二十 いじっぱり
ずっと独り暮らしを続けてきた計助にとっては、家に帰ることが気乗りしないなど、かつてない気持ちだった。すれ違いとは恐ろしいもので、用意された夕食、お弁当、洗濯された服、アイロンのかけられたくつした、戸締りされている家、「おやすみ」や「いってきます」の言葉、どれもが非難しているように感じられたし、どれもが二人の距離を一歩一歩遠ざけていった。ひとりの静謐を好んだ計助は、二人の静寂という新たな悦楽を覚えたというのに、今にして、二人の沈黙の距離感とはどれだけ大きな衝撃だっただろうか。普段テレビなど食事のときしかつけることのない彼が、この頃では家にいるときには常につけていたほどだ。会話を拒むという意思表示のように大音量で。
我が家はお化け屋敷かあばら家か。静寂というお化けがそこここで彼を絶え間なく見張っているような居心地の悪さがあった。そしてそれはちぢりにとっても同じで、彼女も家にいる間は、常に、ひどく惨めな思いをしていた。何を考えているのかわかりづらい彼女は、無表情とそつないあいさつはしっかりとしながらも、最低限の返事と愛想だけですべてをすませていたし、辛そうな素振りはおくびともださなかった。それこそが計助にはもどかしかった要因でもあった。彼がこんなに辛く思っているのに、反面ちぢりは素知らぬふうでひとりの殻へと閉じこもりたがるのだからやるせない。
「計助くん、ちぢりちゃんとけんかしたでしょ?」
佳織は計助の最近の様子からそうめどをつけ、からかい半分で聞いたわけだが、それに対する計助の目つきときたなら相当なもので、一目で機嫌が損なわれたことが分かった。
「だったらなんや」
「ま、そんな言い方しないでよ、わたしが悪かったから。ごめん」
「ええけど」
理不尽な怒りを投げたのに、素直に謝られては立つ瀬もないと計助は矛先を収めたが、かといってこれだけ敏感な反応を見せたなら、傍目にも存分に参っていることが分かったし、夏以降彼に見られた穏和さが跡形もないことだって明らかだった。
一度機嫌を損ねると厄介なのは計助の性質だ、佳織は静かに眺めるだけにとどまることで、彼から言葉を待った。つっけんどんな対応をした手前、分が悪いと計助は素直に口を開いた。
「おまえは、ほんまによお人を見とおな。俺の機嫌なんて、でんようにしとんのに」
実際のところ、計助の機嫌は誰よりもわかりやすい。そこが素直でもあり、不器用なところでもあると思いつつも、佳織は言葉を選ぶ。
「相槌の打ち方で分かるのよ。あと、そのときの目線がどこ向いてるかで。いったい何年の付き合いだと思ってんの」
「おまえの相手やっとると、いたずらしてしかられとる園児の気分にさせられて情けないわ」
言いながら、さらりと仕事に戻る彼は拒絶のそれであり、呆れるほど頑固だ。こうなったらてこでも動きはしない。ひとり身が長すぎた彼にとって、他人の心を感じとったり、入り込もうという行為は他言できぬほどに重大な悪としか映っていないのだろう。
佳織だって彼の考えを頭ごなしに否定はしないし、ある種正論であることも認めてはいるものの、いかんせん計助は度合いがすぎる。このまま自分を曲げないようでは彼女だって看過できない。仲違いというのは、本人たちはもちろんのこと、周りだって同様に辛いものなのだから。
「計助くんは、動く気はあるの?」
「……もうないな」
顔をそっぽ向けながらも、言葉を返す。「もう」という言葉を入れた辺りに、すでに彼として譲歩をしたが、今回に限ってはちぢりのほうが強情になっているという含みが添えられていた。
「あのさ、わたしって、けっこうおせっかいで、あまのじゃくだって知ってる?」
「ようしっとる」
こういった言い方ができる辺りが、佳織の才能であり、計助がうだつが上がらないゆえんなのだろう。その返答を貰えたなら十分だと佳織はすぐにパソコンに向かって自分の仕事にとりかかった。後ろで計助は小さく頭を垂れていた。
結局は、当人同士が背中合わせで話をしているような状況では、進展も何も望みようがないことだけは、二人ともが分かっているのだ。しかし歩み寄っても、相手がその倍の距離を取ろうとするのだから、収拾がつかないことも事実だった。
ちぢりは、自分こそがその距離を保ち続けていることだけは自覚しながら、来る日も来る日もおうむ岩に向かって情けない自分を懺悔するかのように、辛さを吐露していた。都会にいた去年まで、ずっと河原で夕日に向かってしていたように。
自分が悪い子だと、本当はとても寂しいとどれだけ懺悔したところでむなしさが増すばかりであったが、一方でその事実を受け入れやすくもした。人は誰しもがどこか悲観的で、ネガティブなヒーローやヒロイン思考をもっているものだが、不幸こそが彼女をヒロインにし、確かな存在を実感できたのだ。
「ちぢりちゃん、どうしたの?」
突然聞こえた言葉に、ちぢりは一息で現実に戻され、驚きながら声のした正面を見るとおうむ岩がどっしりと鎮座していた。
「なにか悩みごとがあるなら、僕に話してごらん」
ふたたびおうむ岩から声が聞こえた。ちぢりは嬉しさに頬を紅潮させながら、右後方を振り返って石造りの小屋を見て何度となく頷いた。そして口元を引き締めて石小屋のほうに歩みだすものだから、話し小屋にいた佳織は察して素知らぬふうでちぢりとすれ違って、おうむ岩の正面に立った。
「わたしの、思いを、どうぞ、聞いて欲しいの」
おうむ岩がそうしゃべった。ちぢりは絶対一人で持っていようと、おうむ岩とだけ共有しようと誓っていた心の奥底が、佳織のおちゃめな行為によって開かれたのを感じた。正面から言えないこと、他人に向かって話せないことが、自然と口をついてでたし、ここで話すことは、おうむ岩に語りかけることであると、ごく自然に行為を受け入れられたのだ。
佳織は石小屋を振り返るような野暮なまねはしない。二人は操られているように、一言話すたびにおうむ岩の正面と石小屋を行き来して、ゆっくりと、一言ずつ、顔を向きあわさずに会話を続けた。あたかもすべての言葉を、岩がしゃべっているかのように。
「どうぞ、しゃべってちょうだい。わたしのお母さんは病気なんだけど、最近、回復に向かっているの。いいことじゃない、それで。年度内には、安静にしながらも家に帰ることができそうだって、お医者さんに言われたの。おめでとう、でも、どうしてそれでちぢりちゃんは悲しんでいるのかな。わたしも、悲しんじゃいけないのに、喜ぶべきなのに……でもわたし、喜ぶどころかすごくショックだったの。だからみんなに辛く当たるのね。だって、これ以上仲良くすればするだけ、別れがつらくなるだけだから。嫌われたとか、けんかしたまま別れるだなんて、ほかの人を傷つけてまでも? ……」
そうしてとうとう会話が止まった。佳織の一言はまさに急所であり、ちぢりが別れを辛くしたくないがために意地を張って関係を疎遠にさせたところで、中途半端な関係で別れたとしたら計助や学友はどんな思いをもって別れることとなるだろうか。意地を張ることで、再会を待ちわびる別れでなく、今生の別れとなってしまいはしないだろうか。ちぢりだって、そんな悲しい別れで納得できるのだろうか。尋ねられてしまうと答えようのない質問だった。
「でも、わたしは……これ以上仲良くなると、お母さんの回復を心から祝えない気がして、帰りたくないって思う気持が、わたしの心がお母さんを傷つける気がして。わたしは知らなかったの、わたしはこんなに自分勝手で、ひどい性根の人間だって。どこかでわたし、自分はいい子でいるんだって信じたかったの。でも、実の母親の病気の回復も喜べない、こんなわたしは辛くなって当然だし、喜ぶべきだから、だから……計助さんや友達との関係が離れてしまうのは、当然なの。こんなわたしといっしょにいちゃいけない、ほかでもない一番の制裁なの」
「それは、ちぢりちゃんが周りの人を制裁している、の間違いじゃないの?」
「分からない。そうじゃないって言いたかったけど、言われてみると、本当に自分勝手で、周りに迷惑をかけて……わたしってなんてひどいんだろうって。恣意だらけなんだろうって、いま、恥ずかしくって……ごめんなさい、何を言ったって、自分勝手って取られそうで、わたし、怖くて、ちゃんとしゃべれない……」
「わたしからは、たいそうなアドバイスはできないし、ちぢりちゃんの行為の是非を判断することだって当然できやしないけれども、一つだけ、言いたいことがあるの。どうしてそれを、計助くんに相談しないのかって」
「相談なんてできっこない、わたしはそんなに強くない。計助さんが、お母さんの体調が早く良くなるといいなって言うたびに、早く東京に帰れるといいなって言われるたびに、どれだけ辛かったかなんて分かってくれないもん。もし計助さんから、お母さんが回復に向かっていて良かったななんて声をかけられたなら……わたしは、とても耐えられない」
ちぢりはとうとう氾濫した思いに打ちひしがれ、石小屋で泣きじゃくってしまった。反響してすすり泣く声が岩から辺り一帯に大きく響き渡り、胸をかきむしられる思いの佳織だったが、彼女に何ができるだろう。今のちぢりを助けられる人がいるとして、それは計助以外であってはならないのだ。あくまで二人の問題であって、必要以上に下世話を焼くつもりなどない。
佳織はゆっくりと歩き、石小屋の入り口に立った。小屋では、二重にも三重にも泣き声がくぐもって反響し、まるで何人もの彼女が泣いているような錯覚に陥った。
「わたしにはとても満足いくような言葉をかけることはできない。でも、疑問に思うのは、笑顔で見送られないことと、笑顔で見送られること、その二つを比べてみたのかな?」
明白な二択は、ちぢりにとっては衝撃的だった。苦悩のあまり自分のことだけに捕われていたと実感するには、分かりやすい一言だった。
「でも、いまさら、……もう、もう」
「ちぢりちゃん、この世界には、魔法使いがいることを知ってる?」
あまりに脈絡のない、無関係な一言に驚いて、ちぢりは泣くことすら忘れて大きな目をパチクリと見開いた。当の佳織は真面目な表情で、含んだ笑みをしていた。
「計助くんって、魔法使いだって、知ってた?」
「うん、え……わからない」
「計助くんにはね、ちぢりちゃんの悩みだったら何でも解決できる、魔法があるの。わたしの言うこと、信じられる?」
はじめのほうはまごまごと、どうしていいのか分からない様子だったが、佳織が一向に表情を崩さないのを見て、ちぢりも腹をくくったとばかりに、泣くことを止めた。そしてすっくと立ち上がった。
「計助さんは、わたしの悩みを全部、解決してくれてます」
「でしょ。だったら、解決してもらおうよ」
「はい」
好きな人とは、誰にとっても魔法使いなのだ。どんな悩みだって、どんな辛いことだって、忘れさせる力を持っているのは、魔法使いその人だ。洒落て言ったが、その一言こそが、ちぢりには大きな衝撃だったのだ。そうして、ちぢりと計助双方を信頼している佳織ならではの言葉に他ならない。
ちぢりは、自分は計助が信じられていなかったのかと思ったなら恥ずかしくもあり、悔しくもあり、否定しなくてはならないと勇気がりんりんとほとばしった。
「ありがとうございます。わたしは……やっぱり、佳織さんが好きですが、ちょっぴし嫉妬しています」
「あらま、それじゃわたしは計助くんにでも妬こうかしら」
この人には敵わないと、ちぢりはようやく笑顔を見せた。それが一番の感謝のしるしになることを、ようやく分かったのだった。魔法使いが好きな人の一言というのなら、世の中は魔法使いばかりであるということにも。
暮れどきの影ときたなら
さあ逃げようとやっきになって
舌をべとだし
庭越え 湾越え
あの山のふもとまで 一直線。
もう追いつかれやしないぞと どれだけいい気になったって
足元はしっかりと繋がっていて
いずれ帰ればならぬ 家出少年。
家に入るときには もういっしょ。
わたしもそんな こどもでいいから
距離をとりたがるわたしを どうかゆるして
いっしょに家に 帰りましょ。




