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ちぢり感覚  作者: 等野過去
8/23

八 苗学校

 佳織と出会って以来、ちぢりは自分を表にだすことを意識しだしたし、計助の側でも彼女を受け入れようと頷くことを欠かさないように意識しだした。無言や怪訝(けげん)な表情は非難と変わりなく、互いの距離がみるみる間に遠ざかっていく結果がわかりきっている。彼の努力はつうじたようで、互いに距離を縮めようという思いがあるのであれば関係づくりなど容易(たやす)いものだ、不器用な二人ではあったが、ちぢりは日増しに当初の明るさを取り戻しつつあった。無理矢理にでもそう振る舞っていかなくてはならないという使命感をもって、怯えずに自分をだしていくべきだということを敏感に察したのだ。

 海からの潮風と特有の湿気が手を取り合った、ひどく蒸し暑い梅雨がやってきた。鼻孔(びこう)からも海の生々しさ、樹木や樹液の匂い、霧がかったべっとりとけぶる匂いは例年のことながら計助を辟易とさせた。一方でちぢりの感激は底を知らぬようで、重くまとわりつく空気だって、抱きしめるように愛した。

「弾力をもった空気ってすてき。ね、あらゆる香りがそこここを気ままにお散歩しているみたい」

 ちぢりは空気をはじくように時々宙を指ではじいていたし、庭に植え付けられたアジサイを何時間と眺めていた。

「見とっても色が変わるわけやなし」

「でも、見方を変えると色は変わるし、色んなことを物語ってくれるの。アジサイを見ているといつも、スイミーを思いだすの。小さい魚が集まって大きく化けた、あの勇気あるお魚たちを。ね、このアジサイのお花の中でどれがスイミーかな?」

 土地の前の所有者が植えていただろうアジサイは、ちぢりを飽きることなく楽しませたし、ときには濡れた地べたに膝をついて、じっとカタツムリを追ったりしていた。

 計助は知っている、梅雨を越えたなら、世界は一転したように、生き生きと精力に満ち(あふ)れた酷烈(こくれつ)な世界が待っていることを。

 夏というにはまだ早いが、今年初めてこの時期を迎えたちぢりには、新鮮な発見ばかりであった。

「都会だってね、結構特徴的なの。風はビルの隙間を()う生き物のようにうねるし、太陽が照るときは逃げ場のないフライパンみたいな世界でね……でも、ここはまた、ぜんぜん違う。お鍋の上で蒸されているみたい、一息つくだけで汗がふきでちゃうんだもん」

 梅雨入りどきには、寝れなくなるようなカエルの幾重奏に感動して、音楽を聴くように深く腰かけながら毎晩を過ごすなんてぜいたくの限りを尽くしていた少女も、いよいよこの気候の凄まじさに気付いたようだった。毎日果てしない散歩を続けている彼女にとっては、致命的ともいえるかもしれない。なにせ湿気を増す田んぼや池はどこにでもあるのに、凶器のように照らしつける太陽から逃れるための影になりそうなところはどこにもないのだ。山の手には無数の木々があるものの、この季節に足を踏み入れようものなら、木々でさえ汗をべったりかいているような熱帯の世界だ。毛虫にヒルにまむしに、何がいるかしれたものでもない。ちぢりも絶対に近寄ってはならぬと口酸っぱく注意されていた。

「でも、湿気がある方が、空気が感じられるの。風をおぶってるみたいに体が重いんだから。乾燥していると、宇宙に居るのと何が違うかなんて分かったものじゃないもん」

 その点、ちぢりは思考の天才だ。計助は慣れたとばかりに適当な返事を返したが、彼女はそれだけで満足そうだった。池で亀が甲羅(こうら)干ししているのを眺めて亀も布団(ふとん)を干すんだと言ったり、家の近くで野ウサギを発見して興奮して追っかけたり、騒音のごときウシガエルの合唱に合わせた歌を考えたり、田植えが終わった田園を見て自然の(たたみ)だなんて寝転びたいと何度もせがむくらいだ。

「計助さん、霧が立つ瞬間って見たことある?」

「霧が立つ瞬間?」

 おうむ返ししてしまうような質問だった。湿気の強い日には、霧が辺りの山を取り巻いて、山も空もすべて消し去ってしまうような日が多いが、それでも霧ができる瞬間というものを考えたこともなかった。

「まるで何かを探すみたいにね、形作るのに必死になって、ほうほうの体で()い出るみたいに木の隙間から漂いだすの。気付くと体の一部みたいに、他の場所から右手左足をぬるぬるっとだしていってね、胴体で繋がる頃には山全体をすっぽりと囲ってるの。まるで山を持ち上げようとしているみたいで、霧が晴れて山が平野に化けていても、ありえない話じゃないかな」

 ちぢりを見ているたびに、計助は思うのだった。自分が子供の頃も、こんな自由な発想をして、夢を見ながら楽しくいられたのだろうかと。彼女はまるで、自然との対話をめいっぱい楽しんでいるようだった。

 きたる六月の下旬、地元の小中学校が昼までの授業となり、町ではお田植え祭りが催された。担当の地区では一カ月以上も前から演奏や踊りの準備をし、子供も大人も総出となって全国有数の祭りを成功させようと躍起(やつき)になるのだ。地元と名が付く以上、計助たち役所の人間だって知らぬ存ぜぬというわけにもいかない。裏方に回り、駐車場の管理や看板の設置をはじめ、警備や道路の占用許可といったあらゆることに手を尽くし、事前の準備段階から調整や手回しを受け持っている。

 ちぢりに対しては、祭りのことを黙っていたものの、彼女の広漠な行動範囲から逃れるのは至難の業だ。

「計助さん。最近、お宮さんの田んぼにロープが張られたり、旗が立てられたりされているみたいだけど、何か催事でもあるの?」

「この金曜に、御田植祭(おたうえまつり)があるんや」

 聞かれたなら、素直に答えを言うしかない。仕事の関係で参加せざるをえない計助にとっては、職場にちぢりを黙秘しておきたい都合、興味を持ってもらいたくなかったが、それはあまりに淡い希望にすがるも同然だ。

「お祭りなの? 伝統的なものなんだろうな。計助さんも参加するの?」

「裏方やけどな」

「わあ……たいへんなんだね、お祭りだとか、イベントごとになると大体呼ばれるんだ」

 言いながら一区切りをし、少し周りを見渡すように目線を逸らしたあと、おずおずと、上目遣いにちぢりは切りだした。

「その、お祭りって……わたしも行って、いいかな?」

「好きにすればええんちゃう?」

「……うん、ありがとう」

 ちぢりに来て欲しくないという計助の真意を、彼女は敏感に察知していたのだ。だからこそ、あえてそんな質問をぶつけたのだろうが、そんな聞かれ方をされたなら拒めるわけもない。同時に、計助は自分の考えているところが見透かされたような、一種屈辱的な思いに小さく奥歯をかんだ。別に、彼女を否定する気などないし、否定したくないというのに、感受性が高すぎるがゆえ、計助の態度が否定的な意味合いを与えてしまっていることがやりきれないのだ。二人の距離感は、まだまだ遠く離れているということを実感させられた。

 祭りの当日は、実に活気あふれたものだった。全国でも有数の田植え祭りとなっていることもあり、平日でも人はひっきりなしに来る。小中学校が午前までということもあり、人波は終始緩むことはなかった。

「計助くん、今日は、ちぢりちゃんはくるの?」

「多分な」

「だれかと来るのかな?」

「どうやろ」

 佳織の質問に適当に返事をしながらも、計助はふと、ちぢりの学校生活がどうなっているのかと疑問を抱いた。今までだって気にならなかったわけでもないが、特段話題がでることもないし、また、毎朝楽しそうに登校する姿を見送っていることもあって悪くはないのだろうとおぼろげに捉えていただけで、よくよく考えてみたなら、誰か学校の友達といっしょにいたという話を聞かない。母親いわく、友達もほとんどいなかったのではないかという話だったが、分かる気もした。学校が嫌いではないが、特段深い友達を持つわけでもない。散歩まじりの登下校や、学校という一つの制度を好んでいるにすぎないのかもしれない。

 計助は面倒をみるという義務をどこまで忠実に守れているのか、自信がなくなり、ちぢりが誰かといっしょに訪れればいいのにと思いながら、またどこかで会いたくないという気持も先行していた。結局は、どちらに転んでも何らかの文句が飛びだすだけかもしれないと、利口ではない自身の性格を呪った。

 来賓をもてなし、写真を撮る観客の警備をしていると、あっという間に時間は過ぎ、いよいよ祭りは大詰めを迎えた。役者が総出となって、歌いながらゆっくり一時間余りをかけて、お宮まで移動をするのだ。

 忙しさにかまけていた計助はようやくひと段落し、会場の片付けにとりかかった。いざ終わってみれば、ちぢりがどうのと思考や視界をよそに向ける余裕もなく、滞りなく進行できた安堵(あんど)だけが気持ちを満たしていた。

「おつかれさま」

「ああ、おつかれさん」

 佳織の声に振り向くと、彼女の隣には、ちぢりが申し訳なさそうに立っていた。手にはベビーカステラを持ちながら、計助に向かって何度と頭を下げる。

「ちぢりちゃんったら、こわごわと隅のほうからこっちを見ているんだもん。計助くんがいっつもイライラしているからだよ、かわいそうに」

「別に、きたけりゃ来いってゆうたけどな」

「だから、その言い方っていうのが、足を遠のけちゃうのよ。分かってるくせに」

「否定はせえへんよ」

 佳織がいたおかげで、ちぢりは不必要におどおどすることなく、計助としても自分の言い方が悪かった旨を口にだすことができた。ちぢりは計助がさほど怒っているわけでないことを確認すると、ゆっくりと近付いて、小さな笑みを浮かべた。

「計助さん、おつかれさま」

「どうも」

「佳織さんに、カステラ買ってもらったの。計助さんも、どうぞ」

 計助は貰ったカステラを食べながら、姉妹のように仲睦(むつ)まじい二人をゆっくりと見守っていた。佳織はちぢりの笑顔を引きだすことにかけては右にでる者がいないほどで、次々にまくしたてると同時、ちぢりからも言葉を引きだした。聞いているだけでも楽しいひとときであり、計助もまんざらでもなかったわけだが、そこに別の声が入りこんできた。

「お、なんや。みいひん顔やな」

 役所の上司がざっくばらんに割り入ったところで、ちぢりの顔を見るや否や、思いついたように頷いた。

「あんた、この前夕方頃に河原におった子やろ、一時間くらい屈みこんどった」

 さあ、それからがたいへんだった。何を言われるか分かったものでないと、計助はちぢりとの同居について黙秘していたが、彼女のことはすぐにもその場全員に広がってちょっとした騒ぎをもたらした。事情を話せば理解は貰えたものの、なかには「とうとう嫁候補を見つけたか」とちょっかいをかけるものも少なくなく、だから嫌だったんだと計助は露骨なため息だけを返した。

 計助の態度はちぢりにとって、自分こそが原因であると感じられるに十分だったようで、幾度とごめんなさいと頭を下げたが、計助の機嫌は一向に好転する見込みはなく、単純な性格を知っている佳織は無暗なことを言わずに、ちぢりを連れて祭りの役者たちを追ってお宮へ移動していった。計助としても、一度悪くなったらすね続けるその性格だけは歳をとったといえどどうすることもできぬ性分だ、佳織に感謝しながら、からかう先輩上司をほうっておいて、黙々と会場の片付け作業を続けていた。

 若い子たちが思うほど、大人は大人ではない。子供よりもよっぽど考えが固まりきって直情的で、よっぽどくだらないプライドを大事に抱えているものだ。だから社会は複雑だ、というのはある意味正しい。誰も彼も、他人の前でだけ大人の仮面をつけて、素気なく言葉のナイフをちらつかせるのだから。歳をとるほど相手のいうことに耳をかさず自分の意見に固執するし、この性格でこの歳になったのだから性格を変える必要がないとも思っているし、変わらなくてもいいとすら思っているのだ。米粒のような譲歩だって小言なくしてすることはない。

 後日、計助はこの件について、佳織に詫びることとなる。

「計助くんの性格は知っているよ、だからわたしだって余計なことは言わないし、みんなだって気にせずに言い続けたりもするんだけどさ。でも、やっぱり子供がいる前で、計助くんまでが意地で子供っぽい態度をとっていちゃいけないよ。わたしだって偉そうに言えたもんじゃないけどさ、もっとちぢりちゃんを、大事にしてあげて欲しい」

「ほんま、すまんかった。もうちょっと俺もがんばらなあかんな。独り身の期間が長すぎた、自由にしすぎたな」

「計助くんを慕ってくれる、そしていいところをたくさん知ってくれてるんだからさ。計助くんももっと、ちぢりちゃんを仲間だと思って、フランクにならないと」

 こうして話をしていると、佳織はまるで母親のようだった。計助が感嘆と共にそんなことを言ったなら、佳織は珍しく恥ずかしそうにうつむきながら、嬉しそうな口元をムズムズと動かした。

「実はわたし、幼稚園の先生になろうと思っていたの。だから、ちぢりちゃんといると……いい意味でその頃の気持ちが刺激されて、生き生きと、楽しくなっちゃって仕方ないの」

 なるほど、佳織がどうしてちぢりに興味を持ったか、また、ちぢりの扱い方やいなし方が上手いのかというと、そこに答えがあったのだ。計助は頷くと同時、この歳になってもまだまだ社会勉強が必要だということを、切に感じていた。



  せいれつ

  まえならえ

  ばんごう、いち、に、……

  やすめ


  となりとの きょりをとれ

  まえと ちかづきすぎるな

  ぜんごさゆうを あわせろ


  いじょう、せいと にひゃくめい


  田んぼの中の 苗学校

  この教室も 欠席なし


  雨にも負けず 風にも負けず

  みんな立派に 大きくなあれ

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