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第七幕 今さらな話(一)

 凡ソ士ノ職分ト云ハ、其身ヲ顧ニ、主人ヲ得テ奉公ノ忠ヲ尽シ、朋輩二交テ信ヲ厚クシ、身ノ独リヲ慎デ義ヲ専トスルニアリ。

                    (『山鹿語類』巻第二十一「士道」 立本 知己職分)

「――くそ、なんてやつだ……」

 水面を渡り、土手の下草をさざ波立たせる夜風の音を聞きながら、黒に金ボタンの古風な学生服を身に纏った男子高生は、眼前に広がる漆黒の闇をその鋭い眼でじっと睨んでいた。

 時折、土手の上の道を通りすぎる車のシャー…という走行音が、どこか物悲しい響きを周囲の夜気に刻んでいる……。

 そんな人気のない夜の河川敷で、学ラン姿の男子高生は細長い棒切れのような木刀を高々と脇に構え、高架橋の下にできた一際深い闇の中に潜む者と対峙していた。

 その暗闇の中に潜む者――それは、周囲と同じような漆黒の衣装に身を包む、まるで宵闇の凝り固まったかのような人物である。

 …ザッ……ザッ……。

 その怪人物が一歩、また一歩と、河川敷の砂を確実に踏みしめながら、彼の方へ向けて近付いて来る……すると、真っ暗闇から辛うじて街灯の明かりが届く範囲へと入ったその者の手には、鈍い銀色の光をぼんやりと反射する、一本の日本刀がすらりと握られている。

 そう……それは昨夜、住宅街の路地裏で明倫高校の生徒を襲ったあの刃と同一のものである。

「くそったれがあ……なめんじゃねーぞコラぁっ! チィエストぉぉぉぉーっ!」

 暗闇からまた一歩、怪人物の足が街灯の光の下へと差し出されたその瞬間、男子学生は気迫の籠った咆哮を発し、高く掲げた棒状の木刀を一気呵成に振り下ろす。

 バシンッ…!

「ぐがっ……」

 ……だが、暗闇に向かって振り下ろされたその木刀は手から零れ落ち、学生は短い呻きとともに闇の中へと倒れ込む。

 それと入れ違うかのようにして、淡い街灯の明かりの下へと姿を現したその人物が、上方へと斬り上げた剣をだらりと下ろし、横たわる学生の方をゆっくりと振り返る……。

 その、オレンジ色の光に晒された全身黒ジャージに身を包む人物の顔には、蒼白い、額から二本の鋭い角が生えた恨めしげな形相の鬼――般若の面が着けられていた……。


「――っとに……今度約束破ったら、こんなもんじゃ済まないからね!」

 朝の清々しい空気の中、真琴は苛立たしげに斜め後方へ向かって言葉を発する。

「わ、わかったでござるよ……」

 その斜め後方にいる、彼女以外の者にはけして見えない森本喜十郎の霊は、ひどく弱り切った顔で渋々そう答えた。よく見ると、彼の顔や丁髷(ちょんまげ)を結うために剃り上げた月代(さかやき)の部分には、幽霊であるにも関わらず何か火傷をしたような痣が残っている。

 実は昨日、約束を破って再び真琴の体に憑依し、勝手に剣道部の練習に参加していい汗をかいた喜十郎は、帰宅後、怒り狂った真琴によってみっちりと折檻されたのだった。

 家中のお守りやらお札やらをかき集めて来ては喜十郎に投げつけたり、仏壇に置かれていた経典を出して来ては延々彼の耳元で唱えたりと、それはもう、幽霊にとってはそら恐ろしい、地獄の責め苦のような有様であった。

「もう、かような仕打ちは二度と御免にござる……」

 喜十郎は凛々しい黒い眉を「へ」の字に曲げて、月代の痣を撫でながら真琴の後について歩く。その痛々しい痣はそんな昨晩の折檻によってできたものなのだ。ちなみにそうしたことを散々やられても、どうやら前に彼の言っていた通り、成仏することはなかったらしい。

「だったら、ちゃんと約束は守りなさいよね!」

 暗い表情の喜十郎に、真琴は振り向きもせずにピシャリと言いつける。

 それにしても、本人はいまだ気付いていない様子であるが、侍の霊に取り憑かれたせいなのか? それともこの異常な事態に何かが狂ってしまったのか? いつもは感情の起伏の少ない真琴の性格が、ここのところなんだか微妙に変化してきているみたいである。

「ハァ…こんな迷惑千万な侍の霊とは一刻も早くおさらばしたいっていうのに……こいつをあたしから引き剥がすにはあの刀を例の骨董屋に返すしかないし、なのにそのお店はどこをどう探してもぜんぜん見付からないし……ほんと、もうどうすればいいんだろう……」

 そんな真琴が大きく溜息を吐くと、往来の真ん中でがっくり肩を落として誰に言うとでもなく呟く。

 そういえば新たにもう一つ…というか今更なことなのだが判明したことがある。それは昨晩、折檻を終えた後でのこと――


「――ん? ちょっと待って……そういえばあなた、これがなんとかいう人の作った名刀だとか言ってたわよね? ってことは、これってもしかして……真…剣?」

 例の骨董屋が見つからぬ以上、何か喜十郎を成仏させるためのよい方法はないものかと再び抜いた日本刀を見つめながら、真琴はふと抱いた疑問を傍らに佇む侍の霊に尋ねる。

「無論。もしかしなくてもそうにござるよ。かの胴田貫正国(どうたぬきまさくに)の作にござる。とはいえ、悲しいかな自由になる肉体も持たぬ儚い霊体の身。長年、手入れすることもままず、これこのように多少、錆びてはござるがな」

 すると、嫌な予感をその蒼ざめた顔に浮かべる真琴に、痣だらけの侍の霊はさも当然というようにそう言って退けた。嫌な予感、見事に大的中である。

「………………」

 それを聞いて、真琴はおそるおそるその日本刀の刃に指を当ててみる……すると、すっと少し指を引いた瞬間、指先に熱い鉄に触れたかのような鋭い痛みが走り、切れた薄皮の隙間からは真っ赤な血が滲み出してきた。

「ひっ……や、やっぱり本物の刀……」

「だからそう申してござろう? 武士たる者がそんな竹光や(なまく)ら刀に取り憑いているわけがないではござらぬか」

「ハァ~……届け出してないし、これであたしも銃刀法違反で前科一犯だ……」

 なぜだか胸を張って嘯く喜十郎に、真琴は大きく深い溜息を吐いた――。


「――ハァ……あたし、いったい何やってんだろう? なんでこんなことになっちゃってるのかな?」

 そうした昨夜の遣り取りを思い出し、真琴はまだ朝だとうのに今日すでに何度目かとなる溜息をまたもや往来の真ん中で吐く。

「真琴殿、いくら女子(おなご)といえど武家の娘ならば、そのように溜息ばかり吐くのはみっとものうござるぞ?」

 そんな真琴を見て、何を思ったか喜十郎は厳めしい顔で説教を垂れ始める。

「おまえが言うな! …って、その前にあたしは武士でも武家の娘でもありません!」

 その溜息の原因自身にそう言われ、思わずカチンとくる真琴であったが、それ以上になんだか勘違いしているらしいことが気になるので律儀にも訂正を入れる。

「おや? そうでござるのか? 学問所に通っておられるので、てっきり武家の子弟かと思ったでござるが?」

「あのね。今の時代、武士だろうがなんだろうが、誰でも学校に行くの! っていうか、そもそも武士なんて身分、今の世の中にはもうないからね!」

 意外そうな顔をする喜十郎に、真琴は少しだけ首を後に向けながら不機嫌そうにツッコむ。

「ふーむ。そのようなものでござるか……では、真琴殿のお父上はいかなる仕事をなされている方なのでござる?」

 真琴の言ったことをちゃんとわかったのか、わかっていないのか? なんだか得心のいかぬ様子の喜十郎は続いてそんな質問を返してくる。

「え? お父さん? うちのお父さんは市役所でしがない地方公務員やってるけど……」

「公務員?」

「えーと……昔風にいったら、まあ、藩のお役人ってとこかな?」

 首を傾げる喜十郎に、真琴は江戸時代と現代の社会システムを頭の中で比べながら、大雑把にそう訳して一五〇年も前の人間(だった霊)に説明した。

「おお! 役人でござるか! なれば、やはり武士ではござらぬか!」

 すると、喜十郎は大変納得といった顔をして、しかし、なおもはなはだ勘違いをした解釈を下してくる。

「いや、だから武士じゃないって。別に刀差してるわけじゃないし、切腹もしないし、そんな特権階級でもないんだから。それに公務員は家柄とか血筋とかでなるんじゃなくて、誰でも試験に合格すればなれるものだし」

「試験? 唐人(とうじん)が行うという科挙(かきょ)のようなものにござるか? いいや。そのように門戸が広く開かれているといえども、それはやはり武士にござるよ」

 そんなものわかりの悪い侍の霊に改めてツッコミを入れる真琴であったが、喜十郎はおもむろに腕を組み、なぜだか胸を張って〝武士〟というものの定義について講釈を始める。

「よいでござるか? 武士という者は農民、工人、商人の三民の如く生業をなさぬ代りに、彼らの営みを守るために(まつりごと)を司り、天下万民の泰平を治める者にござる。また、生業に忙しい農工商に代わって人倫の道を修めることを専らとし、他の三民の手本となって天下に正しく人倫が行われるようにするのが武士の務めにござる。山鹿素行(やまがそこう)先生の『士道論(しどうろん)』でもそうおっしゃられているでござるよ」

「言ってることぜんぜんよくわかんないんですけど……人倫って、つまり道徳的ってこと? まあ、公務員も公務員規定とかあって周りの目が厳しいらしいし、役人ってとこじゃ似てるといえば似てるけど……え、でも、武士ってそんなもんなの? なんか、あたしの中のイメージでは刀持って戦う人って感じだったんだけど……」

 喜十郎のいう自分のイメージとはどこか違った武士の定義に、真琴は思わずそんな疑問を口にする。

「ああ、もちろん武芸に励み、一度(ひとたび)大事ある時には主君のために身命を賭して働くのが武士の本分にござるが、ただ乱を好むだけでは単なる野蛮人にござる。〝武〟とともに人倫の道を説く〝(ぶん)〟にも励む……即ち文武両道。これが武士の生きる道――士道にござる」

「ふーん。士道ねえ……それって、あの〝武士道と云うは死ぬ事と見付けたり〟とかいうあれ?」

 なぜだか〝武士道〟の方へと移行してしまった朝のおしゃべりの話題に、真琴は記憶を巡らせて、なんとなく憶えているフレーズを呟いた。

「ああ、それは山本常朝(やまもとつねとも)殿の話を田代陣基(たしろつらもと)殿が書き留めた『葉隠(はがくれ)』にござる。よくそんなもの知ってるでござるな? 真琴殿、なんだかんだ言って、やはり武家の娘としての教養を持っているではござらんか」

「いや、ただよく聞く言葉だから知ってただけで……別にそのなんとかいう人も誰だか知らないし……」

 いたく感心する喜十郎に、真琴は手をひらひらと振って醒めた顔で再び否定した。

「確かに『葉隠』には見習うべき教えも多々あり、武士は常に死を覚悟すべきこととか、主君への忠義を忍ぶ恋に例えている所などはそれがしも好きでござる。しかし、あれに書かれる〝武士道〟は主流のそれではなく、山本殿による鍋島藩の武士道にござる。それがしが手本とするは先に挙げた山鹿素行(やまがそこう)先生や中江藤樹(なかえとうじゅ)先生、それに大道寺友山(だいどうじゆうざん)先生などが説かれる、文武両道を志し、天下を治める武士としての徳目を重視する主流の〝士道〟にござるな」

「へぇ~…武士道って一言にいってもいろいろなんだ……なんか、今まで思ってたイメージとはちょっと違う感じだけど……ま、本物の武士の霊が言ってるんだから、きっとそういうもんなんだろうね」

 昔、本当に武士であった実物(´´)の話す〝武士〟の真相に、真琴は図らずも感心してしまう。

「で、その士道でいう武士の道徳ってなんなの? 人倫とか抽象的に言われても、なんかぼんやりとしてて、あんましよくわかんないんだけど?」

「そうでござるな……まあ、言うなれば、主君に忠を尽くし、親に孝をなし、友と信を厚くし、礼節を重んじ、文武に励み、義によって生きる……といったところにござろうかな? そして、天下の乱れをただし、三民を安堵せしめるのが武士の職分にござる」

 なんとなく食いついてしまった真琴のその素朴な疑問に、喜十郎は士道の要点を簡潔にまとめて、書物の一節を読み上げるが如く朗々とそう答えた。

「なるほどね……なんとなくわかったような、わからないような気がするよ」

 だが、小難しい言葉の連続に真琴はポカンとした顔でそんな曖昧な感想を述べる。

「それではわかってないではござらぬかあ……まあ、いいでござる。と、いうようなことで、武士が武芸に励むのは当然の(なら)い。ゆえに、やはり剣術の稽古の折にはそれがしにも参加させていただきたく……」

 真琴の感想に渋い顔を作る喜十郎であったが、(したた)かにもこの期を逃さず、また部活の時に彼女の体を使わせてくれるよう、何気なさを装って再度の懇願を試みる。

「ダメっ!」

 しかし、その願いは即行で却下された。

「勝手にいろいろされたら、あたしが変な目で見られることになるし、それに無理して体使うから、後でひどい筋肉痛になっちゃって大変なんだからね。そうだ! 別にあたしの体使わなくたって、あなた、こうして出て来られるんだから、霊体のままで稽古すればいいじゃないの?」

「いや、やはり肉体がないと、どうにもやった気がしないでござるよ」

 ふと真琴が思い付いたというか、今更ながらに気付いたその方法にも、霊的存在である喜十郎は渋い顔で難色を示す。

「そんなの知らないわよ! まったく、贅沢な侍の幽霊ね!」

「フン。真琴殿は士道というものと霊の気持ちがまるでわかってないでござるよ」

 売り言葉に買い言葉、会話する内にどんどんと真琴の口調は鋭くなり、喜十郎の方も不機嫌そうにそっぽを向いて拗ねる。

「それを言うなら、もう二度と勝手なことしないっていう約束破ったのは、信や義を重んじる士道ってやつに反するんじゃないの?」

「うっ…そ、それは……」

 だが、ちゃっかり痛い所を突いてくる真琴のその言葉に、喜十郎はますます渋い顔を作って閉口させられてしまう。

「真琴殿……ちゃんと士道、わかってるではござらぬか――」


つづく由にござる…。

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