第86話 :コア
風が心地いい夜、野原でルキアの白い羽を見ていた。
そっと流れてくる風に、ルキアは空を仰いで、それから静かに言った。
『コアを心配していたのは私だけじゃありませんよ。』
そう言ったルキアの青い目に映るのは、月明かりに照らされたセルスだった。
その姿を眼に映すだけで涙が出そうになって、必死で唇を噛み締める。
ゆっくりと歩いてくるセルスは優しく微笑んでいて、私の背から吹きぬけていく風に向かいながら近づいてくる。
バサッっとルキアが羽を広げて空へと舞った瞬間、唯一咲き残っていた花たちが大きく揺れる。
「コア。」
セルスの声が聞えるほど近づいたとき、その場に縛られていた足は急にほどかれたように走り出した。
こんなに優しい夜が今までに会ったのだろうかと、不思議に思うほど世界中の全てが優しさに溢れていた。
その優しさに抱かれる私は、とても欲深い人間で、何よりもセルスの優しい声に触れたかった。
「・・セルスっ!」
ようやく喉から湿った声が出て、それと同時に彼の肌に触れた。
ぎゅっと抱きしめると温かな温度を感じる。大きな手が優しく頭を撫でてくれた。
この世界のどの優しさよりも、セルスの優しさが欲しかった。他には何もいらないと思ってしまうほど。
「心配した。」
目を覚ましたとき、一番に私の目に映ったのが貴方でよかった。
それは私が今まで一番夢見たことだった。伝説のドラゴンマスターになるよりも、心の奥にある夢。
それなのに私はルキアの元へと走って、どれほど心配をかけたか分かっていてセルスから離れた。
それでも彼は怒りはしない。それは私の事はどうでもいいからじゃないって知ってる。
私の事を想っていてくれるのに、私の心を大事にして、いいよと言ってくれる。
「ごめんっ・・っ、ごめん・・ね・・セルス。」
溢れ出す涙がセルスのローブに染みていく。
声は絶え絶えに、震えながらも零れていくように空気を伝わっていく。
セルスは私をゆっくりと引き剥がすと、私を覗き込むようにして言った。
「何への謝罪だ。」
「・・いっぱいっ。・・心配させちゃったことも・・っ、心配してくれてたのに・・
セルスから離れてルキアに走ったことも・・っ・・それから、それから・・・」
その目を見ることはできなくて、溢れてくる涙を拭うばかり。
そんなことを聞かれても、答えはたくさんありすぎて次から次へと出てくる。
セルスにはいつも迷惑ばかりかけて、いつも助けてもらって、心配させて、私はセルスの隣に立てるような人間じゃない。
そう考えると、ゆっくりとセルスの手が私の手を除けて、頬を滑っていく涙を拭いた。
「俺が心配したくてしたんだ、お前が謝ることじゃない。それにお前がルキアの元へ走るのは悪い事か?
俺はもしもお前がルキアの元へ行かないような奴なら、心配なんかしていない。
お前が何よりもドラゴンを思う奴だから、心配するんだ。」
馬鹿、と小さく笑う。
その言葉に目の前がバッと暗くかすんだ。
『行けっ、エルクーナ!』
あの日の声がする。
ドラゴンを一番に思う、あの低く大きな声が。
「1つ聞きたい事があるんだ。」
その瞬間、暗い闇を遮って優しい声が響いた。その声に私はハッと目の前のルキアを見た。
彼の顔は月明かりに照らされていて、とても優しくとても哀しげだった。
「何?」
「・・・今何を思った?」
セルスが気づいていることは分かっていた。私が誰にも見せることなく隠してきたものがあると彼は知っている。
だけどセルスはそのことに触れようとしたことは一度たりともなかった。
触れないように、触れないように、見ていないフリをして傍にいてくれた。
その彼が今、そのことに触れた。
「え?」
とぼけても無駄なのは分かってる。彼は知っている。
だけど私がそれを隠すから、知らないフリをしてくれていた。
「お前の中にずっとあるものだよ。何がそんなに怖い?何に怯えている?」
その眼はとてもおじいちゃんに似ていた。
その眼から逃れたくなってしまう。誰も責めないから、私は苦しかった。
誰かが責めてくれたなら、私はまだ楽だったのかもしれない。けれど幼い私を責める者は誰一人としていなかった。
本当は私はドラゴンマスターになる資格なんてなかった。それでもおじいちゃんの言葉が耳から離れなかったから。
『辛いときこそ、自分が一番できないことをしようとするんじゃ。すると世界はおのずと見える。』
その言葉に私はあの日を心の奥にある戸棚にしまいこんで、立ち上がった。
じっとしているのも、諦めるのも止めて、進む事に決めた。
「・・・いいたくない。」
「分かっていて、聞いているんだ。」
いつも以上に厳しい眼をしていた。
「やだ・・」
触れないで、と願い続けた事を貴方は知っていて触れようとする。
「教えて欲しいんだ。」
優しさが消えた顔に残るのは、怒りではなく、哀しみだった。
どうしてそんな哀しそうな顔をするのか、私には分かる。私が断る事も嫌がることも知っていても触れたいからだ。
「いや・・思い出したくない・・!」
触れないでと必死に訴え続けてきた事を、スッと気を抜いた瞬間に彼は手を伸ばしてきた。
私には防ぐ事もできない。きっと彼は諦めない。そのためにここへ来たのだろうから。
「もう逃げたくない。分かってくれ。俺はお前の抱えるものから逃げ続けてたんだ。けど、お前言ったよな?
今自分のしなくちゃならないことの中で、一番難しいことをするんだって。
俺にとってそれは、お前の隠しているものから逃げない事なんだ。」
あの事さえなければ、私はとても強かったのかもしれない。
私は弱いんだと思う。あれを隠さずにはいられないほどちっぽけで弱虫。
「だからお前が嫌だと言っても、泣いて喚いていも、俺は諦めない。
今まで逃げ続けてきた事を後悔しているから、このままお前と一緒にいたいから。」
何も知らないで傍にいてくれたら楽だったのに。
どうして触れようとするのだろうか。誰にも触れられることもなく、私は隠し続けているつもりだった。
それが一番楽だって分かってても、セルスは絶対に諦めない。
「聞いたら・・離れちゃう・・、皆・・離れて行っちゃ・・ぅ・・」
だから隠し続けていたの。傍にいて欲しかったから、偽り続けていたの。
私がこの世界に存在する事を許して欲しくて、私は隠し続けることを選んだ。
もしかしたら誰か一人でも、私が必要だといってくれる人が現れるんじゃないかって思ってた。
「ふざけるな。」
悲しそうな顔をしていたセルスの顔は、怒りを露にしていた。
「その程度の思いで・・・ここに来たわけじゃない。誰もお前の傍から離れやしない!絶対に!!
何も怖がる事なんてない。俺は・・お前の傍にいたいから聞きたいんだ。」
大好きなセルスにさえ知られたくはないものがあった。
私は本当はドラゴンマスターになることも、ここに存在する事すら許されない。
それでも貴方は傍にいてくれる?抱きしめてくれる?必要としてくれる?
私が伝説のマスターを殺したのだと知っても
私に笑いかけてくれますか。