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ちぢり感覚  作者: 等野過去
7/23

七 後ろ姿

「桜って、夏でいうと(せみ)で、ずっと一年を耐え忍んできても、たった一週間で跡形もなくなっちゃうんだね。春が来たよって、夏の準備を始めるように周りを呼び覚ます、目覚まし時計みたい」

 ちぢりが言うのも頷けるように、世間はあっという間に春の体を脱ぎ捨て、青々とした木々の茂りを装っていた。草木に赤色を帯びたものが少なくなり、一層の新緑が輝いていた。湾を見れば強い日差しを反射して、風と共に光を震わせて(たわむ)れているようだった。太陽が高くなるにつれて湾からの金色の揺らぎは強くなったし、風が強い日にヘドロが掘りおこされて水面が灰色になるような日も減っていった。空が()みきった水色の日でも、青々とした水面は群青色の濃度をもってせまってきていた。ちぢりに言わせると、光のしらべで波が踊る、音のでない楽器だそうだ。

「ゴールデンウィークなんて来なくてもいいのに」

「なんや、あんなに楽しみにしとったのに、気がふれたか」

「ううん。楽しみが後にあると、どんなことだって楽しく思えちゃうから。ゴールデンウィークが終わったら、逆にどんなことでもつまらなくなっちゃわないかって心配をしなくちゃいけないくらい」

「じゃ、ゴールデンウィークがきたら心配の種が一つ消えるわけや」

 計助はからかうように言ったが、ちぢりは意外そうな丸い目を彼に向けて、心から嬉しそうに笑ってみせた。何が琴線(きんせん)に触れたか知らないが、よほど嬉しそうで、鼻歌なんか歌って窓から空を(あお)ぎ見ていた。

「気の持ちようなんだね、そんな当たり前のことを、わたしったら言われないと分からなかったの。明日寝坊すると分かっていたって、どうせ寝るしかないのに」

 ゴールデンウィークを迎えると、計助とちぢりは二人して、隣接した鳥羽市へ出向いた。佳織の家は、ちょうど双方の市境にある。四方を山に囲まれて、海とは無縁の、山の中といって差し支えない緑の世界だ。空と山以外に見えるものがなく、山に閉じ込められたような錯覚に陥るとは、ちぢりの言葉だ。「緑と青だけで、世界って作れるんだ……世界って思ったよりも単純で、すてきな複雑さをもっているんだね」

 無人駅を過ぎ、小さな集落の掲示板を脇に折れると、石垣だらけの狭い路地になり、歩行者がどく場所もないような直角カーブを曲がったなら、もう佳織の家だ。砂利に車を乗り入れたなら、門がきしむ音をたて、奥から佳織とご年配の老人が歩いてくる。

「なんや、やっと佳織が男を連れてきたおもたら、子連れかぁ」

「じいちゃんは、ちょっと向こう行ってて。わたしが招待したのは、その子供のほうだから。おっきい方はおまけよ」

「おまけで悪かったな」

 笑いながら股引(ももひき)姿で去っていくさまは、これぞ田舎(いなか)とでもいおうか。年配者は母屋へと歩いて行き、計助とちぢりは佳織に連れられて、手前の新家へと案内された。

 佳織は女性の中でも長身で、バレーボールをしていたからだろうか、笑顔にもスポーツ選手特有の不敵な迫力があった。ちぢりは正面に立つと圧倒されたらしく、ぎこちない礼をした。

「はじめまして、佳織さん。わたしが、ちぢりです」

「あらちぢりちゃん、(うわさ)どおりの可愛い子じゃない。計助くんところに飽きたら、いつでもわたしのところに来てね」

「飽きるとはまた、人聞きの悪いやっちゃ」

 計助との意思疎通がままならぬ数日のやり取りが尾を引いていることもあってか、ちぢりは恐縮しきった様子で、言葉づかいもたどたどしかった。と同時に、計助がこんなにもくだけて会話することがあるのかと感心してもいた。気を立ててはならぬとどこかで怖々と接していた今までであったが、本当の彼というのは何も特殊ではなく、こうして笑いもするし冗談(じようだん)を言い合うことだってするのだ。それはまた、二人の距離の遠さを暗示しているわけでもあるのだが。

 一方で佳織も話をしながら、ちぢりに激しい違和感を持っており、一目で分かるほどのおかしさがどこにあるのか、頭からつま先まで舐めるように見ることで、ようやくそれに気付いた。

「裸足?」

「いつもは危ないからって計助さんに止められているんですが、今日だけは認めてもらえたんです。砂利はちょっと痛いですが……ちゃんとお宅にあがるときにはふきますから。……あがってもいいですか?」

「健康的でよいことじゃない。お気にせずに」

 計助は危ないからと素足になることを禁止していたが(そもそも止める必要があること自体が彼には驚き他ならなかったわけであるが)、今日はちぢりの異端さを見せつける当て付けも兼ねて、裸足でいることを認めたのだ。嬉しさが先んじたちぢりは、砂利の痛みも楽しそうに、足をふみならした。

「土があるのに、素足にならないなんてもったいないと思うんです。ここの砂利なんて、まるで楽器みたいで、わたしの足が鳴っているって思うと、今日一日この上を歩いて作曲したりしたいくらいです。お歌を幾つも作れそう」

「あらま、それじゃわたしと計助くんは家の中からそのさまを堪能しましょうかね?」

「えと、わたしもよければごいっしょに、中に入りたいです」

「冗談よ、ちぢりちゃんが来てくれれば、大きい方はお帰り願ってもいいくらいだから」

「もちろん計助さんもいっしょがいいです」

「あら真面目なのね、それでよく計助くんの相手ができるもんだわ。気苦労も多いでしょう、その年でご苦労さまね」

 計助の当て付けは、不発に終わったと言っても差し支えないだろう。佳織は上手くちぢりをいなして、家の中へと導いた。計助がいっしょじゃないと楽しさが半減するという少女の言葉で計助をからかうことを忘れもしなかったが。

 (たたみ)張りの部屋に入ると、座いすに座布団(ざぶとん)を引いたところに腰かけるよう案内された。ちぢりは興奮やらしゃっちょこばるやらで、座いすの上で正座をして、計助に嫌味を言われてしまう始末だ。

「ちぢりちゃんの好きな格好でいいのよ、計助くんは何かと言いたがるの。自分の世界から口をだしてくるから、好きなスタイルっていうものを認めてくれないのよ」

「そんなに頭固くもないだろ」

「いいえ、かっちかちです」

 二人のそんなやり取りを見て、とうとうちぢりも相好(そうごう)を崩して見せた。そして座いすの上で、体育座りをして、口元を隠す。

 ここ最近、謝って恐縮してばかりいたちぢりが久しく見せた自然な笑顔に、計助は目を開かされる思いだった。そういえば彼女はこうやって笑ったんだと、たった一ヶ月にしてどうしてこの笑顔がなくなっていたのかと、衝撃的ですらあった。

「お二人って、すごく仲がいいですね。お互いに名前で、くん付けなんかで呼んでますし」

「仕事場って同じ名字ばっかりで、やっぱり地方の人たちが集まると、ねぇ。だから昔っからの名残(なごり)っていうのかな、計助くんとだって歳が十五も離れているんだけど、そうやって呼んじゃうの。そんでもって、無礼講ってね」

「ほやから、特別こいつと仲いいわけやないで」

 計助の否定も、この場ではなごます効果しかなく、ちぢりはまた、何故か恥ずかしそうにはにかんでいた。

「なんだか、(うらや)ましい、なんて思っちゃいます。わたしなんて一カ月もいっしょにるのに、その、当然なんだけど……計助さんも、楽しそうに笑っちゃうんだって、今気づかされた気がするんです」

 計助にとっては意外な言葉だったようで、恥ずかしさよりは、驚きのほうが勝った。ちぢりには、どこかに怯えであったり、恐怖であったり、何かしら意思疎通できぬところがあって、それを計助以上に彼女自身が感じており、彼のことをよく見ようとする余裕などないだろうと思っていたので、意表をつかれた形だ。ちぢりはとっくに、計助と価値観を共有したり、思いの内を分かち合ったりという疎通については諦めており、一刻も早く東京に帰りたがっているだろう、と考えていたのだ。

 そんな言葉が聞けただけでも、佳織との会合に収穫はあったと、言葉にこそしなかったが計助は満足だった。じりじりとしながらも、不器用にも互いに近寄る意思はあるのだ。

「なんだ、よく分かってるじゃないの。計助くんは、口が悪くて考えもかっちかちで性根はどうしようもないけど、それもこれも不器用な愛情の裏返しなんだって。外から来ると、方言とかで言葉もきつく感じるでしょうけど、心配は無用みたいね」

「ありがとうございます、わたしだって、それが分からないくらい間抜けでもないです」

()めるなら、中途半端にせずにちゃんと褒めろ」

「えと、その、口が悪いとかじゃなくて、その……不器用な、えっと……」

「ふふ、計助くんの照れ隠しがでたじゃないのさっそく。不器用なんだから」

 佳織にかかっては、計助も形なしだ。一方で、ちぢりもずいぶんと気持ちがほぐれてきたようで、この新しい女性に()かれ始めてもいた。人間だれしも、好かれている人と話していて悪い印象を抱くことはなく、また、自分を受け入れようとしてくれていればなおさらだ。佳織は解きほぐすようにちぢりに話をさせるし、ひとまずすべての考えを受け入れる所からはじめた。これはちぢりにとっては初めての経験で、同い年との付き合いではとても見いだせぬ、大人としての度量の大きさと、佳織自身の興味の深さを物語っていた。

「こいつは、ここに来るときだって、青と緑で世界が作れるとか何とか言っとったんやでな」

「それは、その、言ったけど……」

 計助が勢い余って失言をしたところで、佳織は上手くそれを拾い上げ、ちぢりから引きだす方法までを知っていたのだ。

「言われてみると、本当にそうね。こっちの方は木と空しかないんだから。でも、緑や青色って言ったって、色は一つじゃなかったでしょ?」

「うん、うん、たくさんあったの。こっちに来て、朝日を見ている時なんか、葉っぱが輝いていると緑色と金色ってこんなにも紙一重な違いしかないんだって、今まで知らなかったことにショックを受けたんです。色って不思議で、特に赤色に多いんですけど、絵画や景色の赤色って、稀にすごく怖いくらい鮮明な色合いだったり、吸い込まれそうなときがあるんです。その色に顔をうずめたなら、なかにはまったく同じ世界が広がっていて、まったく同じわたしがいてこっちを見ているんじゃないかって思えちゃう、恐怖にも似たくらい奥ゆかしい重圧感みたいなの。血、みたいな連想なのかな、とっぷりとして生温い感じです」

「あー、わかるかも。確かに赤色って、たまに鮮烈すぎて怖いことってあるある」

 実際のところ、佳織は気を使っていたわけではなく、この中で一番気兼ねなく楽しんでいたといっても過言ではあるまい。ちぢりは彼女の期待を裏切るどころか、あらゆる点で超えていたのだ。童顔染みた大きな目や、小柄で赤い(ほお)、嬉しさを隠せずに控えめに笑って見せるいじらしさなどの姿は愛くるしいと思わせたし、物事の捉え方や考え方は飽きることを許さなかった。

 計助の中でも、新しい発見はあった。ちぢりの興味の対象が、自然的なものだけでないということは、一カ月以上経ちながらも初めてみた気がした。よくよく考えると、計助は彼女の考えを引きだす術を何も持っていなかったのだ。

「そういえば教師をやっている友達がいるんだけど、その人がゼロを教えるのはたいへんだって言ってたの。だってさ、物がないんだよ。ひとつもないことを、どうやって表現すればいいか、ないものを説明するなんて難しく、すごく不思議な数だって言ってた」

 佳織がそんな問題提起をし、なるほど確かにと計助は頷いた。何もないのに、ないということを呼ばないといけないのだ。何もないのに、これがゼロだと言って、どれがと聞かれたらどうすればいいのだろうか。

 すると、ちぢりの肩が震えて、口元が引きつっているのがわかった。どうやら興味がある話題らしく、いっしょに話ししたくて仕方がないといったふうだ。

「ちぢりちゃんは、ゼロについて、不思議だと思ったことはない?」

 あるに決まっている、彼女はすぐに振り向くと、紅潮した頬を緩ませてはずんだ声で語りだした。

「うん、数字って、全部同じようにも思えるけれども、すべて違うってだけでもすごいことだと思うの。だって、千と千一は違うんだもん。そんな中で、わたしは数字なら九百かもしれないし、マイナスや小数点、分数かもしれない。でも、ゼロって人間にも存在しないと思うの」

「ほう、つまり俺もおまえもゼロではないと?」

 計助はまた突拍子のないことを言いだしたもんだと気だるげに口をはさんだなら、佳織から鋭い目でねめつけられ、(あき)れたように口を結んだ。

 しかしそういった反応をくれるというだけでも彼女には相当嬉しかったようだ。ちぢりは笑顔を強めて、計助のほうを向いた。

「だって、数字なんて幾つあるか知っている人がいたら神さまくらいのものなのに、その何千何万の何千何万倍でも足りないくらいの数字の中で、唯一、掴むことができる数がゼロなの。こんなにすごいことがあるかな、世の中のたったひとりよりも、人類の歴史上のどんな偉人よりも、ずっとか驚いていいことじゃないかな。ほら、手を握ってみて、その中にはゼロがあるの。わたしたちは、数字を掴むことができるの、数字は概念で存在しないはずなのに、掴むことができるの! そしてその存在を、誰もが知っているんだから」

 興奮気味だった彼女の言葉に何を返せるだろうと、計助は茫然とした。何を言いだすのだと、佳織以外の人前だったなら途中で怒鳴って止めていたかもしれない。その反応が水を差したか、ちぢりは興奮した自分を恥じいるように下手な笑いで誤魔化して恐る恐る佳織を向いたわけであるが、向いた先の女性は嬉しそうに、興味の顔で少女を眺めていた。

「ゼロって、幾つ足しても、ゼロだもんね」

 その言葉がどんな意味を持っているのか計助には分からなかった。言葉の内容には意味などなかったかもしれない、中身など何でもよかったのかもしれないが、ただ言葉を放ったことに助けられたとばかりに、ちぢりは何度と頷いて、一層頬を赤くした。

「さ、ちょっとお茶を入れ直してくるね。次はローズベリーの紅茶にしよ、わたしのお勧めなんだから。香りでお腹いっぱいになっちゃうわよ」

 佳織がいなくなるとすぐに、ちぢりは小さな声で、語りだした。

「わたしって、これまで、女性らしさって清楚(せいそ)だとか、礼儀正しさのようなものだっておぼろげに思っていたの。でも、今日、その考えがまったく変わっちゃった気がする」

「反面教師やな」

 計助はすぐに否定してみせたが、彼女は嬉しそうな相好を崩すことはなかった。

「でも、佳織さんってすごく魅力(みりよく)的で、わたし、佳織さんみたいになりたいって(あこが)れちゃったの」

 真面目に続けるものだから、計助も口をすぼめながらそっぽを向いて、ふざけることを止めにしたと態度で示した。

「ま、あいつに憧れるのはええと思うぞ。悪い奴やないし、俺かて今日だけで何度か見直したわ」

 計助の褒め言葉が相当意外だったのだろう、本人の前で表立っては言わない人間なことはもちろん、簡単に褒め言葉をださない人間であることも同時に覚えたちぢりにとっては、それは自分があこがれた人の肯定という嬉しさや喜びに交じり、小さからず嫉妬(しつと)を覚えさせるに十分だった。


  右からわたしを見たって 左の側から見たって

  そんなに違いは見つからない


  でも色ときたならば

  右から見ても左からでも いつもどこでも同じ顔


  なのにどうして

  太陽は赤色で 星は黄色く 信号は青いのだろう

  わたしはそれらが そんな色なの みたことないの


  わたしと他人の 目線では

  わたしの顔を 前から見るか後ろから見るのかくらい

  決定的に異なっているに違いない


  だから わたしの好きなあの人は

  わたしばかりが知っているあの人なんだ

  他の人らの知らぬ姿を わたしは独り 占めているんだ

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