一 青いテント
「あの子を、お願いする上で……知っておいてもらいたいことがあるの」
病室の床から上半身を起こした状態で、妙齢の女性は途切れ途切れに言葉を放った。息切れが激しく、精一杯のあえぎともいえよう異状であったのは確かだ。長く黒い髪は生命力をも失ったように艶なく細く、ところどころ乱れていた。青白くやつれた頬からも病床生活の長さは一目瞭然であった。
かすれた声は打ち明けごとの重さを暗示しており、目線さえ合わせようとしない素振りからは、後ろめたさすら漂わせていて聞く者を身構えさせるには十分だった。
「義兄さんにお願いする上で、不躾なのは承知で言わせてもらうのだけれども……どうか、あの子を見放すことだけはしてくれないでほしいの」
控えめで丁寧な物腰とは裏腹に、あまりに度を超えた明け透けな物言いで、聞いている側としても良い印象は持てず、男の返答がついぶっきらぼうとなってしまうことも半ば必然だ。男は不快を露ほども隠さずに、口先をとがらせて目を据わらせた。
「そりゃおまえにしてみりゃ、ええ歳して独り身の俺を選んだだけで、信頼なんて二の次やろうけど、言い方ってもんがあるやん。俺は俺なりに責任持って引き受けるつもりやし、途中で投げだすとか、見放すなんてまねはせぇへんつもりやで」
「ごめんなさい、何もそんなつもりで言ったわけじゃなかったの。でもね、ただでさえあの子は町で育ったというだけで、地方にも出たことのない子で、ましてやわたしがこの体だったから、ほとんど旅行にも行かなかったし、それに……少し、特徴的なの」
「誰だってそうやん。誰でも自分は特別で個性的やろ」
特有のイントネーションは関西弁ともまったく異なり、随所で突然音が高くなる辺りは、興奮しているかのような錯覚をもよおさせる。男の訛りは独特の地域に住んでいることを示すのにはまたとなく典型的であった。標準語と比べたなら、無意識にも高圧的にとられかねない物言いとなるため、女性の言葉はその方言を遠回しに指摘した意味も含んでいた。
指摘など気付かぬ男は、短いざんばら頭をかきながら、ため息交じりの言葉を返す。
「あんなぁ、俺はこのために高校の転校手続きもやったんやで。知らんやろ、高校の転校手続きってめっちゃめんどいんよ。ましてや受験とかぶるこの時期に、この春から高一になる生徒を転入させるなんて、どんだけ骨折ったか」
女はまくしたてようとする男の方へ軽く向き直って無言でいたなら、男もため息と共に口を噤んだ。どうにもすぐ突っかかってしまう辺りは男も自覚しているらしく、目線でとがめられた形となった。
「そうね、あの子が小学校に入った頃かしら……特急電車に乗るときにね、お金がいるようになったってはしゃぎにはしゃいでいた、そのときだったの。『まま、でんしゃって、ふしぎ』だなんて突然言いだすの。子供に特有の、突飛な思いつきでもあったのだろうなって聞き返したなら、あの子はこんなことを言ったのよ。『でんしゃって、やすみの日のほうが、すくないの』って」
男は一拍置いて、一日にでている電車の本数が、休みの日の方が少ない、という意味だと気付いた。
言われてみると、子供ならではの視点かもしれないと男は期せずして頷いた。地方暮らしだから電車の本数は一時間に一本だの二本だのと気の遠くなる程度で、一日の本数などたかが知れているというのに、ついぞ一日にどれほどの電車が往来しているかなど考えたことはなかった。そもそもそんなものだ、と認識してしまうと、特殊だとか、不思議だといった思考にたどり着くことが困難だ。
「それからあの子は休みのほうが少ないものだなんて、郵便屋さんとか、ランドセルだとか、雨の日とか探しだしてね……そのときはね、親の宿命なのかな。この子はなんて所に気がつくのだろう、天才に違いないだなんて感激して、ついお菓子を買ってあげたくらいでね」
嬉しそうに昔を懐古するものだから、野暮たらしく口をはさむことこそしなかったが、この話がどこに落ち着こうとしているのかが気になって男は目線を明後日の方向へと向けて舌打ちした。いつまでも気持ち良く昔に浸っていたかったのだろう、女は渋々といった調子で、続きを語りだしたのだ。
「雲って、空の汚れみたい」
だし抜けに女が言うものだから、男はあっけにとられることしかできなかった。
「これも、あの子の言葉なの。中学校に入りたてだったかな、東京湾からかなたを眺めて、上気していたわ」
「不健康な発想やな」
率直な感想だった。雲が空に対する装飾やぬり跡というような表現なら分からないでもない。ところが、汚れと言われてしまうと、心のどこかをわずらっているような懸念すら抱いてしまう。
「どうかな、大きくひらけた空をみたとき、真上は雲一つないのに、隅っこの方には雲が連なっているような景色って、言われてみると分からない? 空ってどこまでも果てしなく遠くが見えるから、隅の方を見ればどこかしか雲が連なっているの。知ってる? わたしたちの真上の空は青くても、視界の隅の空は雲で白いの。あの子にとって、それがコップの縁に残るコーヒーや紅茶の跡に見えたみたいなの。わたしたちは、言われなきゃ汚れが隅っこに囲われるようにつくことも意識しないでいるのよ」
説明されれば分からないではないが、そうやって二つの事象が繋がることについていうなれば、なるほどと頷くことははばかられた。男としても上手く表現できなかったが、腑に落ちにくいというか、納得しにくい発想だった。
「あの子はそれからも、ずっとそうだったの。個性だとか、独特なんて言い方をすれば聞こえはいいけれど、感性が周囲とずれている感じだったわ。悲しいけれど、友達がいなかったんじゃないかって思うの。いつも河原で一人して遊んでいるみたいだったし、それが本当に楽しそうだったからわたしも心配になりだしてね……だって、何も特別であって欲しいなんて思わないじゃない。小さい頃ならまだしも、思春期を迎えるこの時点で、やっぱりどこか、変じゃないかって」
「おまえは我が子のことやもんで神経質になっとるだけや。考えすぎやろ、年頃やもんで、なんか個性的やとか、特別なもんに憧れるのは分からんでもないやん」
「でもね、昨日だって、この病室から外の樹木を見たとたん、あの子ったら『みんな太陽が好きなんだね』って嬉しそうなの。その直後には、『どうして太陽って沈むのかな。こんなにたくさんの木々が、太陽の笑顔を見ようとこぞって競争しているのに』って言ってしばらく無言でいたの。わたしもなにも言えなくってただ静かに、どうしてこんな発想をしてしまうのかって少し悲しさを覚えながらあの子をみていたわ。そんなわたしなんて気にもとめられぬふうに外とにらめっこしていたなら、突然喜びに飛び跳ねてわたしに言ったの。『わたし発見したの、太陽が沈むから、地球は丸いんだ! 地球の裏にも太陽を待っている木々がいるから。世界が平らだったら、太陽はずっと上にいていいんだもん』なんてよ、高校生になろうとする子が」
言われてみても、実際にその場にいないし、想像したところで不思議な子だとか、面倒だとかばかりが男の頭には浮かぶだけで、その子が異端だどうだということには一切の興味を持てなかった。もう少しでも想像力をたくましく働かせれば、つまりは地球が丸いことに疑問を持っているという焦点をいぶかってみたならば、おかしさの一端を垣間見ることができただろうが、残念ながら男は否定的に捉えてしまい、過保護がゆえの無用な心配に違いないと片付けてしまったのだ。男としては、希望していたもの静かな子と相反する性格のようだと落胆が勝っており、何よりも、ほぼ初対面の相手について最も身近な肉親から一方的に聞かされたところで、根は良い子なんだと脳裏にすり込まれるのがおちだと捕らえており、まともに取り合う気などなかった。
「それがあの子のいいところでもあるのかもしれないけど、とても……それにあの子ったら、よく一人きりの世界に入っちゃう癖があってね、子どもがおもちゃを見つけたら脇目もふらないのと同じなのよ、わたしには入り込めない世界で、もうどうすればいいのか分からないの」
「もうええよ、おまえは何かと考えすぎなんよ。ええ、ええ、ゆうても本当の親になるわけやなし、とりあえずちゃんと面倒見るから娘の心配はせんと、自分の体を気遣ってやり」
男はなだめるように女の体を寝かしつけると、ため息とともに、これから始まる年頃の娘との暮らしというものに、懸念だけを感じてしまっていた。
「富士山って、電車からみるとすごくくっきり見えるね。すごい、すごいの」
黒い髪を左右に振り振り、窓ガラスと男の顔を見回して、大きな目を開きながら顔をすっかり紅潮させる娘がいた。年甲斐もなく靴を脱ぎすてては、膝をついて窓ガラスにべったりだ。膝下までのスカートが窮屈であると言いたげに、腰を何度かくねらせた。
戸倉計助は隣の少女を見て、とんでもないお守りを買ってでたものだと、我ながら驚いていた。今年高校に入る少女は、母子家庭であり、入院生活の長い母親がとうとう手術を受けることにしたため、一時的に祖父母の家へと預けることで話を進めていたのだ。しかし年金生活の祖父母にどれだけの財力があるだろう、高校までも片道一時間半を越えるとあっては、本分だってままならない。そこで、代表して面倒を引き受けたのが彼なのだ。やましい思いなどはなく、若くして計助の弟こと旦那を失くした女性を慮っての行為であった。四十近くにもなって独り身ということもあり、あいにく生活の不自由はこれといってない。自負できるほどに適任でもあった。
「こんなにきれいに見えるなんて、わたしと富士山の間に空間なんてないみたい。袖の白さと、富士山の白さってまったく同じなんだもん。どうして遠くにあるのかな?」
なるほど、変なことを言うものだと、ここに来て母親の心配の意味をいささかなり理解することができた。地図を見れば一目瞭然、考えるまでもなく遠くにあるものをどうしてという疑問に絡めてくるなんて、面倒なやつだと計助はそっぽを向いたままでいた。
「距離って生き物だよね。霧がかった日だと空に一体化しちゃってどっか行っちゃうのに、今日みたいな晴天だと手を伸ばせば届くぐらいなんだもん」
「新幹線の中や、あんまり大きな声でしゃべくると迷惑やぞ」
「ごめんなさい、つい嬉しくって」
少女は素直に新幹線の座席に腰かけたが、ちらりちらりと計助をうかがい、上目遣いにおずおずといった様子で、話すことをやめなかった。
「富士山ってやっぱりすごいね、日本一だもん。ねね、おじさんはなにか日本一のものって持ってるのかな」
「そんなもんがあったら、オリンピックでも目指すわ」
「でしょでしょ、きっとここにいるみんなそうだと思うの」
杓谷ちぢりは、幼い頃に一度会ったことがあるだけの計助にも人懐こく、他愛なく接するが、彼にとっては少々面倒だと眉をしかめるに至った。口うるさく面倒だと感じたなら、なるほど母親が計助の性格を気にかけるのももっともだと、この期に及んで心配が彼の鎌首をもたげるのだった。
少女は母親譲りの黒い髪を肩まで切りそろえ、大きな目に整った眉、突きだし気味の口元はりりしさすら表していたが、どこか幼い印象を与えるのは、常に目を輝かせながら、遠足か旅行かといった具合に絶えず頬を朱に染めていることからきているのだろう。慎ましやかにいるかと思えば、次には興味に心を惹かれ、体裁もいとわずに無邪気に興奮するあたりは子どものそれだ。風貌と言動のそぐわなさが滑稽な感を際立たせていた。
「富士山は、自分が日本一だって知らないんじゃないかな。だって、何千年とここにいるんだもん、自分がとくべつ注目を浴びてるって自覚はなくって、山はおしなべてこんなもんなんだろうなんて認めてのんびりと座り込んでるの。教えてあげたらきっと喜んでくれるだろうのにな」
浮かれながら言葉を止めぬ雰囲気の少女を見て、計助は母親が伝えたかった真意を少なからず理解した気がした。
確かに普通の人とは、ずいぶんと考えがずれていることは間違いなさそうだ。
「本物は、雲を貫く勢いですごくおごそかなの。あそこに行って雲を吸い込んだら、宙に浮けそうだなんて思っちゃう。ね、地元の人たちは富士山が消えてしまわないかって心配にならないのかな? それこそ雲隠れしたり、実は幻なんじゃないかって思わないのかな?」
「地元の人に聞かんと分からんわな、そりゃ」
「遠くから見てると、富士山が土でできているだなんて、誰が信じるのかなんて疑っちゃう。あれがハンカチじゃないって証明できたら、世紀の発見のようにも思えちゃうもん。遠くから土を見ると青くなるなんて、普段から富士山を見ている人たちに言っても信じないんだろうね。考えだしたらきりがないの、わたしが土でできてるんじゃないかって疑いももたげるんだもん。それにさ、おじさん。あれ、何に見える?」
ちぢりの指し示す先には、変わらずに富士山がどっしりと腰を据えており、この期に及んで意図の分からぬ質問だと、計助は眉をひそめた。
「何にって、富士山やろ?」
「そうなんだけど、そうじゃなくて、何かに見えない?」
「山とか」
「……うん、そう、山、ね」
母親への心配を表に出さなくするばかりに、無理に明るさを装って口数が多いのかもしれないと考えてもみるが、それにしても突飛な発想だ。計助はうんざりとしながら適当に返してやると、ちぢりは富士山の話はご法度とでも認識したらしく、慌てて話題を変えようとした。
「山って、遠くに眺められるときって、雲の影絵ができるときがあるの。神さまのお遊戯って、大胆で、わたしたちが些細な存在だって圧倒されちゃうよね」
しれっと言うことにかいて、計助の想像力をはるかに凌駕した。ここまできてとうとう、計助としても、おそらくちぢりの側でも、会話が思うようになり立たないという状態を共有するに至ったのだった。
彼女が利口なことは、ここで話をすっぱりときり止めたことだ。計助の正面に向き直って口元をほころばせた。
「そういえば計助さんのこと、ちゃんと呼んだことなかったね。ね、計助さん、わたしのこともちゃんと呼んで」
「……ええから、おじさんで」
「おじさんなんて、計助さんまだまだ若いのに。わたしのことは呼び捨てでいいけれど、ちゃんと名前で呼んで欲しいな」
「ちぢりでええんやろ」
「うん。それでさ、計助さん。三重県って、サーキットとか、神宮があるところだよね。わたし、神宮は一度行ってみたかったの」
「俺んげは、神宮にえろお近いで。電車のほとんど終点やけど、引越しがひと段落したら連れてったろ」
「うん、うん! 約束だからね」
「そんで、俺は眠いんや。ちょっと静かにしといてや」
すると計助は、ゆっくりと目を閉じて、呼吸を小さくした。目の前でちぢりはノートを取り出し、何か書き始めたようだったが、もの静かになるなら何をしてくれていてもかまわぬと素知らぬ風で、彼はまどろみに浸かった。
だから計助はひとり身でいるというのに。結婚話の一つや二つ、なかったわけでもないし、機会だっていくつかあった。それ以上に彼は、静寂でいることを好み、他人といっしょにいることの窮屈さや、監視に耐えることができなかったのだ。自由をとったがために、彼はこれまでの人生において、共有するということをばっさり切り捨ててきたのだ。気を使いながらの生活なんて、まっぴらだと言い張ったのだ。
果たしてこの少女との生活はどのようなものになるのだろうか、とても想像の及ぶ範囲でないことに、計助はいささかの不安を覚えていた。
だいだらぼっちが のっそりと
樹海の柔な 芝生を見つけ
青いテントを つるし広げて
雲を貫き 雪をかぶせて
一仕事 終えたぞお
あけぼのの まばゆい季節
雪を支える 山の中では
だいだらぼっちの いびきばかりが
地中深くに 轟くだろう