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ちぢり感覚  作者: 等野過去
9/23

九 ざ、ざ、ざ

「海にでも行くか」

 日増しに太陽は高くなり、世間は夏シーズン真っ盛りとなっていた。アスファルトが陽炎(かげろう)を放ち、世間は青々しさをたぎらせ、草木はとどまるところを知らずに伸びさかる。網戸一面に細かい虫が飛びつき、潮風を含む嫌な湿気が暑さの中にばらまかれて、気温以上の不快感が辺りに散らばっていた。生き生きとした風景に相反する気候は夏の宿命だ。

 さすがのちぢりといえども、こちらにきて初めての真夏体験とあって、寝起きのべとつく汗や、体から立ち上る熱気が目に見えるような不快感に、一時期は体調を崩してしまったほどだった。潮風とはこんなにも特殊なのかと、ねばりつく空気が彼女の体をおもりのように束縛(そくばく)し、気持ちを下げ調子に持っていったのだ。彼女といえども、夕刻に歩いていれば虫が目や口に飛び込んできて、帰ってくるなり髪の毛に無数の子虫が絡みついているのを見てしまうと、手放しには喜べない様子だ。加えてテスト期間ということもあった。計助の顔をたてるためにも、情けない点数を取るわけにもいかず、テスト期間中は散歩を控えて勉強に明け暮れた。

 テストが終わっていざ世間を見渡したなら、ようやく特有の価値観が頭角を露わにして、潮風や、陽炎や、その他様々な不快感をはねのけんばかりの楽しさを見いだすことが叶った。

 テストの結果も満足いくものであることを確認しながら、終業式の日の夜、計助は突然海へ行くという計画を切りだしたのだ。

「海って、泳ぎに行くの?」

「別に浜辺で散歩するだけでもええやろ」

 散歩という響きが計助の口からでたということは、ちぢりにとっては雨模様の中で突然太陽が顔をだしたようなもので、嬉しさのあまりじりじりと計助のそばに詰めよって表情をうかがおうとしながら、笑顔をなるだけ控えようと無駄な努力を要して聞き返さざるをえないほどの絶大な衝撃だった。

「わたしと、いっしょに……海に?」

「嫌ならええで」

「行く、行きたい。計助さんといっしょに、行きたい!」

 ちぢりは目を輝かせて、もう嬉しさを隠す必要はないんだと分かったように、その場でくるくると回って喜びはじめた。部屋が狭いといいたげに、落ち着かずに飛び跳ねた。これほど大きな存在だと思ってくれたことに対して申し訳なさを覚えてしまうのは、計助のいけないところだろう。計助は少しずつ客観的に自身の心情が見れるようになっていた。どこが良くて、どこがいけないか、眺めれば眺めるだけ今まで目を背けていた部分がどんどんと姿を現した。考えていると悪い箇所ばかりが露呈(ろてい)され、ちぢりが彼の四十数年と力比べをしているような気がして無意識に苦笑を漏らしていた。

 計助自身、ちぢりが調子を崩したときにはいつもの元気や破天荒(はてんこう)な発想が一切でてこず、物足りなく感じていた。やはり少なからずちぢりという存在に愛着をもっていたのだろうし、また、感受性こそが彼女の一番魅力(みりよく)的な部分であり、一時的にしろ失われたことに対して、彼女の存在感を失ったような喪失感が伴ったのだ。ちぢりという少女はこれでいいのだろうかと、答えとしてだすことはしなかったが、突飛な着想の数々を取り立てて否定することもないのだと分かった。これは彼にとって非常に大きな発見で、ちぢりとの関係を大きく前進させる大事な基盤となったのだ。

 そんなことを佳織に打ち明けたなら、彼女は深く頷いて、歯に衣着せぬ調子でこう言ったのだ。

「計助くんがさ、機嫌悪くなったり、相手に興味を持たないのは、仕方がないんじゃないかな、それが性分なんだから。それは誰も否定するところじゃないと思う。でも、計助くんって、休みの日に何やってるかとか、どこに出かけるとか、そういうことを聞かれて機嫌損ねるようなきらいがあるよね。それって、相手に悪意がないっていうことを、今一度考えるべきだし、そういったことを話すことがどれだけ相手にとって距離を縮めるか、また、相手にそれを聞くことは大事なことなんだってことを、振り返った方がいいと思うの。ちぢりちゃんも夏休みに入るし、一回どこか行ってさ、気分を入れ替えながら、少し、どんなことでもいいから話してみたらどうかな」

 これもちぢりの効果だろうか。従来の計助がそうも言われたなら、自分が推し量られているようで、型にはめられているようで気分を害しただろうが、不思議と自然体で受け入れることができた。ことちぢりに関しては、佳織の力が必要だろうし、彼女の助言を信頼していることも認めざるをえなかった。

「ま、計助くんの性格もちょっとは丸くなったかもね」

「余計な御世話や」

 言いながら、素直に助言に従う辺りは反論の余地がない。

 計画はすぐにも実行に移された。八月の上旬、夏ほど田舎(いなか)の色合いが重厚になる季節はない。青空と原風景が鮮烈に際だった世界を車で走らせると、半時間ほどで国府(こう)の浜に到着した。家の前に広がる湾とは異なり、外海とあって波は強いが、その分海の透明度と光の反射具合は折り紙つきだ。遠目には、かなたに続く水平線が眺められた。

「外海って、わたしが地面に立っていることを認識させてくれるんだね。水平線なんて、こうやって眺める分には、この場より高くにあるように見えるのに、どうして海の水があふれないのかなんて怖くもなっちゃう。お椀の上に、かさを越える水が乗っているようなもんなんだもん、電柱の頂点を見ながら歩くみたいに、お腹が空けるような恐怖でぐらぐらっと、わたしの持っているバランスが崩されちゃう」

 ちぢりは下を脱ぐと水着となり、シャツを羽織ったままで、サンダルを()いて砂浜へと駆けだしていった。計助は喜んでもらえたことに安堵(あんど)しながら、堤防に腰かけてはしゃぐ彼女を眺めていた。こうしていれば、無邪気(むじやき)な、一人の女の子だ。なにに対しても大袈裟なほど驚いたり感動するさまは、愛らしくすらあると思ったなら、計助は苦笑した。

 潮騒(しおさい)の音が耳を優しく通過するたびに、ちぢりは体中を震わせて感動を体現していた。

「すごい、すごい……ここには、自然の楽器があらゆるところにあふれているんだね。とっても甘い音楽で、うっとり聞き入っちゃいそう」

 新緑のささやき、虫の合唱、波のさざめき……すべてがちぢりにとって愛すべき対象たりえるのだ。

 膝まで海に浸かり、両手で水をすくい取ったなら、香りをかいで、再び海にゆっくりと戻す。そうして手のひらをこっそりとなめた。

「海って、近くでどれだけ目をこらしたってこんなに透明なのに、どうして沖の方では青いのかな? 世界には遠くから見ると色がぬられるものってたくさんあるんだね、自然って何かと芸術的なんだから。それに、海って本当にしょっぱくって、涙の味がする。でもきっとこれって、うれし涙だと思うの」

 一時間ほどだろうか、ちぢりは飽きもせずに駆けまわっていたが、炎天下ということもあるのだろう、ようやく体が疲労していることに気付くと、計助の隣に腰かけてジュースを口にした。

「はしゃぎつかれた……」

「あんだけ走りまわったら、上等やろ」

「うん、今日はずっと、満足してるの」

 するとちぢりは丸い目を計助に向けて、小首を傾げるものだから計助も問わざるを得ない。

「なんや、ご飯粒でもついとるか?」

「ううん。海も、山も、遠くで見ると色づいて見えるのに、どうして近くで見ると土だったり、透明だったりするんだろうって思っていたんだけどね、世界中そんなものばっかりなんだなって。雲もそうだし、星もそうだし、計助さんだって、遠くで見ていると近づきにくいなって思うけど、こうして近くにいるとすごく優しいの」

「十歩ひいても、優しくはないやろ」

「わたしは知っているんだもん」

 言いながら片手でジュースの缶をしきりに回転させて、体を左右に傾けていた。上等なクラシックでも聞いているように、目をつむって、足を左右交互に振りながら、幸せそうな表情を確認して計助は苦笑した。

「楽しいか?」

「うん。計助さんは?」

「まあな。……まあ、楽しいな」

 素っ気ない返事をしていると気付いて言い直したなら、楽しさの共有が嬉しかったのか、それとも計助が感情をあらわにしたことに喜びを感じたかしれないが、ちぢりはらしくなく、歯をだして笑顔を作って見せた。茶目っ気ある笑顔で、計助は不覚にも、人の心を()きつける魅力を(たた)えていると認めざるをえなかった。

 純粋なんだ、と計助は独りごちだ。純粋さや素直さというのは、度がすぎると近くにいるものを苛立(いらだ)たせることがままある。多少はしたたかで、多少は腹黒くもあった方がよほど人間的で、安心させられるということがあるものだ。出会って以来、彼をくすぶらせていたもどかしさの答えがいとも自然に頭の中にでてきた。正体が分かってしまえばどうだ、なんてこともない、ちぢりはまったく理解できない存在ではなかったのだ。

 計助ははっとさせられた思いで、別の話題にすり替えた。

「学校は、慣れたんか?」

「うーん、どうだろ。嫌いじゃないし、登下校は楽しいかな」

「夏休みは、誰かと遊ぶ約束してへんのか」

「特には……誘ってくれた人はいたんだけど、……」

 計助は、独り身でいることが周囲にどういった印象を与えているか、今こそよい歳になって落ち着いたものの、若い当時における独り好きという思考がいかに周囲から心配に見られるものであるかということを意識せずにはいられなかった。また、彼自身がそうであったが、独りでいるということは調和を乱す行為であることも多く、独りが好きであった反面、貫きとおすのには非常なストレスが共存せざるをえないのだ。

「一人で歩くばっかやのうて、ちょっとは他の子らと遊んだらどうや。いっしょに歩いてくれる人がおったら、いつもと違う楽しさになるやろうのに」

「いつもと違う楽しさ……には(あこが)れるんだけれどね。すごく魅力的だし、今日なんて一カ月分くらい楽しかったもん」

 いじらしげに体半分計助に寄せると、ちぢりは上目遣いで少し得意げな笑みとなった。

「でも、空間を共有できないと、いっしょにいたって楽しめないと思うの」

「ゆうても、せっかく女の子らが誘ってくれたんやろうし、むげに断るんもどうやろな」

 すると突然、ちぢりの目線がわずかに泳ぐと、口元が引き締まった。嘘がつけない性格だ。純粋さはときに、自身の思いを赤裸々に周囲へと暴露してしまうことがあるが、まさにその瞬間だった。

 計助の性格の優れた点は、こういうときに深追いをしたりもせず、また気まずい感じを残すような中途半端な対応をせずに、きっぱりと切り捨てられる所にある。

「まあええけどさ。でも夏休みは長いんや、一人でおるにはもったいないやろ」

「わたしには、計助さんがいるもん」

「そうやな。また時間を見つけて、いろんなとこ行ってみよか」

 計助はらしくないことを言いながら、振り返られないように牽制(けんせい)の意味を込めてちぢりの頭に手をかぶせてやった。彼の精いっぱいの譲歩は感じ取れたのだろう、ちぢりは嬉しさに口元をほころばせ、その上でそういった反応をしていいものかと悩みながら、押さえられるまま深くうつむいて表情を隠した。互いに照れて表情を隠しながらも、空間の共有は十分だった。

「ありがとう」

 二人の関係としては新たな一歩が刻まれ、夏休みは最高の滑りだしとなった。長い夏休みこそが、二人の潤滑油(じゆんかつゆ)となって、楽しい日々を与えてくれるだろうことを示唆していた。



  波は、音を、はるばると運ぶ

  地球の裏から

  ときにはくるりと一周回って


  何日も、何ヶ月も、音といっしょに水面をはしる

  魚をくすぐり

  船を乗り越え嵐にうたれ


  やっと浜に、体を打ち上げて

  世界で起こった余韻をさざ波を

  わたしらに精いっぱい投げつけるのだ


  だけどもわたしはわからない

  波の言語は難解で

  ざざざ、ざざざとノイズまみれ

  遠い国からのシーメールは

  返信いらずでうちあげっぱなし

  言葉にならない音楽になる

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