二十二 木
浮かれ気分だったちぢりは、あろうことかテストで失敗をした。あくまで彼女としての失敗であり、テスト自体は上々のできであったが、彼女自身が身が入らないと浮かれて毎夜勉強をしていたのだから、妥当な結果だったというまでだ。まるで怒ってくれといわんばかりの笑顔で結果報告をするものだから、計助も口うるさく言うことは控えざるをえなかった。
ちぢりの母親の容態は、日に日に回復に向かっていた。娘からの十数枚にも渡る手紙からは、計助への感謝の思いが溢れんばかりであって、なるほどテスト期間中にこんなことをしていたのかと脱帽もする。かくいう母親もちぢり同様に、自分の回復を娘が本心から喜んでいるのだろうかと懸念していたようで、秋ごろに二人が病室を訪れたときの信頼ぶりに危惧を覚えていたそうだ。実際に正月頃のちぢりの返信は、親の復調を喜ぶ言葉もから元気であることが明白だったようで、本当の喜びがつづられた手紙を書けるまでに娘を立ち直らせてくれたことを感謝すると計助あてにも手紙が届いた。
春休みに入ったはじめ週に、二人して東京へと向かうこととなった。理由はもちろん、母親を迎えに行くためだ。
「お母さん、まだ迷っているみたい。計助さんに、おんぶにだっこになるのは気が引けるって」
「そりゃそうやろな、仮にも女手一つでこれまで頑張って来たんや、矜持があるやろ。正直なところ、おまえを俺に預けたことですら、相当な妥協やったと思うよ」
「わたし、お母さんには感謝していたけれども、心模様まで深く考えることはしてなかったな。お父さんを亡くして、それでも愛情を注いでくれたことについては疑ってないし、めいっぱい感謝してるけど」
「それが普通やろうし、家族ならなおさら、そんな探られるようにいっしょにいてもらいたいなんて思っとらんやろな」
「計助さんも、分からないでもない?」
ちぢりが嬉しそうに笑顔を向けているものだから、計助はつい目線を逸らせた。親の気持ちが分からないでもないなんて、子を持ったことがない計助がそう口にするということは、そういうことなのかとちぢりは言いたいのだ。
「期待を裏切るようやけど、俺は父親なんて柄やないよ。自分がやりたいようにしとるだけや」
やりたいようにしている結果が、こうしてちぢりとの生活を続けることなのだ。意思の疎通は十分だから彼女もそれ以上深追いすることはやめて、二人でゆっくりと、新幹線の座席に体を預けて静寂を音楽でも聴くように楽しんだ。
しばらく無言の愉悦であったが、ふいにちぢりが声をだした。
「計助さん、覚えてる? わたしたちがこうしていっしょに新幹線に乗るの、初めて会った日も、そうだったよね」
「奇遇やな、俺も同じことを考えとった」
「あの日、わたしは計助さんが怖かったことを覚えてる。これから先、いっしょに暮らしてくなんて、どうなるんだろうってすごく心配だったの」
「そりゃええわ、当時の俺も同じこと考えとったわ」
二人して、目配せしながら笑った。車窓からは、富士山が堂と構えていた。
「そういや、あのときのおまえには、富士山がどう見えとったんや?」
思いだしていくと、ちぢりの当初はまったく感情や考えを口にださなかった。当時何を思っていたのか、今となっては計助が気になって尋ねる側だ。
「今でも思うの、富士山は大きなテントで、中に大男がいて、いびきをかいて寝てるんじゃないかって」
「そりゃいい、いつか招待してもらいたいもんやな。ひゃっぺんでも寝返りがうてそうや」
計助はくっくと笑って応じた。このやり取りが、一年間で二人が歩み寄った距離を証明していた。
新幹線を降りると迷路のような東京駅からしどろもどろに抜け出し、すぐにタクシーを捕まえた。
病院に到着し、部屋で見た母親は以前よりもずいぶん血色良く、元気そうに映った。表情の豊かさにもそれは表れていたし、ちぢりらとの手紙のやり取りで精神的にも健康になったことが如実に表れていた。
「二人とも、いらっしゃい」
「なんや、元気そうやないか。病院はいつからホテルになったんや」
「……計助さん」
冗談から入った計助に向いて、ちぢりが小さく脇腹をつついてたしなめると、母親にすり寄った。
「本当に元気そう。どこかが悪いなんて、言われたってとても信用できないくらい。ね、最近はどうなの?」
「まあまあね」
言いながら母親は、我が子が一年会わない間に、ずいぶんとくだけた感じになっていることを知って、半分の面白さと半分と嫉妬心を抱きながら苦笑した。病気がちな自分ではとてもできなかっただろう、少女の堅牢な心の扉を開けた人物がいるのだ。母親にも叶わなかったことを、たった一年にして成し遂げた男がいるということが正直な感想として悔しかったのだ。うがった考え方をするなれば、計助にさえ任せなければこんな悔しさを感じることはなかったのに、とまで感じてしまうほどに。ただ、それは一面的な見方だということも理解していた。計助もちぢりに変えられていることを鑑みれば、痛み分け、といったところだろう。大人二人が少女に振り回されているにすぎないのだと、自身の溺愛ぶりがおかしいばかりだ。
「んで、まあまあなのは何よりやけど、いつくらいに退院できそうなん?」
「無理を言えば、いつでも」
「なんじゃそりゃ」
「じゃあ、無理、いおう!」
ちぢりはすっかりその気になっており、母親の腕をつかむと、今にも立ち上がらせんがばかりの勢いで、計助が慌てて取り押さえる始末だ。
「そもそもちゃんとした答え聞いてへんでな。どや、俺んとこ、来るか?」
「確認取るまでもないじゃない、ね?」
ちぢりの羨望のまなざしは、心にこたえる。母親は目線を逸らし気味に泳がせたなら、優しく手の平を娘の頭に乗せてなでた。
「ありがとう、この上なく歓迎したい申し出なんだけど……もう少し、考える時間が欲しいの」
その返答が意外でたまらないといったように、娘は目を丸くしていたが、計助はそうだろうなと、無言で強い目線だけを向けていた。誘いの返答を先延ばしにしていたということは、そういった答えが来るだろうことは容易に想像できる。
「お母さん、ねえ、どうして?」
「ちぢり、分かってほしいの。わたしだってこの東京に深い思い入れがあるわけじゃないし、いい思い出ばかりでもない。それでも、わたしにとってはかけがえのない場所でもあるし、親族だっている。そう簡単に、決心できることじゃないの」
「そんな……」
しょげかえった娘にどんな声をかければ良いかも分からないようでは、母親失格だろうか。唇をかみながら、計助がちぢりのことを思っての一大決心を白紙に戻してしまうような一言を、ひたすらに申し訳なく思った。
「病気だって、完治というわけじゃないの。家で療養しながら、もう少しゆっくりと、考えさせてほしいの」
この東京で改めて娘といっしょに生活をして、二人して向き合いながらこれからを考えたい。許されるならもう一度二人して、もう一度親子水入らずの関係を構築し直したうえで、考えたい。
母親としての負けん気が、意地が半分以上を占めている選択であることは理解していた。それでも我が子を一度返してもらいたいという思いがこれほどまで高まっていることは、彼女にとっても意外だった。ちぢりが嬉しそうに計助のことを信頼し、崇拝していくにつれ、親としての矜持が意地を張りたがって仕方なかったのだ。
「計助さん、ごめんなさい」
「何を謝ることがあるんや、別に俺からはなんも言うことはあらへん。ただ、俺はいつでもまっとるからな。決心が付いたなら、いつでも言ってこいな」
本当は悔しいのだろう、真意はどこにあるのか分からない。母親として謝りながら、我が子を返してもらうことだけしか考えられなかったのだ。
「んじゃ、帰るぞちぢり。かーちゃんはひとりで考えごとしとりたいんやとよ」
「お母さんの、意地っ張り!」
ちぢりが言いながら、計助の片腕にしがみついて、離れないぞと部屋を出ていこうとするものだから、母親としてはうろたえるばかりだ。
「え、ちぢりは……」
「おう、んじゃ俺はちぢりとまっとるから、連絡してくれな」
「ちぢりは、こっちに帰ってくるんじゃ……ないの?」
「わたしが? 嫌だ」
あっけらかんと言い放った一言で、すべては決まった。したたかな二人には、白旗を挙げるしかなかったのだ。
三人で引越しの準備は進められ、一週間の後、三人して三重県へと、新しい生活を運ぶこととなったのだった。
一本の木がそこにはあって
杉のように野太い芯がとおっているの
迷うことも知らなくて
まっすぐ頂点を目指すばかり
木を人生に見立てたことがある
人生には幾つもの岐路があって
そのつど枝分かれしていくの
まっすぐな人生が一番高みをのぞむけど
正しいことを全部知っているみたいだけど
地上から手を伸ばしても届かないの
寄り道ばかりでいい
正しい選択じゃなくてもいい
つぼみが開いた広葉樹のように
みんなが休める場所になりたいな




