六 「がんばれ」
計助は、その噂を聞いて真っ先にちぢりを疑ったし、確信していた。
「昨日な、恵利原の橋んとこで、欄干を女子高生が綱渡りみたいに歩いてんだわ。ほら、アメニティ公園に繋がる、高架のたっかいとこあるやん。危ないやらスカートが云々やらで見とれとって、危うく事故するところやったわ」
恵利原は、高校と家を結んだ真反対の地区のことで、普通に考えれば登下校で通るわけのない地域であるが、ちぢりの行為の無謀さと、また、歩きによる異常なまでの行動範囲を知っている計助にとっては、十分すぎる情報でもあった。佳織がくすりと含み笑いをしているのを見て、やはり彼女も同じことを考えたようだ。
「ショートカットの子やろ、髪が肩くらいの子ちゃう? わしも見たで、河原で地面にひれ伏しとぉ子がおったもんで、珍しいなおもて通り過ぎたんやけど、一時間くらいしてまた通ったら変わらん恰好でまだおってさ、寝とるわけでもないし、なんや不思議な子やなおもたわ」
そうしてその日、謎の女子高生がいるという話題は、田舎の小さな役場を風靡する最高の話題となった。内容は様々で、真上を向いて歩いていたとか、制服のまま田んぼに入っていたとか、歩道で膝をついていたとか、何せ奇行が目立つその少女の話は次から次に目撃例がでてきては、これから見に行こうと言うものがでる始末だ。傍目でいてもこの有様だ、もし当人と出会い、不可思議な発言の数々を聞いたりでもしたなら、一体どれだけ話題の糧となってしまうのか、計助はうら寒さまでをも覚えた。
放課後にちぢりが何をしているのか、詮索することははばかられたが、気にならないというと嘘になる。自分の子供のことを過剰に知りたがるようなもので、不可能なことを承知で余すところなく情報を仕入れようとする過剰な親心のようで、計助は干渉を拒むこととのしのぎ合いを繰り広げていた。
朝、相変わらず早く起きてくる彼女が朝食とお弁当を作っているとき、計助は何気なく聞いてみた。
「なあ、毎朝こんなに早く起きて、早く家を出て、いつまで続くんや?」
半分冗談混じりな聞き方となってしまうのは性分か。
「計助さんは、太陽が昇らなかったら、なんて心配で寝れなかった夜なんて、ない?」
あまりにぶっ飛んだ話だ。返答の言葉を見つけることができないでいたが、ちぢりは気にせずに、うるさいキッチンタイマーを切って続けた。
「太陽って、昇ったならみんながお互いにおはようってあいさつをするのに、太陽だけは誰にもおはようって言ってもらえないんじゃないかな。自分が太陽だったらって考えると、自分だけ取り残されたみたいに寂しくなっちゃって、毎朝ちゃんと起きないとって使命に駆られるの。まずは太陽にあいさつをして、次に植物や、空気や、風景におはようってあいさつをするの。夜、太陽が道に迷っていて、朝時間どおりに昇らなかったらどうしようとか、いつもと同じ軌跡に飽きて寄り道しないように、わたしは太陽といっしょに、毎日を寄り添いたいって思うの。太陽はわたしがどこにいても、光を届けてくれるから、わたしは感謝をしたいし、なるべくいっしょにいたいの。太陽が昇らない日が来るまでは、頑張りたいな……それに日の出ってすごく圧巻でね、空がだんだん色を失っていって、天使が指でなぞったみたいに山の縁取りが太く輝くの」
返答の言葉を、必死になってどれだけも探したが、完全に置いてきぼりを食った形だった。感想を言うこともできず、同調もできず、かといって否定などもってのほかで、計助は適切な言葉や思想を持ち合わせていなかったのだ。
「でもわたしは、月が嫌いってわけじゃない、それは勘違いしないでね。三日月に厚みがあるのかとか、一番星になるために競争している星たちとか……」
計助の無言を勝手に解釈し、慌てて弁解しながら振り返ったちぢりは、計助のこわばった表情を見て、すぐに話をやめて、顔を赤らめながら愛想笑いをして見せた。またこうして彼女は一歩退いて自分を隠し、保守的になっていくのだ。分かっているが、計助には一向に歩調を合わせられることができなかった。あわよくば話を色々と繋げて、放課後何しているかにもっていこうと思っていたのに、すでにそんな思考はそげ落ちてしまい、諦念にも似た感情に支配されつつあった。
それから一週間ほど、計助は同じような失敗を繰り返し続けた。理解しようという思い、考えを探ろうともするが、すぐに表情にでてしまい、その度にちぢりはすまなさそうに謝って、心の底ではしゃべってしまったことへの後悔をする、そんな非生産的なやり取りばかりだ。なるほど彼女の母親の心配は、的を射ていたわけだ。
社会人と学生、それぞれの生活が始まったことで、見えない部分が多くなり、二人の距離がじわじわと開いていくことを痛切に感ぜさせられていた。
とうとう、計助は自分でどうすることもできないことだと音をあげた。
「ちぢりに、会うか?」
佳織はその誘いを待っていましたとばかりに喜んで、すぐにも請け合った。
ゴールデンウィークに会うことに決め、ちぢりにその旨を伝えたなら、喜んでいた。
「ね、計助さんって、その人のこと好きなの?」
余計な詮索については、基本的に無視していたが。
四月の下旬、地方でも一大イベントとなったランニング大会があった。パーティ・ランニングと銘打ったそれば、参加者は今や八千人を超える規模となり、県内外からもこぞって人が寄り集まる。
ちぢりとの価値観の違いに困っている計助であるが、計助たちが一般市民と最も価値観の相違を感じられる部分といえば、それはイベントごとに相違ない。地元の祭りといえばおめでたい印象がいちばん先にはしって心が奮い踊る人も多かろうが、こと地方の公務員となれば出動ばかりで、大きいイベントごとであればある程、準備にボランティアにとてんてこ舞いだ。
ランニング会場はスペインパークというテーマパーク全体を使うが、長い距離では県道までもコースに使用する。計助は、ちぢりに家の前の道がすべてランニングコースで通行禁止になる旨を伝え、当日は散歩を禁止した。彼がボランティアで家にいないこともあって、無用な心配ごとを避けたいのは必然だろう。
計助は朝一から駐車場の警備を行い、昼からはゴールでタイム測定のチップ回収係をおこなうこととなった。昨今のランニングブームだか知らないが、山しかないような全国屈指の過酷なコースを運動とは無縁そうな人たちがぴょこぴょこと走るさまには恐れ入る。中にはもう足が上がらないような限界の体でゴールにかけ込む人の姿もあった。
本土でも雪に見舞われることが少ない、暑い地域だ。潮風が生ぬるくべとつくこともあって、からりという晴天がほとんどないだけに、走る人たちも不気味なほど汗を垂らしながら走っていた。中には急勾配に負けたか、腰を押さえながら歩く人たちも多い。
ハーフマラソンの部では、最後はほうほうの体でゴールする人たちをねぎらいながら、チップを回収する。
「おつかれさまです、このコースはえらかったでしょう?」
「ほんとに、こんなえらいコース、よう作ったもんやなぁ」
「毎年言われますわぁ」
全国各地の人たちと、適度に話ししながら、完走を祝う。歩きながら息の上がりきった人たちも多く、ランニングの趣味がない計助にとっては、どんな挑戦根性ももの好きな人たちだという認識でしかなかった。
「途中、いっちゃんえらいところで、女の子が応援してくれたから、もう無我夢中でここまで来たよ。……ああ、えらかったぁ」
そんな中、聞き逃せぬことを漏らす人がいるものだから、最近過敏になっていた計助は、恐る恐る、詳細を訪ねてみた。
「湾にでて、くだり坂からの平坦でヒィヒィいうところに、女の子が一人いてね、なに、ずっと応援で叫んでくれるんだ。『太陽も、風も、ずっと走り続けてるし、わたしもずっと応援しているから、頑張って』ってさ。ちょうど給水もなければ誰の応援もないところでさ、わしの姿が見えてから、見えなくなるまで、ずっと応援してくれるもんだからこっちだって気が抜けないし、絶対ゴールしなくちゃって思ってさ。あの子が今もまだ応援してるかと思うと、足を止められんかった」
小さな体を精一杯飛び跳ねさせて、何千人という絶え間ない行列が往復で通る、果てのない応援作業をこなす彼女が、容易に想像できた。その特異な応援は、疲労に屈しつつあるランナーたちにはたいへん受けが良かったらしく、ゴールしてから話しあう人たちに耳を傾けたなら、色々なバリエーションを聞きとることができた。
「一歩ごとに、地面がありがとうって言ってるのが聞こえてくるね。寝転ぶお父さんの背中を踏むように、いっちに、いっちに!」
「一歩一歩、本当にたいへんだと思う、でも、その一歩一歩があるからこそ、ゴールの喜びって大きいんじゃないかな。ランニングって、小さな喜びを積み上げることなんだね」
「どっくんどっくんって、心臓の音が秒針だったら、自分だけ、周りのみんなを置いていって早送りになった気がするよね」
「えらくなったら、海の上を走ってるって考えてみて。ほら、また一歩足を踏みだす力がわいてこないですか?」
「風が吹くと、わたしなんかの応援がかすんじゃうくらい元気がもらえるよね。追い風なんてみんなの背中を一気に押すんだから。向かい風のときこそ、風を抱きたいって思うんだから」
「走っていると、わたしが地面をけってるんじゃなくて、地面がわたしをけってるんじゃないかって疑問にならないかな。わたしが思っているよりも地面はわたしのことを好いていてくれて、地面が味方ってことは、何よりも心強いことじゃないかな」
応援か感想か、訳の分からないことばも多々見受けられたが、一貫して誰かに話しかけ続けていたようだ。そして、手を振ってやったなら、嬉しそうに飛び跳ねて両手を大きく振ったり、顔を赤らめて肩をすぼめたりして、見ているだけでも飽きないとみんなが口をそろえた。往復で通る場所であるだけに、往路の者であれば復路を楽しみに頑張れたと言っていた。
これが彼女の力だとすれば、計助が思っている以上に笑顔と幸福をばらまくことのできる、すばらしい魅力の持ち主ではないだろか。この能力をもっとうまく伸ばせることはできないだろうか、計助は彼女の魅力を伸ばしてやるべきなのだと、深く思うところがあった。
家に帰ったならば、声を嗄らせて、玄関先に座り込んでいるちぢりがいた。
「もう、応援する相手はおらへんやろ」
「応援する人は、いつでも、どこにでもいるよ。おつかれさま、計助さん」
やはり、計助はもっとちぢりのことを理解せねばならないし、認めてやらねばいけないと、使命を感じた。確かに人とは違うし、価値観だって大きくずれていることは否めない。それでも彼女は、無償の愛を振りまくことにかけては、誰にも負けないほど自信をもってもいいはずだ。誰もに好まれてもいいはずだ。
そんなときほど自分がどれほどふがいなく、彼女がきわめてもったいない存在であると、もどかしさに苦しむこともありはしない。彼女と向き合うということは、一つの試練のようにも感じられるのだ。
風、吹かず 木、静まり 鳥、止まり
空気すら制止した場所があるとして
足を一歩踏みだせば
風が作られ 耳を鳴らし
幾千人が駆けだせば
幾許の 風と 音と 力がほとばしるのだろう
地響たるや 地球を揺らし
轟音たるや 地球を震わし
息遣いたるや わたしを昂ぶらせた
「がんばれ」