二 まてんろう
名古屋駅で電車を乗り換え、地方電車に揺られて行くこと二時間ほどかかり、ようやく目的の三重県志摩市に到着した。
志摩磯部駅は海に面しており、東側出口は一面の入り江が広がるばかりで、数えられる程度の駐車場があるだけ、駅とは思えぬほどにゆっくりとした空気と共に、静かな潮風が吹きつけていた。反対側の出口一面には広い駐車場とターミナルがあり、敷地は大きくもあるが、車の往来はほとんどなく、寂しそうな信号機がぽつねんと交差点を取り仕切っていた。タクシーやバスも乗り場こそあれど見受けられず、建物もまばらで平地や樹木が目立っている。駅の周辺であるこの一帯こそが町の中心地街であることは間違いないのだろう、しかしながら何とも味気ない風景であった。駅に面する施設だけが褐色した煉瓦屋根などでほのかにスペイン風を醸しており、それが田舎である以上に異世界に来たかのような違和を与えて止まない。地方によくある、一時の流行を追ったなれはてといわれてしまえばぐうの音すらでまい。
「なんだか……静かな場所だぁ」
「寂しいって言うてもええんやで」
「ううん、来る途中に見た無人駅なんかは、寂れていたし、田んぼの中にぽつんとしてたりで……ちょっと想像していた田舎っぽさまんまで憧れたけど、ここはなんていうのかな、建物はあるし、車も行き来しているんだけど、空虚な、透明な感じ」
独特の言い回しであったが、このときばかりは計助も言い得て妙だと鼻を鳴らした。一歩出れば田園風景が広がるが、どこもそんな紋切り型の田舎染みた場所ばかりではない、町内にスーパーマーケットもいくつかあるし、ちぢりが通うことになる高等学校や公園と一体の球場施設だって同じ町内にある。かと思えば携帯の電波が届かず車が行き来することすらかなわぬような県道が存在するこの町を言い表そうとするならば、これ以上なく的確な例えのようにすら感じた。
「好ましくないんか?」
「ううん、反対。こうやって眺めているだけでもたくさんの、わたしの知らない驚きが隠れているのが分かるの。何かを掘りあててやろうって、楽しみでしかたないの」
取り繕ったお世辞ではないようで、ちぢりは興奮したように何一つと見逃してはならぬといった様子でしきりに周囲に目を配っていた。車こそそこそこ走っているものの、あくまでバスやタクシーといった他の交通の便が衰退していったからにすぎず、歩く人影は少ない。高い建物はほとんどなく、二階建ての駅から見渡せば、遠目に高台の学校が覗けた。道端であろうとも、建物の合間から遥かに霞む山々を拝むことができる。
「近未来的な感じがするの、人がいなくて車ばっかりだと。木々もあれば坂道も多いけれど、東京みたいに整備された並木道なんかはぜんぜんないの」
「そんなこじゃれたもんはここにはあらへんよ、木ぃが見たけりゃ、家から一歩外に出りゃええだけやでな」
「作るまでもない、ってことなんだ」
「まあ間違いやないかもな」
駅前の広い駐車場も閑散としており、止めてあった車に乗ると、ゆっくりと走らせた。街並みが続くのは数百メートル程度だ。大きな交差点を右折したなら、つづら折りの坂を上る。都会ではまず見かけないだろう、幅の大きなうねった坂道に度肝を抜かれているちぢりを尻目に、車は頂上をまたいだ。左右に開けた田園に寄り添うような河川、遠目に映る幾つもの山々、あぜ道を歩く老人。道をとっても本線だけが辛うじて舗装されている程度であり、車を走らせれば路面はがたがた体がはずむ始末、一本脇へとそれたなら車一台がぎりぎりのあぜ道が縦横に交差している。
「電信柱って、こうやって見てみるとたくさんあるんだ」
「都会やと地中に埋まっとるんやったか」
「地面が地球からはがれないように、待ち針みたいに留めてるみたいでおかしいの。電線だって蜘蛛の巣みたいで、お空から見たらわたしたちがぐるぐる巻きになっていて、実は捕まってるんじゃないかな」
道沿いには腰程度の柵を境に線路が敷かれており、電車といえば高架橋や盛り上がった高台をはしっているのがちぢりの常識の範疇であって、何の一線も隔していぬところを、そしてそんな車両の一メートル足らずの隣を自転車で子供や老人が素知らぬ風で走っているのだ。家主が不明であったり死んでしまったのだろうあばら家が幾つも目にとまり、それらはレンガ塀やトタン造りなど多様で、細いつたがホラー映画の洋館のように壁を這っている。かと思うと地主と思しきだだ広い土地と共に、昔ながらの瓦ばりのおごそかな家も何件と連なっている。
坂をあがる途中には少し開けた空間に数本の柿の木があり、柵も何もなしで道から歩いて行ける場所に個人の所有する木があるという事実は、ちぢりには相当ショッキングなようだった。確かに都会では、木など景観のためだけであり、庭のように囲まれた空間に整備されて映えているのが一般的だろうし、雰囲気作りや塀の代わりとして木を庭に植えられるときたなら豪邸であると短絡的に繋がりもするのだろう。道沿いの無雑作に立っている何気ない木を所有している市民など、石を投げれば当たるくらいざらにいるということが理解できないのだ。
計助自身も一万坪程度の山を所持しているし、同様に山やため池をいくつも所持している人ばかりで、もっといえば引き取り手を探しているような人たちばかりであるというこの田舎の現状は、まだまだちぢりには理解が及ばないだろう。高齢化集落とはどこもそうだが、東京で育った彼女にはどこまでも無縁で、海外の話と何ら変わりないほどに文化の違いに直結する。
「うわぁ……」
何気ないすべてが、彼女にとっては目新しく、胸を躍らさずにはいられまい。少女を連れてきたことで改めてそんな風景に向き合う機会となり、計助はなるほど典型的な田舎町だと苦笑した。いたずら心で少し来た道を戻り、川に沿って大きく婉曲する畑道に出たならば、ちぢりは興奮やまぬといった様子で窓から体をのめりだし、慌てて車は道脇に止まった。
何もない、だだっ広いとしか表現できそうにもない田舎風景を目の前に据えて、少女は涙を我慢するように目をつむって、大きく呼吸をした。次にはせきをきったように矢継ぎ早に言葉が氾濫した。
「すごぉい……ね、畑が何百メートル先にまでずっとずっと続いていたし、広い四角い形がね、五十までは数えられたけど、目配せするより早く過ぎちゃったの。小さな川にも目が奪われちゃって、風と水の違いがつかないくらいすごく透明でね、でも河原なんてなくて、葦の合間を筆でなぞるみたいに軽やかに流れていくの、そんな流れが光で白く筋道だてられてるの。光がきらきらって、透明な川にレースをかぶせるみたいに降りかかっているし、川の合間に茂った長い草がさやさや揺れて、風の通り道が、大きな手でなでるように目で見えるの。あの川を触りたい、遊びたい。川に沿った土手道なんて、大人ひとり分以上の急勾配なのにさ、落ちないのかなって……柵もないのにあんなところで子供たちが走り回るの! お年寄りが自転車ではしっているの!」
計助にとっては考えてもみないことだった。川とは、増水に備えてその両脇が何メートルも急勾配でせり上がっているものであって、土手道はその上にあって舗装もされていないのが当たり前だ。車と人との対向では、草むらの中に入って避けることだってある。危険だと思ってはいたものの、どこもそんなものだと承知しており、立ち止まってそんな生活を見返す機会など、今の今までなかった。
「ゆうても何もないとこやろ」
「何もないなんて、この風景のどこに、何もないの? こんなに広く見渡せるのに、田んぼも山も、海だってほら、あんな遠くに映っているの。こんな全てが見渡せる場所があるなんて思いもしなかった、信じられないと思うけどわたし、今まで一回転すると三六〇度あることを知らなかったの。ほら、わたしの足、震えているのが分かってくれるよね。なんでだと思う? 今この場所が、自然の摩天楼だから、落ちてしまわないかって思うと怖くて……腰が抜けちゃいそうで」
たった数十メートルの小高い丘に登っただけで、この風景からどれだけの感動を引きだそうとするのか、計助は驚き半分、呆れ半分といった具合で、小恥ずかしげに頭をかいたのだった。
「今年はまだ寒いから枯れ模様やけど、もうすぐ春やから、青くてめっちゃ鮮やかな景色になるんやぞ」
「もっと、もっときれいになるの? もう、わたし、ここでの生活がすごく楽しみでしかたないの。自然ってこんなにすごいんだって、今まで生きてきた世界の認識をひっくり返されちゃいそう。信じてね、わたしが今まで生きていたっていうことを」
改めて車を走らせて町並みを見ていくが、コンビニが四方八方にあるわけではなく、地下鉄もない。今まで彼女が住み慣れた東京との違いや不便など挙げだせば枚挙にいとまがない。計助から説明される一方で、ちぢりは今一度自身の認識を改めたようで、神妙そうに頷いた。
「わたし、歩くの好きだし、コンビニなんてなくたって、これだけ周りを自然に囲まれているんだもん、秘密基地とか作っていれば夢中で空腹なんて感じる余裕もないと思うの。どうしようかな、わたし、もうちょっと若くて、男の子だったらよかったなって、今日ほど懇願したときもないし、これからたくさん悔しい思いをするんだろうな……こんな自然の周りだと、女であることが本当に残念なの」
目を爛々とさせて周囲の山々を見渡し、大きく深呼吸をするちぢりは、心から楽しそうだった。
「田舎の空気はおいしいっていうけれど、確かに向こうとはちょっと違うみたい。でも少し鼻に障る感じもあるかな」
「こっちのほうじゃ、スギ花粉がひどいからな。花粉症にならんようにだけ気ぃつけんとあかんで」
「あ、やっぱり……」
何かにつけてこの少女は敏感であり、また周囲に惑わされることなく独自の価値観という物差しで物事を測れるだけの力があるのだ。計助は感嘆すると同時に、生まれてくる時代を間違えたのではなかろうかともったいなくも感じた。もう数十年前に、こういった田舎で生まれ育ったならば、彼女はその独特の個性をめいっぱい伸ばすことができただろうと、こんな時代では思うように活かすことができずに、母親の言っていたとおり、浮いた存在となって同年代からも距離を置かれてしまうだろうと容易に想像がついた。都会という場所で、いかにしてこれだけの感受性を持て余したのだろうか。
町案内も兼ねた長い道のりを経て、湾沿いをゆったりと走らせた末にたどり着いた家は二階建ての木造一軒家で、一人どころか二人で住むにも大きすぎるくらいだった。
「荷物が届くのは明日やし、今日はとりあえず部屋を掃除するからな」
ちぢりには階段を上ってすぐ右側の部屋をあてがい、湾を正面に大きな窓があることを知らせたなら、彼女は慌てて車を降りた。するとちぢりは景色と家と、どっちを見て喜べばいいのか分からず体をぐるりと回転させて真上を仰いだ。
「立派なおうちに、正面に広がる浦のまばゆい景色、顔が一つしかないのがもったいないくらい嬉しさに際限がなくってなくって! まるでこの世界全体がわたしのお庭で、童話の世界のお姫様にでもなった気分なの」
風の通り抜ける音が小波のように耳の傍をかけていった。ほのかな緑の香り、遠くから姿の見えぬ小鳥のさざめき。目の前に広がる湾は視界で捉えきれないほどに開けており、対岸の車が目視できるほど空気は澄んでいた。今であれば対岸まで歩いて行けそうなほどに潮も引いており、まるで水面を歩くような空想が次々に彼女の頭をかけぬけた。
真実の自然とふれ合って、圧倒のあまりちぢりの体がぶるりと震えた。
「海って、世界の広さを教えてくれるだけじゃなくて、空の高さも教えてくれるんだね。海を見ていると、雲って浮いているんだなって、改めて感じちゃう。ぷかりって言葉はこれを表してるんだって、模範例なくらい、まるで当たり前の顔しながら、飄々と浮いてるんだもん」
湾をはさんで対岸が映り、青空の下で横続きに伸び渡っている山々の景色は、都会の川から見渡すそれとはスケールから何まで違うのだろう。
「山って、離れていくと、青空に隠れようとしちゃうんだね」
彼女が何気なく言った言葉は計助にも理解できた。山は、何層にも連なっているが、距離ができるごとに蒼く薄らいでいくのだ。空気の層が距離を作り、次第に青空へと馴染んでいき、天候が悪い日や、飛散物が多い日にはとうとう空に呑まれて見えなくなる、その空との同化現象を彼女は遊んでいるかのように表現したのだった。
「ね、計助さん。掃除の前に少しだけ、お時間いただいてもいいかな?」
「ええけど、どうしたんや?」
「少し、メモを……ね」
言いながらちぢりは鞄からノートを取り出すと、計助に隠しながら、恥ずかしげにペンを走らせるのだった。
ぐるりを見渡すならば
両手を取り合うように軒を連ねる 家々よ
心地よさそうに仰向けに横たわる 山々よ
映りえぬ彼方まで敷き詰められた 海々よ
春が恋しく切なげに色めきだした 原々よ
全てが眼下に映るのに
私が立っている場所は
ただの小さな丘なのだ