第87話 :コア
何もない日だった。いつもどおり、おじいちゃんと2人で過ごしていた。
あれは10年も前のこと。その日の空も穏やかで、その日、何が起こるのかなんて知らせてはくれなかった。
“私、おじいちゃんみたいなドラゴンマスターになるっ!”
“ははっ、頼もしいのぉ。”
大きな手が頭をぐっと優しく撫でた。
それはずっとずっと変わらないのだと思っていた。いつか2人で空を飛ぶのだと思い込んでいた。
高く高く広がるあの青い空を、私のドラゴンとおじいちゃんとエルクーナの4人で。
「何もない、普通の日だったの。いつもどおりの毎日でしかなかったのに・・っ。」
私はあの日全てを失い、立ち上がった。
目を閉じると今でも鮮明に思い出せる。あの日、目の前に広がっていた炎の海原とバチバチという音たち。
「コア・・、平気だから、落ち着くんだ。」
「っ・・っ・ふぇっ・・ん・・ぅ・・」
「コア・・・」
涙をとどめようと目を閉じれば、私はあの日へ簡単に戻れてしまう。
十年という月日なんて、なんの隔たりにも距離にもならない。私はあの日から何も変わりはしていないのだから。
嗚咽を繰り返す私の震える肩を優しく力強い腕が抱えてくれた。
「コア」
名前を呼ぶセルスの声が、まるであの日のあの場所で聞えた救いの声のようにきこえた。
何もない日のはずだった。全てが当たり前のように存在しているはずだった。
そんなあの日が、私を縛り付けて放さない。
おじいちゃんに憧れていた。だから伝説のマスターになりたいと思った。
だけど、それだけじゃないのも本心だった。
「私はっ・・2人を・・おじいちゃ・・んと、エル・・クーナの未来を奪ったの・・っ・・!」
私が奪った二人の未来を私は背負わなければならなかったから。
心の奥に誰にも見せないように隠してきた気持ち。
私は伝説のマスターになっておじいちゃんを抜かなければならない。彼らの未来を奪った者として。
****
「ん〜・・おじいちゃ・・?」
温かなベッドから目を覚まして、ゆっくりと小さな部屋を見渡した。
どこからかバチバチという音がして、おじいちゃんの名前を呼んでも返事がない。
お昼を過ぎた頃、私は遊びつかれて昼寝をしていた。そして目覚めると部屋全体が暑苦しい熱気に包まれていた。
「おじいちゃん?・・・おじいちゃん!!おじいちゃん!!」
1つしかない扉を開けて、下へと降りる階段へ行こうとした瞬間、私の目には映ったのは真っ赤な炎の海だった。
荒れ狂う海はまるで夕日に染められたように赤く、燃えるというよりは波立っているという方が正しい気さえした。
「いやっ。」
バチバチという音はどんどん大きくなりながら、熱い熱を放ち、私のほうへと凄いスピードで走ってくる。
私は何も出来ずに、どんどんと近づいてくる炎から身を遠ざけた。
赤い炎が全てを飲み込み、黒い煙が全てを隠していく。
「ごほっ・・えほっ・・っおじっ・・いっちゃ・・」
口を大きく開いて空気を吸っても吸っても苦しくなるばかりで、天窓しかないその部屋に私は座り込んだ。
炎は部屋の入り口まで迫っている。私は怖くて怖くて仕方なかった。
小さな天窓を見上げると、空の一角が見えた。
「おじ・・ちゃ・・」
くらくらと目の前が眩んだとき、バンッ!!と物凄い音に私は意識を保った。
足音がして、何かが倒れる音がする。それでもまだ足音は耐えずに近づいてくる。
「コア!!」
炎に焼かれた部屋の入り口から、一人の男の人が私の名前を呼んでぎゅっと抱きしめた。
その服は少し湿っているが、焦げ臭い匂いがする。しかしその奥からは、大好きなおじいちゃんの匂いがした。
「おじい・・ちゃ?」
「コアっ、無事か!?コア!!」
「おじいちゃんっ!!」
抱きしめ返すと、おじいちゃんの力強い手が優しく頭を撫でて、私の涙を拭いた。
それからそっと魔法陣を描いて私を抱き上げたまま小さな小窓へと浮いて、その窓から私を屋根へと出させた。
大きな手がいとも簡単に私を冷たい風の吹く屋根の上へと座らせた。
「おじいちゃん!?おじいちゃんは?どうするの!?」
バッと放された手をとても愛おしく思えて仕方なかった。
放したくなんてなかった。それが最後になるんじゃないか、そんな気持ちが心のどこかで湧き上がってくる。
その小さな小窓では、おじいちゃんの大きな体は通る事はできない。
おじいちゃんは涙を流す私を見上げながら、優しく微笑んで言った。
「この老いぼれをかっこつけさせてくれんか、コア。」
おじいちゃんはいつだってかっこいい。
私のそんな思いは口から言葉として現れることはなく、私は首を大きく横に振って涙を流す。
そんな私の頬に熱い手がそっと触れた。ごつごつしていて、大きくて暖かい。
「わしはコアを愛しておる。もちろん、お前の父も母も。だから逃げてはならん、絶対に。
進む必要なんかないから、逃げたりはするな、いいな。コア、さぁキスをしておくれ。」
最後なんかじゃない、私はそう思いながらもおじいちゃんの頬に静かにキスをした。
おやすみの前に、おじいちゃんが私にしてくれたように。
「エルクーナ、コアを頼む。」
『嫌よ!私はドラゴンよッ!主に仕える・・っ、ドラゴンなの!!
絶対に離れないわ!最後なら・・っ、傍にいさせてください・・お願い。
この願いだけでいいから・・叶えて・・・。』
「行けっ、エルクーナ!」
その言葉だけが哀しく響いた。ドラゴンは主の命令に逆らうことは出来ない。
それはその絆が深ければ、深いほどに。
エルクーナはその眼に涙を浮かべながら、私をそっと優しく背に乗せて屋根から足を放した。
『コア、私は・・・貴女のおじいさんに会えて幸せだったわ。』
「エルクーナ!?」
空を飛ぶ、初めての空は本当に穏やかで、遠くの方では夕日が沈みかけていた。
少し冷たい風が、熱に熱った体を冷やすように掠めていく。
その中をエルクーナは私に優しく言った。最後だなんて、決めないで。ずっと傍にいてくれるんでしょ?
私はそう思いながらも、エルクーナの白い肌についた幾つもの傷跡をじっと眼に焼き付けていた。
『私は後悔なんかしていないわ。もう一度あの頃に戻っても、彼に出会うためならなんだってする。
コア。もしも本当に彼のようなマスターになりたいのなら、そのドラゴンにそう思わせてあげて。』
静かに下ろされたのは、草が強く揺れる野原だった。
その野原の遠く向こうにたたずむ家は、真っ赤に染まり、炎に全てを埋め尽くされていた。
私を降ろしたエルクーナは、私にその広い背を見せて、尾を勢いよく振ると、大きく翼を広げた。
今までのどんなエルクーナよりも美しく、気高く、気品に溢れている。
真っ白のドラゴンは、その美しさで人の時を止めてまで魅せる。
『私はあの人の傍で眠りたい。』
地上を離れたエルクーナが最後に小さく言ったその言葉が、妙に大きく私の耳の中でこだました。
エルクーナの背はすぐに小さくなって、真っ赤な炎につつまれる家へと何の躊躇いもなく突っ込んだ。
私は何も言えずにその光景をただ、草の合間から座り込んで眺めていることしか出来なかった。
「・・」
それから5秒くらいしたころだろうか、木が折れる音とドラゴンの鳴き声が1つその辺り一帯に響き渡った。
****
「私が・・っ、私が2人を・・っ・・」
誰も責めることはなかった。誰もが皆『仕方なかったのだ』と慰める。
誰かが責めてくれたらどれほど楽だっただろう。誰かが罵ってくれたならどれほど楽だったのだろう。
それから何日も、何日も私は思い続けた。おじいちゃんとエルクーナの命に値するような命じゃないのに。
私がいなくても困る人はいないけど、おじいちゃんがいなくなったら世界中の人が困る。
私は・・・そんなおじいちゃんが命を張ってまで守る価値のある人間なんかじゃないのに。
「それは違う!」
そんな事は、誰もが私に言ったことだ。
誰もが皆、私の所為なんかじゃないと言った。それは私があまりにも幼かったから。
だけど考えれば分かるの。私はあの二人を殺した。おじいちゃんは何の価値もない私の命1つで死んでしまった。
世界は濁った。空だって、風さえ吹かなくなった。そんな時に、聞えてきたの。
『逃げたりはするな。』
それは大好きなおじいちゃんの言葉だった。
「私は・・2人の未来を奪ったの。」
その言葉に私は立ち上がった。ただ涙を流し続けるだけの日々から、ゆっくりと一歩踏み出した。
ドラゴンマスターになる。それが私に出来る唯一の事だから。そう思えた。
何の価値もない命から、たくさんの人を救える命になりたかった。
おじいちゃんが私を助けた意味を見出すために。2人が背負うもの背負える位置まで行きたい。
おじいちゃんが持っていたもの全てを私が継ぎたい。だから私は伝説のドラゴンマスターになると決めた。
「存在を許して欲しかったの・・・。本当は、ここにいてもいいって言って欲しかった。
だから伝説を継ぎたかったの。私は・・私はとても弱い人間で・・っ・・マスターになんてなる資格のないのに。」
でもあの日、おじいちゃんの声が聞えたのはきっと必然だったんだ。
私は逃げたくなくて、進み続けようと思った。進み続けて存在を許されるまで、頑張ろうと。
おじいちゃんたちが助けた命に恥じない人間になりたくて。
そんな私はルキアと出会った。彼女は私の闇を優しく抱くように傍にいてくれた。
彼女の言った“貴女が死ねば、私も死ぬ”と言う言葉は、まるでここにいて欲しいといってくれてるようで。
ここにいてもいいと、存在を許されているようで。
「ルキアがっ・・私を強く・・してくれた。」
「そうだと思っていた。けど、もういいんじゃないか?」
シンとセルスの声が響いた。
「もう充分だろ。お前が背負うべきものなんて何もない。いつまで留まり続けているつもりだ。」
あの日から私は立ち上がり、進んできたんじゃないのだろうか。
私は、ずっと進むことなく留まり続けていたの?
「進んでいるようで、お前はあの日からずっと留まり続けている。
留まり続ける事は悪くない。けど、逃げたりするな。俺が傍に居るから。
自分のために、自分の目指す道を自分の意志で進んでくれよ。」
私はいつまであの日に縛り付けられているんだろう。
進み続けていたと思っていた私は、ただ逃げないですむようにその場で足踏みしていただけなんだ。
私はここにいてもいい?私はおじいちゃんの変わりになれるように、伝説を目指し続けたけど。
ねぇ、もう私だけの伝説のマスターになってもいいの?
「お前として・・・存在してくれよ。俺が愛してるから・・・。」
私の闇を隠してくれるほど強くルキアは私に契約を与えてくれた。
ドラゴン契約がほんの少しだけ、私の存在を唯一許してくれていたのかと思った。
けど、違ったよ。
こんなにも傍にいてくれたんだ。
私はここにいてもいいの?そう問う私に彼は言うの。
ここにいてくれって。
ねぇ、こんなに幸せでいいのかなぁ。おじいちゃんとエルクーナの未来を奪った私がこんなに幸せで。
私は、ここにいたい。
「セルス・・・っ・・」
強いルキアが大好きだった。私の弱ささえ強さに変えてくれる彼女が大好き。
だけどもう止めるよ。私はもう強がったりしない。私は私の意志で伝説へ目指す。
ルキアの力に頼りっぱなしで、強いふりして、そんなの進む事にはならないでしょ?
2人を忘れることなく、心の中で想い続けている。だからもう背負ったりしない。
2人以上に私はこの世界に幸せを与える。おじいちゃんはそれを願っていたんでしょ?
「私・・・伝説のマスターに・・なるよ。」
これは私が望む事。私というマスターが切に望み、一筋に目指すもの。
私の意志で、つかみに行く未来。もう、誰の変わりもしない。おじいちゃんを超えるよ。
背負うんじゃなく、エルクーナとおじいちゃんそれに赤竜とそのマスターの命を抱いて。
私は私の意志で進んでいくの。ルキアと一緒に、空を飛ぶの。
「あぁ。」
瞼を閉じれば浮かび上がる、赤い炎の中から優しい声が聞えてくる。
《愛している》
誰かに言って欲しかった。誰にも許される事のない命を持って生きてきたのだと思ってた。
だけど、見つけたよ。本当に、すぐ傍にいたの。
“俺が愛してるから・・・”
だから進むよ、もう留まっているわけには行かない。私は私の意志だけで伝説を目指して、必ず手に入れるから。
それまでもう少し、見ていてください。