ですから」


「ほう…そこまで言うなら、少し試してみようか」



 甚五郎の狙い通り、萌黄の蚊帳は色町の女郎達から絶大な支持を得た

 紙帳と違って夜明けの明かりが差し込むので、寝坊することが少なくお客様を送り出すのもしやすいとのことだ

 色町で萌黄蚊帳を体験した武士や大店の旦那から、萌黄蚊帳は女房衆に広まり、それを使った女房衆からたちまち江戸中に口コミで広まった



 人気に火が付いたのを受けて、甚五郎は各町への売り込みの手代を増員し、手代と荷運び雇夫を二人一組で売り捌きに出した

 その服装は両人とも真新しい菅笠をかぶらせ、雇夫には真新しい半纏を着せた


 雇夫には特に美声の者を選び、数日発声練習をさせてから売捌きに出した


「萌黄のカヤァ~~~~~~」


 と一声長く唱えるうちに、半町(約50m)も歩いた


 蚊帳売りの美声もあいまって、『近江蚊帳』はたちまち江戸日本橋の名物となり、他の蚊帳商いや紙帳を売っていた商人達も先を争って近江蚊帳を仕入れるようになった




 萌黄の蚊帳は江戸の町で一大ブームとなり、どれだけ八幡町から取り寄せても足りない状況が出てきた

 地元八幡町の蚊帳織り女房達や、萌黄染を担当する染職たちに大量の注文が出された

 八幡町の繁栄を知り、流れてきた食い詰め浪人や飢民達を積極的に蚊帳織り職人や染物職人として抱えることになった



「まったく、甚五郎さんのおかげで毎日悲鳴を上げていますよ」

「不服か?新治郎」

「いいえ、うれしい悲鳴です」

 西川新八の後を継いだ新治郎は、分家として山形屋の蚊帳の買付を一手に引き受けていた

 伊勢に出して廻船で江戸へ運んでも、登せ荷と共にその量に倍する注文が回って来る

 そのうちに原料となる麻糸が不足し始めた




 1627年(寛永4年) 秋  近江国蒲生郡八幡町




 江戸での近江蚊帳の地位を確立させた甚五郎は、日本橋店を善助に任せて自身は八幡町の本店に戻り、大坂・西国方面への販売を考え始めた


「―――どう考えても材料が足りません。近郷の麻糸はことごとく蚊帳織りに回され、小袖用の麻布が不足する有様です」

「新治郎。麻糸をもっと作ることはできんのか?」


「米作りの田を潰してまで作ってもらうことはできません。湖東地域では今の産量が限界です」

「そうか…材料の調達先を考えねばならんな。蚊帳は今が売り時だ。今のうちに大量生産できる体制を作らないと、商機を逃がすことになる。

 作り手は足りているのか?」


「職人の数は今修行中の者も含めれば産量に見合うだけの人数が確保できます。やはり問題は原材料です」

「わかった。原材料については俺に任せてくれ」








 甚五郎は越前の(かせ)(麻糸の束)問屋の元締めである橘屋三郎兵衛の元を訪ねていた


「手前どもの綛を買い受けたいと?」

「左様。一万五千綛を一駄として、年間で百駄ほどを卸してもらいたいのです」

「それは―――」

 無茶だと言おうとして三郎兵衛は言葉を飲み込んだ

 一瞬冗談かと思ったが、甚五郎の顔がまったく冗談を言っている顔ではなかったからだ


「それほどの量となると、物の確保にも苦労せねばなりません。八幡町だけに回すわけにもいきませんので…」

「八幡町では、越前の綛問屋以外の問屋からは綛を買わぬようにいたします。

 八幡近郷で産する麻糸は別として、他国から仕入れる綛は橘屋さんのみということではいかがです?

 その代り、物については他の卸先に優先して必ず確保をお願いしたい」

「……」


 三郎兵衛は絶句した

 それほどに先行きが見通せているのかと思ったが、目の前に居る四十がらみの男の顔は自信に満ちていた

 また、それだけの量を買ってもらえるとなれば、無視できないどころか他の問屋に持って行かれれば橘屋にとっても元締めの地位を脅かしかねない脅威となる





「―――承知しました」

 三郎兵衛は肚をくくった

「ありがとうございます。今後とも末永くお願いいたします」

「こちらこそ、末永いお付き合いをよろしくお願いします」

 お互いに話が出来上がった所で、食事を共にして橘屋を辞した




 1627年(寛永4年) 秋  能登国鳳至郡鹿磯 近江屋




 越前を出た甚五郎は、長兄・市左衛門を訪ねて懐かしい鹿磯の地を訪ねていた

「おお!甚五郎!久しぶりだな!」

「兄上、お久しゅうございます」

「はっはっは。よせよせ堅苦しい。昔通り『兄さん』でかまわん」

「では兄さん。元気だったかい?」

「ああ、もうすっかり能登の気候にも慣れた。まあ上がれ上がれ、今茶など用意させよう」



「甚五郎さん、いらっしゃいませ。お久しぶりですね」

「義姉さんこそ、ずいぶん気品が出てきましたね」

「まあ、お上手だこと」

 フフフと笑いながらたえが茶を出してくれた


(本当に懐かしい…)

 昔は父に従って兄弟でかわるがわる鹿磯へ来た

 たえは寒い冬に足湯のもてなしをしてくれたり、夏はつめたい水を用意してくれたりと、何くれと世話をしてくれていた

 ここだけの話だが、一時期市左衛門と甚五郎はたえを巡って軽い争いを繰り広げていた時期があった

 結局は兄の市左衛門に負けたわけだが…



「昨年からこちらへ持ち下される萌黄蚊帳な、あれはいいな。夏の朝の目覚めが爽やかで心地よいとこちらでも評判だ」

「それはよかった。おかげで八幡周辺だと材料が足りなくてね。越前の綛問屋に話を付けてきたところなんだ」

「さすが、俺の見込んだ商才だ。山形屋の本店をお前に譲ったのは間違いじゃなかったな」

「譲った?たえさんを取られまいと自分から望んでこっちに来たんじゃなくて?」

「それは父上には内緒だ」


「「はははははは」」




「今は北はどの程度開拓してるんだい?」

「売捌きは最上あたりまで登っている。支店を設けるには奥羽は広すぎてな。昔ながらの商人宿を作っているところだ」

「そうか…。ゆくゆくは蝦夷まで行くつもりかい?」

「ああ、北へ北へと販路を伸ばせば、いずれは蝦夷へ辿り着くことになるだろうな。

 そういえば、最上屋さんの善太郎がよく最上へやって来るぞ。なんでも紅花の仕入れを積極的に行っているそうだ」

「俺が頼んだんだよ。紅花は最上屋で扱っているけど、蚊帳の縁染にも使うし、呉服も今は華やかな赤が喜ばれる。

 紅花の買付を本格的にやれば、江戸・京・大坂で大きな市場が作れるぞ ってね」



「父親の三代目源左衛門殿から仕入れ銀を借りて来たっていうから、いい目の付け所だと思ったが、お前の入れ知恵だったか」

「入れ知恵とは人聞きの悪い。共存共栄さ。商売は全てを独占してしまってはいけない。任せられるところは他家へ任せるのも一つの手段さ」



 しばらく話していると、六歳の童子がたえに連れられて客間に入って来た

「叔父上、利助でございます」

「おお、これはこれは。甚五郎でござる」

 甚五郎は居住まいを改め、市左衛門の長男・利助に頭を下げた


 利助は所作の端々に利発さをにじませていた

「兄上、良き男の子にございますな」

「この子も良き商家となってくれればうれしいのだがな…」

「何、兄上の子なのですから、やんちゃではあっても良き商家となりましょう」

「やんちゃは余計だ」

 利助の前なのでかしこまった言葉遣いに改めた甚五郎だが、やり取りは昔のままだった



 その後鹿磯に一泊し、甚五郎は八幡町へ戻った





 ―――翌年の寛永五年

 甚五郎は仁右衛門から正式に家督を譲られ、山形屋二代目西川甚五郎となった




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