第一幕 平凡な少女(一)
凡ソ士ノ職分ト云ハ、其身ヲ顧ニ、主人ヲ得テ奉公ノ忠ヲ尽シ、朋輩二交テ信ヲ厚クシ、身ノ独リヲ慎デ義ヲ専トスルニアリ。
(『山鹿語類』巻第二十一「士道」 立本 知己職分)
――ガシャ、ガシャ…。
「ヤァァァァーっ! 面えぇぇぇーんっ!」
ガシャン…!
「胴おぉぉぉーっ!」
気合と気合、竹刀と竹刀のぶつかり合う音が幾重にも重なり、一つの大きな喧噪となって道場内を満たしている……。
そんな独特の雰囲気を持つ喧噪の中、彼女は道場の壁際にちょこんと座り、互いに激しく打ち合う防具姿の部員達を眺めていた。
……否、彼女の視線の先にあるものは部員達(´)ではない。それは、ある一人の男子部員にのみ向けられている。その人物が踏み込み、あるいは退き、あるいは竹刀を振り上げて打ち込む動きに合わせ、彼女のとろんとした眼差しは懸命にその後を追ってゆく……。
長い黒髪をポニーテールに結び、背に草書体の白字で「日新高校剣道部」と書かれた黒ジャージを着る彼女の名は近藤真琴。この春で二年となる、どこにでもいる平凡な普通の女子高生である。
特に容姿が優れているわけでもなく、かといって不細工かといえば、そうでもない。背も高くなく、けれど低くもなく、ギャル系でもないし、おネエ系でもない、強いていえば多少ロリ系か? 勉強の成績も中ぐらいで、不良でもないし、優等生でもない。運動神経も極めて並のレベルだ。
即ち、これといった特徴の何もない、本当にどこにでもいる平々凡々な女の子なのである。
また、そんな外見を反映してか、特に打ち込める趣味や人生の目標というようなものもまるでなく、彼女はただただ凡庸に日々の高校生活を過ごしている。
そんな彼女がこの日新高剣道部のマネージャーになったのも、別段、何か主体的な動機があったからというわけではなく、先にマネージャーとなっていた友人に誘われ、ただなんとなく入部した……という程度のものであった。
しかし、剣道部のマネージャーになって一年。彼女にも一つだけ心より打ち込めるものができた。
それは……
「あ、真琴、また松平先輩のこと見てるなぁ~?」
となりで同じく体育座りをする黒ジャージの少女が、その無邪気な顔にイヤラしい笑みを浮かべながらそう尋ねた。
セミロングの髪に、堂々と出したオデコが溌剌として見える彼女は佐々木民恵。真琴の中学時代からの親友にして、この部に誘った張本人である。
「……えっ! ち、ち、違うよ! べ、別に先輩のことだけを見てたわけじゃ…」
突然の民恵の言葉に、真琴は思わず顔を赤らめると慌てて首を左右に振った。
「誰が見たってバレバレだって。もう、そんなに好きなら、いい加減、告っちゃえば?」
「で、できるわけないじゃない! な、何言ってるの、もう…」
「松平先輩、そうとうな剣道バカで痛いくらいの時代劇ヲタだけど、その点を除けば普通にカッコイイし、けっこう狙ってる子も多いんだからね。密かに思いを寄せる純情乙女も確かに萌えるけど、おちおちしてると誰かに先越されちゃうぞお~?」
ますます顔を真っ赤にして慌てふためく真琴を、民恵はなおもイヤラしい目つきでおもしろそうに眺める。
「そんなこと言われたってぇ……フられるのは目に見えてるし……そうなったら嫌だし……」
「んなの言ってみなくちゃわからないじゃん。ここは一つ、玉砕する覚悟で!」
「ぎょ、玉砕なんてもっと嫌だよう! ……ううん。結果は決まってるんだから、そんな覚悟も必要ないよ……」
俯き、もごもごと口籠るネガティブな真琴を民恵はいつものように後押ししてみるが、彼女は不意に表情を曇らすと、どこか物憂げな笑みを湛えて、再び部員達の方へ視線を向けた。
「ダメだよ。ぜったい……カワイイわけじゃないし、これと言って取柄があるわけでもないし、きっと先輩、あたしなんか相手にしてくれないよ。そんな目に見えた玉砕するより、あたしはこのまま同じ部の後輩として、先輩のことを近くで見守っていられればそれでいいんだぁ……」
「真琴……ハァ…ったく、近年稀に見る天然記念物級の恋する純情少女なんだからぁ……」
「よーし! やめーいっ!」
民恵が深い溜息を吐くのと同時に、道場内にはよく通る大音声が響き渡る。稽古を止めるよう指示する部長――即ち真琴が恋する件の相手、松平の声である。
その掛け声を聞くや一瞬にして竹刀の上げていたけたたましい騒音は鳴り止み、辺りはピンと張りつめた、風のない湖面のような静寂に支配される……そのわずか後、お互い中段に構え直し、礼をして後に下がった部員達は、それぞれの定められた位置に正座して一斉に重たい面(´)を外した。
「フゥ……」
部長の松平も道場正面の一番前に正座し、自身を守ってくれる対価として、その身を窮屈に拘束していた面を取り去る。すると、中からは汗ばんだ顔を上気させ、一息、大きく息を吐き出す精悍な少年の顔が現れた。
「………………」
やはり道場の片隅に座したまま、真琴はじっと、そのなかなかに男前な先輩の顔を瞬きもせずに見つめている。
彼女が一つ上の先輩である松平貴守を好きになったのは、いったい、いつの頃からのことだったのだろう……改めて問われると、いつからだったのか? 正確なことは憶えていない。また、なぜ好きになったのか? という理由についても自分自身よくわかっていなかったりする。
初めて出会ったのは一年前……この日新高校に入学して、民恵の誘いでなんとなく剣道部のマネージャーになった時だ。
でも、その時の松平は真琴にとって、ただの部の先輩の一人にすぎなかった。確かに松平は甘いマスクだし、剣道の腕も県大会で二位になる程の腕前である。それに現在、部長の大役を任されていることからもわかるように、けっこう頼りがいのある男らしい人柄だったりもする。
しかし、だからと言って、それが彼を好きになった理由かと問われれば、そういうわけでもないような気がする。彼の顔が真琴の好みのタイプというのでもなかったし、無論、真琴が剣道好きというわけでもない。おまけに趣味趣向の面に至っては、ヲタはヲタでも時代劇ヲタという、アニメやアイドルのヲタも霞むレアな存在であり、凡人の真琴とは重なるどころか、かする隙すらもない。
なぜだかよくわからないが、気付いたら好きになっていた……それが、恐らくは正確なところなのであろう。
まあ、〝恋〟なんてものは、きっとそんなものなんだろうと真琴は思う。
「では、今日の練習はこれまで。全員、黙想!」
部員達が落ち着いたところで再び松平が声をかけると、全員、居住まいを正し、手を下腹の前で組んで静かに目を瞑る。
それを見て、真琴と民恵も慌てて正坐をすると、皆と同じように瞳を閉じた。
……だが、となりで真剣に目を瞑る民恵に対し、真琴はこっそりと瞼を開け、穏やかな顔で瞑想する松平の方に再度、視線を向ける。
恋とは不思議なものである……こうして、ただ好きな人の顔を見ているだけで、なんだかとても幸せな気分になってくる。
それに「恋は人を変える」とよく言うが、確かに真琴も少し変わった。最初はただなんとなく〝みんな何かしら部活をしているから〟という極めて消極的な理由と、あとは強引な友人の民恵に誘われるがままに、なんの目的も持たずに参加していたこの剣道部であるが、最近では放課後ここへ来ることがなんだかとても楽しみになってきている。
いや、それどころか、毎日同じことを繰り返し、なんのおもしろみも感じることのなかった無気力な高校生活が、松平に恋心を抱くようになって以来、どこか輝いて見えるようにもなっているのだ。
恋とは、そんな楽しいものなのである。
…………でも、これ以上、どうすることもできないし……。
松平を見つめる真琴の顔に、不意に暗い表情が浮かぶ……そう。恋とはまた、苦しいものでもあるのだ。
民ちゃんにはああ言ったけど、あたしだってほんとは先輩ともっと親しくなりたい……二人で並んで歩いたり、もっとたくさんおしゃべりなんかもしてみたい……でも、こんななんの取柄もないあたしじゃ、きっと先輩も迷惑するだろうな……こんなあたしに好きだなんて言われたって……。
「やめーい!」
真琴がそうして憂鬱な感情に苛まれていると、松平がまた号令をかけ、全員が一斉に黙想をやめて両の目を開く。
その凛とした声に、真琴も少し驚いた顔で背筋を伸ばすと、となりの民恵や他の者同様、自分も真面目に黙想していたかのような振りをしてみせた。
「礼!」
「ありがとーございましたー!」
続けて松平が正面を向いて頭を下げ、部員達も挨拶をしながら一同にお辞儀をする。
「………………」
同じく頭を下げる真琴と民恵であったが、その後、顔を上げた真琴の瞳には、どこか淋しげな憂いともに松平の姿がしばし映っていた……。
つづくでござる。