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ちぢり感覚  作者: 等野過去
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三 おうむ岩

「地方の桜は恥ずかしがり屋さんなんだね」

 朝食を食べながら、ちぢりが真っ先にした発言は、それであった。朝早くから目を覚ますと、散歩に行くと言って家を出たっきり、計助に一時間半ほど待ちぼうけを食わせた。食事を準備して待つところにようやっと戻ってきたなら、ゆっくりと牛乳を飲んで、開口一番がこの言葉だ。

「その心は?」

「都会の桜って、整然としているの。運動会で生徒が並んで隊列しているような、組体操みたいなきれいさなの。わたしたちが集団で行動したり、ぴっちりと詰まった本棚だったり、ケーキに等分に置かれたいちごだったり。でもここは違う、たくさんの緑に囲まれていながら、まるで輝く宝物みたいに、一本、一本が離れているの。それって夜空に輝く月と星でね、静かにひっそりと、でも確実に主張しているの。自分だけでなくって周囲全体の鮮やかさを際立たせるためにいるみたいで、一面全体が額縁なの」

「森が夜空とは、豪勢なやっちゃな」

 言うと、今度は恥ずかしそうに首を振るって、必死に否定しだした。

「ごめんなさい、もちろんそれは空の青さだって必要だし、それ以上に緑が鮮やかだから、だから浮き立って見えるの。桜だけが輝いているんじゃなくって、緑があって、青があって、そこに浮かび上がるから、広いキャンパスがその一面にあるから、すべてがそろってはじめて星空になるの。ねね、わたし、十七個も見つけたんだけど、それ以上はもう色がわかんなんくなっちゃって、目が回ってきて倒れそうだった」

 計助はトーストをほおばっていたため、言葉をださずに唸るように返すと同時、疑問の目を向けてやったなら、ちぢりは勝手に続けた。

「緑色って、こんなにたくさんの種類があったんだって、本当に目を見張ったんだから。黄緑、緑、深緑、萌黄、若葉……足りないの、十七個以上もあると、表現できる言葉がことごとく足りないの。緑と緑で立体感がだせるの、たくさんの種類の広葉樹と針葉樹が、山を彩って、そこに桜があるんだけれど、桜だけに目が捕われなかったの。だって、桜よりも木々のほうが彩り鮮やかなんだもん」

 興奮は依然として冷めやまず、まだまだしゃべり足りない様子だ。なるほど、よく一時間半で散歩をきり上げたな、と評価しなくてはいけないのかもしれない。

「歩いてもあるいても歩きすぎることなんてないの。東京にいたときだって雲を追いかけて隣の区まで歩いちゃったことがあったけれど、ここにいると空が広いから雲だってずっと鎮座していてくれるし、目が忙しくて回っちゃう」

「でも、車も少ないし、歩くにはええとこやろ。歩道が整備されてへん所だけがあぶないけどな」

「そうよね、ね!」

 するとまた地雷を踏んだようで、水を得た魚のごとく、ちぢりは語りだす。

「静かって、わたし、寂しいものだと思っていたの。都会はどこでもうるさくって、人の声、車の音、何もかもがせわしくて、音がなくなるとまるで取り残されたみたいに感じちゃうからわたし必死に言葉をだしていたって今では思う。でも、ここにきて、静かなことの本当の良さを知れたんじゃないかな。自然の静かさは本当の落ち着きをくれるの。四分三十三秒間なにも演奏しない音楽があるって聞いたことがあるけれど、確かに音楽に楽器が必要というのは人間の勝手な認識だっていうのがよく理解できたの。自然の演奏にはそのときだけの、自分だけのとっておきのささやき声なんだもん。わたしだけが、わたしだけの方法で、風や、鳥や、そして物音について受け取ることができるんだから! 一人の人生なんて、曲の一節にも満たなくって、すべてを聞けないなんてすごく残念なお話。いつかわたしは、静寂を聴けるようになりたいな、静かなときこそ、耳をすませられるようになりたい」

 ちぢりの高揚はおさまるところを知らず、計助が食事を終えても彼女の食器は一度も手をつけられることがなかった。

「こっちの影はね、木や草や鳥が作っていて、魂がこもっている生き物なの。風が吹けば形を変えて、柔軟に、微細に、さやさやって、まちまちに姿を変えるの。わたしがその仲間入りできると思うと、動かずにいられるわけがないじゃない! 東京なんかじゃ角ばった豆腐みたいな不動の影ばっかりで、まるで線引きされているみたいな気持ちにさせられたけど、動く影って本当の姿をこれでもかってくらいわかりやすく示しているから、わたしは下の影を見ればいいのか、上の本物を見ればいいのか悩んじゃって……目が縦に二つ付いていれば、きっと悩まなくてすんだのかもしれないのにな」


「地上が明るいと星が見えないって本当だったんだ。同じ地上だなんて嘘みたいに星がたくさん輝いていて、空が広くて、宇宙っていうキャンパスに輝く砂を一面にばらまいたみたいで、星との距離が分かるみたい。ううん、手を伸ばせば、掴めるんじゃないかって思うくらい近かったの。それにね、昨日だけでも流れ星を三十個も見たんだから! 一日起きていたらきっと、願いごとの方が追いつかなくなっちゃうの」

 昨晩はよく眠れたかという質問は、ちぢりにはよい呼び水となったようで、また次々に言葉が飛びだした。

「何より驚いたのが、空が青かったことなの。真夜中で近くに外灯もないのに暗くなかったの、海に空が映っているの、地上に光がないのに、ううん、ないからこんなに明るいんだなんて、東京じゃきっと誰も信じてくれないだろうな。夜にできる影の美しさったら!」

 長々した食事が終わると、計助は山の手にある、桜が植樹された場所を思いだして、ちぢりを誘ってみた。いっしょにいると苦痛なのが正直なところであったが、だからこそある程度互いのことを知りあう必要を感じていたし、面倒を見ると決めた以上気真面目な彼はしっかりと子守りをする責任感だけは持ち合わせていたのだ。その上で、話をするきっかけや題材があるに越したことはない。

 発案自体はちぢりに受け入れられたが、あろうことか彼女が五キロの道のりを歩いて行こうと言いだすものだから、ひと悶着(もんちやく)あった。計助としては田舎(いなか)の地方公務員という職業柄、地域の人々と顔見知りであるので目立つ行動は避けたく、とても承諾できる提案ではなかった。結局は歩きだったらやめにすると、計助が子供じみた言葉をだしたことで、渋々彼女を説き()せる格好となり、一方で彼は大人気ない自分に気恥ずかしさを覚えることとなった。

 春先の田んぼには水が張られており、作業が始まりだした原風景を左手に眺めながら、大きく道を婉曲(えんきよく)し、曲がりの途中で右手の山へと車を旋回させた。すぐにも道は山道に入り、車は急斜面にエンジンの音を叫びあげる。するとみるみる間に(やぶ)に入り込んだが、また少し走らせれば車内からでも町を俯瞰(ふかん)できる全景が広がった。少し登るだけで、こうして町の全体が覗ける。家の前に広がる湾までが眺められて、ちぢりは興奮冷めやまなかった。

「都会って、壁ばかりの世界なんだって実感するの。ビルが立ち並ぶばっかりで、十メートル先だって分かりもしないのに、ここは違う。背伸びすれば家の裏側までがのぞけるような気持ちにさせられるの。それに都会は直角で、わたしがどれだけ歩いたって、直線と垂直が交錯するだけなの。でもここは違う、まばたきしていたら幾つも道を見逃しちゃうし、歩いたところが道になっていく。方角もごちゃまぜになったみたいで、右と左が分かんなくなっちゃいそう」

 車はいよいよ急勾配を登りつめ、桜の植樹された並木道に差しかかった。桜の合間から覗ける町の景色は、祝われているように立派なものであると、植樹に携わった計助は誇り高く思っていたが、一方のちぢりは表情に乏しかった。

「わたしの知っている桜、かもしれない。なんだか窮屈(きゆうくつ)で、体が浮き上がるような、変な感じがする」

 計助の感覚でちぢりと共感を得るには、あまりに大きな隔たりがありそうなことを痛感した。これがきれいでなくして、なぜただの田園をきれいと思えるのか、それを理解するのはあまりに困難だった。両方きれい、または両方興味がないのであれば分からないでもない。それぞれにそれぞれの良さがある、という言い分だって受け入れられることはできるが、そうでもないのだ。

 おそらくちぢりの中ではそれぞれにそれぞれの良さがある、という認識なんだろう。どちらに善し悪しがあるわけでもないのだろうが、それにしても計助とはあまりに対極的な感受性だった。

 感覚の相違が場の空気を重くしたが、そのまま車を走らせて町内でも一番の眺望スポットに車を止めて、二人して町を眺めたなら陰険な空気など一気に吹き飛んだ。標高はたかだか百二十メートルに満たない程度で、周りから見ても特段高い位置ではないが、中腹の突端からの眺望はすばらしく、湾に向かって伸びる低地から、湾をぐるりと囲む町並みまでが一望できた。

 ここにはちぢりも満足したらしく、突きだした岩の上で嬉しそうに体を震わせた。

「ほら、あれが家の前の湾で、伊雑(いぞう)(うら)っていうんや。んで、俺らの家があの辺りやな」

「はるばると見渡せるし、お空が、こんなにも高いものなんだって。世界の裏側まで見渡せるくらい広くて、わたしが小さくなったのかな、ここに上っただけで小人になったみたいなの」

 ようやく互いに納得しきれたので、しばらくその場にいた。彼女は一度「やっほー」と叫び、声が何段にも重なってかなたまでかすんでいくのを見送るようにずっと正面を眺めていた。

 巨大な岩を迂回(うかい)するようにおりていくと、岩に寄り添うようにして、座って会談できるような広場があった。もう少しくだると、次は石造りの小さな建物がぽつんとあった。ちぢりははじめ、お手洗いかと思っていたが、入口は細長く小さな所だけ、窓もない不思議な建物だった。

「さっきまでのぼっとったあのでっかい岩はおうむ岩っていってな、ここから声をだすと、この小さな入口から音が出て、岩の壁に跳ね返って広場に届くんや。あたかも岩がしゃべっとるように、な」

「こんなに距離があるのに、本当?」

「試すか?」

「もちろん!」

 渋々計助は石造りの建物の中に入った。窓もない暗い空間に、こじんまりと座る場所だけがある。すし詰めになっても三人くらいの余地しかなく、一人ですら狭苦しい空間だ。わざわざかける言葉も思いつかず、小さな声で「聞こえるか?」とだけ話した。

 十メートルほど斜面を登ったところにいるちぢりを見ると、そのにこやかな顔が、届いたかどうかを物語っていた。そして何を話すでもなく、次は自分の番だと斜面をかけおりる。正直なところ、岩壁で跳ねかえって聞こえることを考えれば、よほど互いの直線距離のほうが短く、仮に聞こえたとしても直接の声ではないか、と感じてしまう。小さい頃に試した記憶はなく、歳をとると夢のような話よりも現実的なことばかりに考えがよってしまいがちだ。

 しばらくその場にいたが、一向に声は聞こえなかった。しかしちぢりが出てこないことから察するに、まだ言葉をだしていないに違いない。正面に大きく切りたった岩壁は、山肌がむきだしとなっており、筋肉のようにおごそかな力強さを露出していた。

「もし、きこえたら、わたしを迎えに来て、笑って」

 ふと、声が届いて驚いた。風がないからだろうか、思いのほか声がしっかりと聞こえたことに、なるほど名所と(うた)うだけはあると感心し、また、厄介(やつかい)な命令が入ったことに苦笑いがでることとなったのだ。

 斜面をくだり、石造りの中にいるちぢりを見たなら、計助は口元だけほのかに笑んで見せた。

「これでええか?」

「ありがとう」

 あまり笑った顔を見せていなかったのだろう、ただそれだけのことだったが、ちぢりは満足したようで、嬉しそうに腕をからませてきた。この歳になってそんなまねをされると思っていなかったが、うろたえるのも(くや)しく、黙ってそっぽを向いて気恥ずかしさを紛らわせた。

 ちぢりは嬉しそうに鼻歌を歌っていたが、聞き場に来たとき、足を止めて懇願した。

「少しだけ、お時間をもらってもいいかな」

「ああ、せっかく来たんやから満足いくまでおれよ」

「ありがとう、甘えさせてもらうね」

 言うと、ひょこひょこと歩き、通称おうむ岩の壁際に立って、大きく見上げた。その姿勢で止まると、不自然なほどに微動だにしなかった。計助はもどかしく思うも、音をたてることもはばかられ、なるほど散歩が長時間に及ぶわけだと納得しながら、その後ろ姿を見ていた。まるで自然と調和したように動かない彼女は、どこか遠く精神の世界に旅立っているようだ。

 安請け合いは、十数分にも及んだ。ゆっくりと見上げた顔を下げると、ちぢりは泣きそうな表情で振り返ったので、満足して嬉しそうな表情を期待していた計助はまた度肝(どぎも)を抜かれた。

「今度はなんや、どうしたん」

「ううん、なんでもない。ごめんなさい」

 話すことはないといった様子なので、二人して無言で駐車場へ戻り、車に乗り込んだが、エンジンをかけるころにはちぢりも元気を取り戻そうと躍起(やつき)になるだけの余裕をみせていた。

「本当に、ごめんなさい。変なことを思っちゃって」

「べつにええけど、あんま心配かけさせんなよ」

「ごめんなさい……でも心配って、してもらう側としては嬉しいものじゃない?」

「おまえの持論は知らん」

 言いながら車を走らせたが、ちぢりはおうむ岩についてもたくさんのことを悟ったようで、ひっきりなしに口を動かしていた。

「計助さん、伝言ゲームってあるけれど、人から聞いた話をそのまま他人に伝えるのって、本当に難しいことだと思うの。直接、面と向かって言えないことなんて、特に。おうむ岩って、これまで一体どれだけたくさんのささやきを聞いてきて、そして他の人に届けたのかな。ちゃんと、間違わずに伝えることができていたのかな? 一回くらい、違う言葉を返そうだなんて、いたずらを思わなかったのかな? 岩の中では、きっとたくさんの言葉が埋め込まれていて、スコップでもあてたなら『痛い』って声を上げるんだろうね」



  よべば応える ようせいのよう

  宙にむかって 呼びかけたなら

  空からそっと へんじがかえる


  石を声で ノックしたなら

  わたしがいるよと へんとうがある

  わたしはいるよ ここにいるよ

  わたしもいるよ ここにいるよ

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