十八 冬だより
「霜がおりるって、すてきな言葉なの。天使や神様が地上に来るときに使う、おりるといっしょなんだもん。だから霜って、とても神々しいものだと思うの。寒さに負けじと、空気の生命力が地面や、葉っぱや、石にまで宿るのが目に見えるの。自然界の一瞬を切り取ったみたい」
ちぢりは寒ければ寒いほど、嬉しそうに朝から外に出て、冷たく痛い感覚を満足そうに体全体で味わっていた。彼女にとっての寒さは、空気にくすぐられているも同意のようで、踊るように跳ねてはしゃいでいた。
「おまえは犬か」
「わんわん! ……なんてね」
珍しく雪が降った日など、積もるような雪でもないというのに、地面に落ちると同時に溶けゆく雪を名残惜しむようにずっと外に出て観察していた。雪はいつか溶けるものであるというのに、それが自然の摂理に背いているといいたげに歯を食いしばって凝視しており、計助の注意も聞き入れないほどだった。
結果、ちぢりは翌日に熱をだすこととなった。朝になって外に出たなら、珍しくすぐに帰ってきて、飲み物が欲しいとねだるのだからおかしいなとおでこに手を当てたなら、案の定だ。
「だから昨日あれだけ言ったやろ」
「ごめんなさい」
実際に風邪をひいてしまっては、何も言えない。ちぢりは素直にとぼとぼと布団に潜って、氷枕を当てて寝ることにした。
計助は心配ながらも、仕事に行き、急いで帰ったなら、彼女は元気そうにしていた。
飲み物とゼリーを置いてやり、氷枕を代えてやると、ちぢりはにやにやと笑いが止まらない様子だ。
「風邪ひいとんやから、少しは苦しそうにしたらどうや?」
「わたしもそう思っているんだけどね、計助さんが心配してくれるのが、嬉しくって苦しいまねなんてとてもできなくなっちゃうの。鼻かんで、ね、はな」
計助がティッシュを鼻に当ててやると、めいっぱい大きく音を立ててかんで、取り繕った素行をしなくていいことに、ひたすら嬉しそうだった。
「なんだか、昔夢見ていた王女さまみたい。風邪をひくと、偉くなれるんだね」
次には計助がおかゆを口元まで運んでやり、ちぢりは少し照れながら食べると、体を左右に揺すって口元をほころばせた。
「幸せって、こういうことなんだろうな。わたしは今くらい幸せだって断言できるときもなかったかも」
「なんや、おまえくらいの年齢やと、熱あってもたいしたことないんか」
「うーん、関節が痛いし、頭もぼーっとするし、何よりも服がこすれてぞぞぞってするの。感覚が、すごく研ぎ澄まされているというか、敏感になっていてね……計助さん、もしよかったら、わたし、外に出たい」
「よくないな」
「そう言ってくれると思った。でも、これだけ感覚が研ぎ澄まされている今、風を体全体で受けられたらって思うと、もったいなくて。今なら風の輪郭をなぞらえそうなの、あの鳥たちみたいに風に乗れるんじゃないかって」
「おまえなんかに感染した風邪の菌もたいへんやな」
計助は笑いながらも、不安を感じていた。ちぢりであれば、明日の朝、多少の熱があったって外に出て行きかねないと危惧していたのだ。学生は冬休みに入っており、一日中の散歩を待望していた彼女のことだから、まんざらありえない話しでもない。
はたして計助の読みは正しくもあり、甘くもあった。朝から外出する様子のないちぢりに安心をしながら様子を見に行くと、部屋の中はまるで凍ったように冷えきっていたのだ。窓が開けっ放しになっており、ちぢりは泣きながら計助が来たことを喜んでいた。
つまり、彼女は風と戯れることを諦めきれずに窓を開けたところ、風邪が悪化してしまったゆえ、窓を閉めることができなくなったのだ。
呆れながらも計助はその日の仕事を休み、ちぢりを病院へ連れて行くことにしたが、彼女は相当弱りきっていた。自業自得だと思いつつも、悪態をつく気すら起こらぬほどに彼女は衰弱して朦朧となっていたのだ。
「苦しい、寝たいのに……頭が痛くて、締め付けられるの。目も頬も張り付いたみたいで、押さえつけられてるみたいなの、痛い、痛い……」
何度と寝返りをうち、頭の位置を変えることを繰り返すも、そんな些細なことで頭痛が遠のくはずもなく、歯を食いしばってぼろぼろと涙をこぼし続けた。ちぢりは独りでいる時間が長すぎたこともあってのことだろうが、泣くという行為がどれほど他人に影響を与えるのか、理解できていないきらいがあった。小説や漫画において人は頻繁に泣いているものだが、現実は泣くという行為自体がまれであり、人前で泣くことなどほとんどありはしない。ところが彼女にとっての泣くという行為は、笑うという行為同様、あまりにも直情的すぎる意思の訴え方だった。
かといって、今こうしてのたうち回る彼女にそれをとがめることははばかられた。
「額縁に入っているみたいなの、全部がつぶされている、痛い……わたしもう起き上がれない、きっとずっと、布団に貼り付けられているんだ。痛いよ、苦しいの、飾れない……」
いたたまれなくもなり、すぐにも病院へ連れて行こうと決心したが、起きあげようとするも彼女の体は力も入らず、男手をもってしても難儀した。体がわずかにぶれるたび、ちぢりを激痛が襲うのだ。その姿は痛々しいという言葉だけではとても表せたものでなく、計助自身も顔をしかめてしまうほどだった。歯を食いしばり、彼女を痛めつけることを承知で起きあげるのだからもどかしさに嫌な汗が伝う。
刺激が走り抜けるたびにちぢりは様々なことを口走り、泣きわめいた。
「地面に貼り付けられてるみたいなの。わたし、知ってる。一昨日の雪がそうだったの。辛い、苦しい、痛いって。何も悪いことしていないのに、アスファルトに押さえつけられて溶けていった、あの雪たち……」
病院へ行く間も、絶えずちぢりはうなされていたし、朦朧と口を動かして何らかをしゃべっていた。彼女の熱は四十度もあり、医者は慌てて点滴をうって、これまでの状況を計助に問いただした。窓が全開だった件については、医者ですら苦笑するばかりだ。
一時間ほどすると、ちぢりも少しは落ち着いたようで、苦しいと小さく言葉を漏らしながらも、先ほどのようにうなされている様子はなかった。計助がお姫さまだっこをしてやると、彼女は首元に腕を回しながらも、しきりに周囲を見渡して知り合いがいないことを確認していた。
「もしかして、来たときも、こうしてくれたの?」
「お姫さまやでな、しゃあない」
ちぢりは顔を真っ赤にし、「わたしは病人なのに……」と恨めしそうにつぶやくばかりだ。
三日もの間、彼女は計助に見張られながらの日々をすごした。といってもつきっきりで面倒を見てもらっているのだから悪い気もせず、病院の翌日からは熱も下がりだし、三日目には三十七度前半まで落ちて、ちぢり自身としては元気いっぱいだったわけだが、このときこそ危険だと計助は強く目を光らせていた。
「わたしの知っている冬って、もっと枯れている景色だったの。枯れ木も山の賑わいなんていうしさ、木が枯れるのは必然だと思っていたの、何でだろ。クリスマスツリーだって、門松だってあんなに青々しているのに、ここに来るまで常緑樹があることすら知らなかったの。風邪を引いて外を見ていると、対岸の山が見えるけれど、冬の山は険しい表情をしてるの」
元気にしゃべることは良いことだと、計助は頷きもしなかったが、ちぢりの表情を眺めて促した。
「湿っぽい緑色っていうのかな、ひっそりとして、緑色が静かに冬眠しているみたいなの。夏場の夜、寝ている姿が、冬では朝も、昼も、夜だって当然、ずっと、ずっといるの。耐え忍んでいるんだろう姿を見ていると、わたしだって負けてらんないって、たくさんの元気をもらったんだ。元気になったらまず、お礼を言わないと」
この頃には汗をかいたパジャマを一人で着替えられるようにもなっていたし、お手洗いや飲み物を持ってくるなど、家の中を歩き回るくらいなら許されていた。とうとう熱が下がった暁には、一日は大事をとれと計助に言われて家に閉じこもったが、翌朝からは待望の庭に飛び出して、朝日を眺めて山々に深々と頭を下げた。
「冬の風景って、夏とはまたまったく違うんだって実感するね。太陽が低いから、まるで湾の底にも太陽が沈んでいるみたいなの。夏よりも太陽は黄色くて、湾全体に広がっているの」
クリスマスにはちぢりも完治し、十分に外を歩いて冬を満喫できるまでになった。計助は完治の祝いと外出をやめる気がない彼女への皮肉も込めてマフラーをプレゼントしてやった。ちぢりは嬉しさのあまり寝るときまですると言いだしてひと悶着があったが、佳織も含めてのパーティは計助としても何年ぶりかの騒がしいクリスマスとなった。クリスマスケーキも、子供のころ以来だと言って佳織に同情される始末だ。
年末は年越しそばを食べて除夜の鐘に耳を澄ませるという、静かで濃密な年境をすごした。
正月には地元の高根山に登り、霧がかった朝もやを抜けて、年初めの日の出を拝んだ。地元の人たちがふるまうお汁粉を食べると、実家へも顔をだし、東京に行ってからはずっと見ていなかった孫の顔に祖父母も感動しきりだった。
ひとり身に慣れていた計助でさえ、二人でいるということもまんざらでもないような感情に浸されていた。
冬は見えないものが姿を現す
声に寄り添うあなたの息や
わたしの体で強く流れる血液や
鐘に誘われる新しいこよみや
あなたとの暖かい関係や
今年は何が あけたと祝おうか




