二十三 家族
「佳織、お客さんがきとおで」
「分かりました」
打ち込み作業の手を止めると、一度伸びをして、窓口に向かったなら、ちぢりが笑顔で待ち構えていた。
「佳織さん、すみません、お仕事中に」
「別にいいわよ、とりたててすることもなかったし。ごめんね、今計助くんは現場に行ってていないのよ」
「こちらこそすみません、そう聞いたので、佳織さんを呼ばせてもらいました」
ちぢりが取り出したのは、母親の転出証明書と転入届だった。計助の案内の元、すでに記入済みのようで、軽く目をとおしたが過不足はなかった。
佳織は書類の処理を他の職員にお願いすると、改めてちぢりの前に腰かける。
「それじゃ、入力作業している間、ちょっとお話でも聞かせてよ。結局、お母さんがこっちに来ることになったんだ」
「あ、お仕事は……」
「大丈夫よ、だいたいいっつもこんな感じだから。混雑がなければ、田舎の役場なんて話し相手になってなんぼなのよ」
自分で納得するような素振りで語る佳織に、ちぢりもくすりとはにかんだ。
「そうですね、お母さんが折れる形でこちらに来ました。……だいぶわたしが強情になったから、諦めてくれたみたいです」
「そうでしょうね、ちぢりちゃんの強情さは折り紙付きだわ。計助くんすら動かすんだもの」
言われてしまうと分が悪い、ちぢりは頬を染めながらも、佳織がまったく憎めずに嬉しさすら感じていた。少し伏し目がちになっていたのだろう、佳織はちぢりのおでこに指先を触れると、悔しそうな表情をする、
「こら、そんな顔されちゃうと、お姉さんは胸が苦しいんだぞ」
お姉さんを強調するものだから、ちぢりも意図せず笑みが漏れた。佳織の空気は周りを自然に明るくさせる。どれだけ頑張って重苦しい顔を努めても、最後には屈服せざるをえないほどに彼女の雰囲気は底抜けに明るかった。 ・
ちぢりは口先を少しすぼめる。
「わたしは、計助さんって、佳織さんが好きなんだと思ってました。それに、佳織さんも計助さんのことを好きだって」
「へえ、なんだか女の子らしい勘ぐりじゃない。で、今はどう思ってるの?」
これが大人の余裕というやつなのだろうか、佳織はまったく驚く素振りもなく、逆に質問をするだけのおおらかさを見せられるほどだ。彼女の前では、やはりちぢりもまだまだ子どもなんだと痛感させられる。佳織を尊敬しているからこそ、その道程の遠さを見せつけられた。
「今は……分からないんです。二人とも大人すぎて、わたしだったら絶対相手のことが好きになっちゃいそうなのに、ぜんぜんそんな素振りもなくって。でも、互いがそれだけ近い場所にいられるってわたしにはできないことで、羨ましいです」
ちぢりの素直な言葉は、佳織のことを信頼しているからこそであり、たどたどしく紅潮しながらそんなことを言われては、愛おしくて仕方ない。佳織は口元をむずむずと動かした。
「最近は少なくなったけど、今でもたまにからかわれるんだから、わたしと計助くんが付き合ってるんじゃないかって。でも、ちぢりちゃんが来る前までは、わたしたちも特別仲良かったわけじゃないのよ。計助くんもあんなだし、朝と帰りのあいさつくらいで一日とおして仕事以外の会話がないときだってしょっちゅうだったんだから」
「そうなんですか? 今のお二人からは、想像できないです」
ちぢりにとっては相当に意外だったようで、大きな目を不思議そうに見開いていた。
計助と佳織がこうも話すようになったきっかけ、それはちぢりの転校手続きまでさかのぼる。計助としては、ちぢりが家にやってくることを職場に黙っていたかったが、転校に際して住民票が必要となり、住民票を発行するためには住所異動をせざるをえなかったのだ。そのときに、二人一組の昼当番で相方になった佳織に白羽の矢が立ち、彼女は唯一ちぢりが同居する事実を知る職員となっていたのだ。
計助が佳織を選んだことに深い考えがあったわけでもないが、約束が守れるほど口が堅そうで、かつお願いができるような間柄となると必然でもあった。年上に頼めるわけがないし、誰もに分け隔てなく話ができる佳織だからこそ、計助も信頼ができたのだ。
ただ、こうして一年あまりが経過した上で顧みたならば、他の誰かであったなら計助とちぢりの関係がこれほど綿密になれたとはとても考えられない。結果的に計助は最良の相手を選択したのだ。
それらの経緯があってこそ、今の計助と佳織の関係があるわけだったが、佳織はそれについてはちぢりに語らなかった。彼女としても、表にこそださないが、心の奥底ではちぢりの存在に悔しさや妬みを抱いているのかもしれない。
代わりに佳織は嬉しそうに身を乗りだした。
「それよりもわたしは、計助くんが、ちぢりちゃんを好きなんじゃないかなって思ったんだけどね」
ちぢりの反応は見物だった、顔中を真っ赤にしながら身を引いて、両手をせわしく掲げながら何事か言おうとするも舌がもつれ、二三言大声がでたなら周囲の注目を浴び、慌てて顔を伏せた。そして彼女としてははじめて、佳織に向かって恨めしそうな目を向けたのだ。
「佳織さん、いじわるしないでください」
「あら、ちぢりちゃんのまねをしただけなんだけどな」
佳織は飄々(ひようひよう)と隣のパソコンを叩いて、手続きが完了していることを確認した。晴れて計助は三人世帯となったのだ。
「手続きは完了したけれど……あらちぢりちゃん、そんなに慌てなくてもいいじゃないの」
今にも逃げだしたいばかりに立ち上がろうとするちぢりを引き留めると、佳織は座り直してもう少し話していこうと勧める。
「それで、お母さんの様子はどうなの?」
会話を戻されてしまっては、いつまでもふくれていられない。ちぢりは口先を突きだしながらも、どこか嬉しそうに、返答する。
「元気にしていますけど、わたしたちの生活に馴染むのにはもうちょっと時間が必要みたいです。よく『あなたたち二人を見ていると、わたしの入る余地がないみたい』だなんて言ってすねてます」
「お母さんにしてみればもどかしいでしょうね、ましてや計助くんがちぢりちゃんに染められちゃってるんだから」
実際、二人は毎晩互いに言葉を交わさぬ静寂の時間を設けていた。どちらからでもなく始められたこの時間は、テレビも音楽も消して、ただ二人で会話を交わさずにいるだけなのだ。すごし方はまちまちで、洗い物や洗濯をすることもあるし、本を読んだり宿題をすることもあれば、窓を開けて外を眺めたり互いに隣り合って座り考えをめぐらしているだけのときもあった。いつからか自然に作られたこの時間については、母親にしてみれば衝撃的なもので、異文化に触れたときにあるような少しの恐怖さえ伴ったほどだ。
それでも郷にいりては郷に従えというし、幸せそうな娘の顔を見たならばそのときを楽しまなくてどうしろというのか。いままでちゃんと面倒を見られなかったという負い目があったので、母親であるということをことさら持ちだすことははばかられていたが、これからは娘と対話し、わかり合っていって構わないのだ。そして計助こそが、ちぢりの特異な性格を変える必要がないという道しるべを作ってくれていたのだから、これ以上彼に遅れをとってはならないと、母親の側でも躍起になっていた。
「それでもどう、ちぢりちゃんとしては、志摩にきて良かったって思ってもらえてる?」
「そんな、改まって聞かないでください。もちろんです」
頷くと同時になにか思いつきでもしたか、ちぢりは周囲を見渡して、他に誰も聞いていないことを確認して声をひそめた。
「わたし、毎日文を書いているんです。詩だなんて言うのもおこがましいくらいのものだけど、景色を見て思いついたことや、感じたことをぽつぽつと書くんです」
「景色を見て書くなんて、面白いじゃない。日記とも、ちょっと違うのかしら?」
「本当に、日記でも詩でも何でもない、ただの文字の並びみたいな、お遊びなんですけれど……志摩にきてから、いくらでも書きたい自然があふれているのに、いつからか、自分の意思や思考や、他の人が出てくるようになったんです」
ちぢり自身も最近になって気づいたことだったが、もともとは風景を想像で覆いつくしたものだったというのに、ある時期から他人の存在が見え隠れし、その時々の心境が反映され始めたのだ。それはちょうど、計助とちぢりの意思疎通がかないはじめた、夏の終わり頃から顕著に表れた変化だった。
「他の人って、誰のこと?」
「聞かないでください」
すねる素振りがまた佳織の気持ちをそそったが、秘密の話を一つ打ち明けてくれたのだから、深追いしたいいたずら心をぐっとこらえた。そうして自分の心の中にだけ秘めておくことにするという意思表示も込めて、会話を元に戻す。
「お母さんも早く慣れて、賑やかになるといいわね」
ちぢりも頷いて佳織の意思をくみとると、話を続けた。
「でも、計助さんの家が独り住まいだったのに、わたしたちがいられる場所があって、本当に良かったなって思います」
「それが計助くんのしたたかなところでね、独り身を決め込むだなんて言いながら、ちゃんと結婚したときも考えて、奥さんの部屋と子どもの部屋を用意しているのよ。ああ見えて、ちゃっかりと現実的だからね」
「ああ見えてって、どう見えてや」
「あ、現場終わったんだ。お帰りなさい」
現場を終えて帰った計助の目に真っ先に飛び込んできたのは佳織とちぢりの姿で、変なことを吹きこんではいないかと間に割ったところで、やましいことは何一つございませんといわんばかりの顔は佳織の得意技だ、どこか憎らしくもある。
「噂をすると影が刺すいうからな、気ぃつけとけよ」
「大丈夫、計助くんの大好きなちぢりちゃんには、悪いこと吹きこまないから」
本人がいる前で言うものだから、ちぢりは慌てて立ち上がり、顔を隠すように頭を下げた。
「あ、ありがとうございました! 友達も待ってるんで、もう帰ります」
小走りで去って行く姿は滑稽で、他の職員もぽかんとその様子を眺めていた。
佳織のいたずらっ子然とした表情を見せられると、計助は彼女のことが本当に分からなくなる。
「ほどほどにしたれよ、また熱でもだされたらたまらん」
「なんかさ、計助くんって、ちぢりちゃんには特段に優しいのよね。ジェラシー感じちゃう」
「……ま、そうかもしれんな」
ちぢりがおらず、佳織への当てつけもかねて肯定したが、そんなことは従来の計助にはまずなかったことだ。無意識なのだろう、佳織は吐息をわずかに漏らした。
「計助くん、本当に変わったね」
「ほうか?」
あまり乗り気でない話題だけに、計助は適当な返事とともに自分の机へと戻っていった。佳織も届け出を改めてチェックして、仕事に戻る。
変わったことは計助自身も自覚していただけに、あまり言われたくないことでもあった。どうして変わったか、誰に変えられたかが明らかなだけに、むずがゆいはなしだ。ただ、こうして彼が自ら誰かに話しかけること、ぶっきらぼうでないこと、笑顔や呆れなど表情を作ること、それらすべてが大きく変えられたことだったのだ。
生活だって大きく変わった。独り暮らしだったときには、彼の好む静寂といえども憂いを感じさせるようなものであったが、いまや家には明るさがみちみちており、一つの家庭がそこにはあったのだ。
いつからだろう、当たり前なのに、ずっと忘れていた言葉が自然にでるようになったのは。
計助は仕事を終えるとまっすぐに家に帰り、明かりの漏れる玄関のドアを開けて言った。
「ただいま」
昨日はあなたとけんかした
きっと明日も言い合って
互いにそっぽをむいちゃって
それでも同じ場所にいて
いつも顔をつきつけて
ごはんできたよって
お風呂わいたよって
もう寝るよって
家族でいいよね?
帰ってきたばかりのあの人に
確認代わりにわたしは言うんだ
「おかえりなさい、計助さん」って
<了>




