十七 衣替え
秋は次第に終わりを告げていき、ふきつける風は威力を増して、日中でも肌を突き刺すような鋭利さを伴い始めた。太陽は暖かさを失っていき、どこか風を応援しているようにすら感じてくる。
この季節になると、計助はまたもやちぢりに驚かされることとなる。仕事を終えて帰って来た彼を待っていたのは、カーテンと窓を全開にし、窓に向かって両手足を広げるちぢりだったのだ。服を何枚も着込んだ姿でおかえりなさいと明るく出迎えられたところで、元気良いあいさつを返す気にはなれなかった。
「これは何のまねや?」
「風とね、戯れていたの」
その日はことさらに風が強い日で、雨もなく乾燥し、夏から秋にかけて何百何千と漂っていただろう微小な虫たちもいなくなった、絶好の機会だと彼女は言ったが、計助にはさっぱり共感できなかった。今年初めての暖房をつけようかというこの時期に、あまりに真逆なできごとが起こったのだ。
「わたし、風がすごく好きなの。世界中の、見知らぬところから目に見えないけれども感じられる、魔法の光を運んで来てくれるみたいでね。外はすぐに暗くなっちゃうから、外出は計助さんが心配するかと思って」
「うむ、進歩があったようでその点は安心したわ、その点は」
計助の反応を聞き流すと、ちぢりは両手で彼の手を優しく包み込んだ。
「ほら、計助さんの手、暖かい。わたしの冷たい手が、こうして暖められていくの。風がこうして仲立ちをしてね、……手と、手を繋いでいくの」
「ロマンチストなことやな」
軽く言ったが、ちぢりの嬉しそうな表情を見ていると計助とて分が悪い。このまま流されてしまいそうになる気持ちに活を入れた。
「なんや、最近おまえはそんなんが多いな。女の子らの影響か知らんけど、恋人だとか、恋だとか。なんや、好きな男子でもできたんか?」
するとちぢりは頬を膨らませながら、両手にぎゅっと力を入れて計助の手をいじめた。
「別に、誰にでもそんな話ばっかりするわけじゃなくて、……んもう、計助さんって、本当いじわる!」
その頃には、ちぢりが女友達と帰る姿が佳織ごしに伝わったり、休みの日には月に二回程度とはいえ、友達と遊びに行くこともあった。感性のおかしな点は依然改善されるきざしはないまでも、友達といっしょにいられるのであれば、良識的な部分では大きな進歩だと計助はご満悦だ。
「なんでおまえは普通におれへんのや?」
夏休みに入った直後、計助はちぢりと話す機会が増えだした折に、思いきってそんなことを聞いていた。当人は質問されたことに対して、まるでやましいことが何一つないといいたげに、小首を傾げて、丸い目を屈託なく向け続けていた。
「わたしは普通、だよ」
「違う違う、世間の普通のことや」
「その、計助さんの言う、世間の普通って?」
当時、まだくだけた話し方でなかったちぢりの反応があまりにしらじらしいとまで感じた計助は、彼女との疎通が思うようにいっていなかった時期でもあって、すぐさま痺れをきらした。
「そんな使い古された問答をするつもりはあらへん。ただ、分かっとるやろ。おまえは他と違うんや。人ってのは他との調和を軸にして生きてかなあかんもんで、それは俺かていっしょや。えらそうなことを言えたもんやないけども、違うものを受け入れるのはたいへんなんや」
「受け入れるのがたいへんっていうのは、世間の普通がそうなの? それとも計助さんの普通がそうなの?」
「両方がや」
なんてありえそうなやり取りだと気を急く計助だったが、ちぢりは一歩も引くことはなかった。ほのかに体を震わせながら、唇を青くさせながらも必死に目線だけはまっすぐ向け続けた。
「計助さんの言う世間に、計助さんは入っていてわたしは入っていないの? 計助さんの普通をわたしが守るとして、わたしの普通はどこに行ってしまうの? ううん、わたしは怒りもすれば泣きもするし、希望も夢もあれば絶望だってする、人の好き嫌いもあるし、ときにはすべてが嫌になりもする。そうして自分は他の人とは違う、特別だってどこかで信じていたりもする、それって普通じゃないのかな?」
彼女はけっして論理的ではないが、感情的でもないのだ。いうなれば、感覚的とでもいおうか、ときに嫌なほど物事の本質を捉えて離さないときがある。
ちぢりには、良いと思える所がたくさんある。ただ、それを薄もやのように隠してしまう、特異な性格があったのだ。その濃霧は受け手側が一方的に感じる問題かもしれない。いずれにしても、彼女がその性格をしている限り、非常に大きな隔絶があるのは間違いなかった。彼女の良さというのは、人との共有をはばもうとする性質を持っており、彼女の良さを共有することと他人との価値観の共有は、両立できぬものだということが、当時の計助には悔しくて仕方がなかったのだった。
いよいよ冬到来となったこの頃、計助はなんとなしに以前のやり取りを思いだすことが多くなった。当時から比べたなら、彼自身も非常におおらかになっていたし、ちぢりだって少なからず計助の意図したところが分かり始めているはずだ。その証拠に、彼女の話には、時折、友達の名前がでることがあった。それこそまさに世間に順応し始めた証拠であり、計助がひとり無理に奔走する必要などなく、自然に慣れ染まっていくものだったのかもしれない。
彼自身は考えもしなかったが、それには夏休みもの期間、計助が関わりを持とうとたくさんの時間を二人で会話をして、ときに静謐な愉悦をもってすごしたあれら無数の時間があってこその変化であったのだ。ちぢりが自分だけの殻から一歩外界へと歩みだすために不可欠な、大切な時間と存在だったのだ。
「秋から冬って、すごく混沌とした世界なんだね」
「どういう意味や?」
「だってさ、朝や夕方に空を見ていると、右と左で色が変わるんだもん。右は夕日が真っ赤な雲の立体造形を楽しんでいるのに、左からは青紫色がひたひたっと忍び寄っているの。朝だっていっしょで、移り変わりが目で見えるの。世界の半分を眺めているみたい」
確かに、秋や冬は色彩が乏しいと思いがちであるが、その実もっとも鮮やかなときかもしれない。春の桜のような優しさのない、鮮烈な枯葉や夕日の赤さがあるのだ。
「秋なんて、赤とか黄色だなんてイメージしかなかったけどな」
「でも、その両方がやっぱり本質なんじゃないかなって思うの。夕日が燃えるように赤いのは間違いないし、太陽が光を傾けることで、青い海が、緑色の木々が、きらきら黄色く輝くの。太陽って真上にあると自然本来の色を映しだすけれど、斜めから差し込むとすべてを太陽色に染めようとしちゃうの。自然の手品って、種も仕かけもないのに感動を生むんだからすてきなの。これを神秘的って呼ぶんだね」
十二月に入り、本格的な冬を迎えたなら、ちぢりは散歩中に突然立ち止まることが多くなった。
「ね、ちょっと待って」
すると目をつむって両手を広げ、二三度大きく深呼吸をする。ときにはその姿勢のまま、十数分いることもあった。
「風が耳にぶつかって、何かを伝えようとしているの。わたし、もう少しで風言語を理解できると思うの。今日は元気だとか、今が楽しい気分だとか、それくらいなら分かるようになってきたの」
漁師がそうであるように、風向きや潮気具合といった要素から、彼女なりに風を読むという感覚をつかんでいるのだろう。いずれにしても風が耳に触れるあの轟音を、雑音どころか言語と捉えるようであれば相変わらずの感性であったが、今や計助は取り立てて非難することもなかった。からかうことはあったが、彼女の魅力の一つだとして、決して否定だけはしないようにしていた。
二人にとっては、すべてが順調なほど経過していた。
「正月は実家に帰ろか。じじばばが口うるさいもんでな、せっかくこっちに連れてきとんやったら、正月くらいは顔見せいって。おまえにとっても久しぶりやろ」
「うん、おじいちゃんやおばあちゃんなんて、ぜんぜん記憶にないんだもん。遠いの?」
「車で五分くらいや」
歩いてでも十分に行ける距離だと分かったところで、別の疑問が頭をもたげるばかりだ。
「なのに、計助さんってこんな近くに家を建てて、独り暮らしなんてしてるの?」
「ええとこに気づいたな。結局、家族でもいっしょにおるといかんのや、だからこんな近くに家を建ててまで、俺は独りでおったんや。この一軒家は、いわば独り身の王宮みたいなもんや」
改めて聞くと、ちぢりにとっては嘘のような話だった。計助は家を建てるほどにまで独りでいることを好んでいたし、誰かと同じ空間を共有することは神経的に緊張と圧迫なのだ。
「だとすると、わたしは一時的にも王女さまでもいいのかな?」
計助が臆面なく笑うものだから、控えめに、勇気をふりしぼったちぢりは納得いかないと頬を膨らませた。ただ、思い直してみれば王女さまとは間違っていないかもしれない、ここが計助の言う独り身の王宮であればこそ。
「わたしと計助さんって、すごく不思議な仲じゃないかな。風みたいに、意識しなくても感じられる透明な存在、それでいて、いつも触れ合っているの。わたしたちって、ものすごく相性がいいと思うの。計助さんさえ嫌じゃなかったら、もうここを独りだけの王宮だなんて絶対に呼ばせないんだから」
秋はいつでも短いの
夏がひっそり隠れだしたら
冬がひたりと背後にしのぶ
衣替えの季節です
半袖も長袖も シャツもコートも
全部入り乱れたうるさい季節
さあ 肌寒くなってきた
心の衣も着替えましょう
温かい心に着替えましょう




