十九 気づかないふり
もし、ちぢりが豊かな感性を携えたまま、恋という感情を覚えたなら、一体どんな反応を見せるだろうか。
実際、計助はそのときのちぢりの反応から、すぐに目星をつけたことは、恋、だった。家に帰ると、いつもどおり配達された郵便をちぢりが仕分けしており、計助は自分あてのダイレクトメールを見て、すぐにゴミ箱へと投げ込んだ。一方、ちぢりは毎週のように来ている母親からの手紙が到着したようで、いつものように計助を気に留めるでもなく、寒い北風に揺られながら、厚着した格好でいすにもたれて目をとおしていた。
そのときから、ちぢりの様子に若干の違和感はあったものの、気になるといえば気になるといった程度のものだったので計助は気付かない体を装っていたが、夕食時にもまるで雲の上を歩いているかのように目線が定まっておらず、いつものように考えごとに没頭する余裕もないほど茫然とした状態だった。その有様になるまでもなく計助だって確信的な違和感を覚えており、体調不良とも異なる何かがあると睨んでいた。
ちぢりは早々に風呂に入ると、午後九時にもならぬのに寝る支度を整えた。
「今日は、もう寝るね」
「体の調子とか大丈夫か? 大事にな、おやすみ」
「……うん」
ちぢりが来てから九カ月が経過したが、この日が初めて、彼女が「おやすみ」を言わなかった日であった。計助としては、母親からの手紙を読んでいるのだと早合点していたが、実は男の子からのラブレターだったのかもしれないと思い、これもまた彼女が越えるべき人生の登竜門だなんて、深追いすることなく見守ってやることにした。
しばらくはそのままでも気にしなかったが、一週間もしよう頃になると、佳織が小声でささやきだした。
「計助くん、最近、ちぢりちゃんの調子ってどうなの?」
「うん……良くはないな」
「やっぱり」
頷くようにしながら、佳織は続けた。
「最近、帰り道にちぢりちゃんをよく見かける気がして。こっちに来た頃みたいに、ひとりだけで考えごとしながら歩いているの」
「あいつにはあいつの悩みごとがあるんやから、俺らがとやかく言うもんやないやろ」
「そうなんだけど」
計助も、最近のちぢりが当初のように、よそよそしい形に逆戻りしてしまったような感覚を覚えていたのだから、佳織の見解も大したものだ。どれだけ会話の時間を取ろうと努めても、彼女の側で故意にそれを避けているような素振りが多く、会話を振ったところで何一つとして心中や思考を語ることがなくなった。会話は言葉のキャッチボールとは言い得て妙で、片方がボールを投げなければ、どれだけ親しい間柄であろうとも会話が成立するはずもなく、ましてや避けるような素行を見せられたならその気だってなくなってしまう。もし助けが必要となれば全力をもって手を差し伸べるつもりでいたし、それまでは暖かく見守ってやろうと静観を決め込んでいた計助であったが、彼自身もまた、出会った当初に逆行しつつあるかのように、痺れをきらしそうになることがままあった。相手が恋に落ちており、その他の分別が判断できなくなっている、ちぢりの言葉を借りるのであれば見ざる聞かざる言わざるの状態であればこそ、耐え忍ぶことができたというものだ。
だからといっても、出かけようと誘っても一切首を縦に振らないし、休みの日ともなれば逃げるように終日家から出ているとあっては、些細なあいさつですらぎくしゃくとしてしまうのは必然だろう。意識するだけ心の距離は離れるし、目を合わせることすらおどろおどろしげになってしまう。
手紙を計助の前で読むこともなくなっており、そんな瑣末なことですら距離を隔てるには十分だ。手遅れになり始めると、タイミングを見失い、ずるずると関係は悪化していく。
「反抗期なんやろな」
女の子が、男の人や、ましてや親と子ほど歳の差がある計助を嫌がったところで、寂しくこそあれなんの不自然があるだろうか。魔法の言葉のように自分にいい聞かせていた。
あるとき、計助は仕事の外出中に以前ちぢりが家に呼んだ女友達らを見かけ、農道脇に車を止めて声をかけた。
「よお、久しぶりやな。また、いつでも家に来てもろてええからな」
「計助さん、こんにちは。ちょうど今もそれを話してたんです。最近、ちぢりんったらぜんぜんわたしたちと話してくれないんです。なんだか避けられている気がして……男の子たちもそう言ってるんです。わたしたち、悪いことしたかなって……何か心当たりありませんか?」
この驚きは、計助には非常に鮮烈なものだった。
「なんや、学校の帰りや休みの日なんか、みんなと遊んどるとおもっとったわ」
「ううん、いつもひとりでそそくさと、なんだか恵利原のほうへ行くんです」
恵利原といえば、引っ越した当初、ちぢりが通いつめていたおうむ岩があるところだ。計助が様子見しようなどと静観している傍らで、想像以上にことはよろしくない方向へと傾いているようだった。
ここまできてようやく事態の重大さを認識した計助は、仕事を早引きし、おうむ岩へと車を走らせた。駐車場に車を止め、獣道のような急勾配をおりたその先に、果たして彼女はいた。目をつむりながら、テレパシーでも送っているように顔を少し上げておうむ岩に対面していた。彼女はいつもこんなことをしていたのだろうかと、計助はいざその場に直面した驚きをもって少々たじろいだ。
「おい、おい、ちぢり」
「えっ」
驚いて振り向いた彼女は、どうして計助がいるのかと困惑気味の表情でいた。
「ごめんなさい」
「なんがや」
「……」
これだけの会話でも、いかに二人の心が遠くなったかがよく分かろうものだ。会話が続かないとは、このことだ。
「ちぢり、最近のおまえはどうしたんや。俺かて、理由が分からんからなんやもやもやするし、悪いことしたったんやないかって、心配になるんや」
「ううん、計助さんは、何も悪くない」
「じゃあ、おまえが悪いことしとんのか?」
すると彼女は答えない。
「あんな、おまえともぼちぼち長い付き合いになってきたから分かると思うけどな、俺はあんまりこうやって問い質すようなことは好きやないんや。言いたくなったら、いくらでも聞くが、言わんてことはそういうことやろうって、どうにもそんな考えが先行したがるんや。でもな、今回は、俺は自分を曲げてでも尋ねようやないか。なあ、どうしたんや?」
この言葉は非常に応えたとみて、ちぢりは大きく息を吸い込んで感動しそうな鼻頭や目元を無理矢理どしつけた。計助が、信念を曲げてまで問いただすということ、その行為の重さを近くにいてまざまざと感じてきた彼女には、この譲歩がいかに大きなものであるのか、親身にせまったのだ。
しかしそれに屈してはならぬと、強く頷いて、口元を引き締める彼女は負けじと強情だ。
「計助さんは、悪くないんだから……曲げる必要なんてない。わたしが、勝手に……」
声をだしたことで耐えきれなくなったのだろう、彼女はとうとう頬に涙を垂らして、その場でうつむいた。そして嫌になるほど「計助さんは悪くない」を繰り返し続けた。あまりの苦しみように、計助もさすがに心配になり、慌てて止めに入った。
「なあ、だったらええやないか、何を泣くことがあるんや。別に、俺は怒ってへんし、今までどおりいっしょにおろや。ゆっくりと、静寂やって何の気兼ねもいらへんような」
計助は落ちつけてやろうと彼女の肩に手を置こうとしたが、ちぢりは必死に振り払って、みたこともないような強い目つきで計助をねめつけた。涙を拭くことも忘れて、まるで憎しみともとれかねないほど、彼女には似合わない鋭い眼つきだった。
「止めて、計助さんには関係ないじゃない! わたしは、計助さんには関係ないじゃない!」
「なんで俺が関係ないやつのことを、こんな気にかけやなあかんのや!」
「そうよ、関係ないのになんで気にかけるの?」
「それは、……」
ここで計助が止まってしまったのは、いけなかった。というのも、彼の中でも幾つも言葉は浮かんでいたのだが、どれをとっても的確な言葉ではないように感じ、そのどれもが微妙にずれている気もし、彼とちぢりとの関係を適切に表せる言葉などこの世に存在しないとすら思えたからだ。
ちぢりは言葉が帰ってこなかったことに対し、目に見えてショックを表わして、口元を震わせた。先程までの強い目つきは一転して弱々しくなり、まるで切望するような顔つきになった。
「わたしは、計助さんに、関係ないのに……」
その言葉が感じさせる距離感は、この世とあの世くらい、果てしないものだった。ちぢりは鏡の中で生きているように、絵画の中で動いているように、計助には干渉できない存在であるかのような絶望的な言葉だった。
決定的だったのは、ちぢり本人がこの言葉を言った途端に、声を上げて泣きだしたことだ。抗いようがないほど決定的な一言が、二人を容赦なく貫いたのだった。彼女が静かに頬を濡らすことはよくあれど、こうして大声を上げて、子供のように泣いたのはもちろん初めてであるし、計助もこれはお手上げだと、ひとりの手に負えないと諦念に捕われていた。
風を滑る あの鳥は
自由に空を 飛ぶけれど
かごの鳥を 笑うけど
世界が大きな かごだって いつ気づく?
海を流れる あの魚
自由に大海 渡るけど
いけすの魚 笑うけど
海が大きな いけすだと いつ気づく?
来る日も歩く このわたし
自由にこの地を 歩むけど
楽しく日々を すごすけど
今は明日と 違うってこと いつ気づく?




