第83話 :コア
眼を開くとそこは古い家の天井が見える場所だった。
明りが眩しくて、どこからか流れてくる風が心地いい。
「こ・・こ・・」
自分の声は何故だか擦れている。そんな私の声にすぐ傍で頭を私に預けていた1つの影が動いた。
バッと私のほうを向いてジッとこっちを見ている。目を細めながらその人影に眼を凝らせる。
するとゆっくりと明りになれた眼に、その人影が写り始めた。
「あぁ・・よかった、コア。」
その声が聞えた瞬間、人影はくっきりとセルスへと変わった。
私はまた幻覚でも見ているに違いない。そう思って静かに目を閉じた。
セルスに会いたいと思うばかり、彼の幻覚を見たのだろう。
しかし自分が作った幻覚の声が安らぎさえ与えてくれる。それほど温かな幻覚だった。
もう一度意識を集中させて眼を開く。するとそこには唇を噛み締めて私を見るセルスがいた。
「セ・・ルス・・・なの?」
どうして消えないの?そんなに私は彼に会いたいの?
意識だってもう、朦朧としているわけではないのに、こんなにも愛おしい幻覚があるのだろうか。
そう思ったとき、その姿がバッと視界から消えて、私の首に抱きついてきた。
しっかりした腕と、柔らかな髪と、温かな温度と、セルスの匂い。
「コア。」
もしもこれが夢だというのなら、どうか早く覚めてしまって。
そう思った。
これ以上この夢に滞在し続けたら、きっと目覚めたくなくなって、きっと私は夢のセルスで我慢できてしまう。
だからどうか、早く覚めて。私を現実へと戻して、本物のセルスを抱きしめさせて。
「夢・・?」
「コア・・コア・・・・・コア。」
何度も何度も名前を呼んで顔を上げた彼の眼には、薄っすらと涙さえ伺える。
そっと手を伸ばすとその温かな頬に確かに触れられる。それからゆっくりと彼の眼の涙を手に取る。
手の先はほとんど感覚がないが、なんとなく暖かかった。
「セルス・・なの?夢じゃなくて・・本物なの?」
なら私は今までアカンサスへ行く夢を見ていたのかな。
アカンサスへ行って父に会って、大切な友達ができて、王を見つける決意をして、戦って・・・あれは全部夢?
お父さんがどれほどお母さんを愛していたのか話してくれたもの、全部夢?
私はただ私の家で眠っていたの?
「あぁ、本物だ。・・よかった・・・・コア。」
どうして貴方がここにいるの?今までのが全て夢でない限り、あなたがここにいる理由なんてないはずなのに。
もしもこれが夢ならば、早く覚めてと願うけど。
もしもアカンサスへ行ったこと全てが夢なら、夢に戻してほしい。
私はたくさんのものを知った。たくさんの事を学んだ。その学んだ全てをなくすくらいなら夢に戻りたい。
約束もたくさんしたから。その約束を果たさないわけには行かない。
「どうして・・私・・・ずっと夢を見ていたの?」
「何の?」
「セルスと離れて・・・ルキアと一緒にアカンサスへ行くの。そこでお父さんに会って、お母さんの話を聞いて・・・。
王を見つけて平和にすると約束もした。それで戦って・・そう、私、赤竜とそのマスターを・・・・・・・・・」
ゆっくりと口に出して語ると、急に手の感覚が戻ってきて、まるで夢から覚めたような気分になる。
右手からは小さな痛みがどんどん大きくなりながら伝わってくる。
その痛みにゆっくりと眼の前に右手を持ってくると白い包帯が綺麗に巻かれていた。
「夢・・じゃなかったんだ。」
「あぁ、夢なんかじゃない。お前はルキアとアカンサスへ来た。」
なら、なら貴方はどうしてここにいるの?貴方が幻覚なの?
「セルス・・どうして・・・貴方は幻覚?」
「ただいまを言うって約束したけど、無理だ。謝るから、許してとは言わないから、傍にいさせてほしい。」
「ここ、アカンサスだよ?ここ・・・アカンサス・・なんだよ!?」
貴方はプーシャのコントゼフィールで、世界のトップを目指しているんじゃないの?
どうしてそんな貴方がここにいるの?心の声は中々口からは出てこなかった。
ゆっくりとこっちを見て微笑む彼の笑顔を、ただ一秒でも多くこの眼に焼き付けておきたくて。
「あぁ、知っている。会いに来たんだ、コアに。」
「セルス・・・」
ムクッと体を起こしても、目を閉じても彼は私の前から消えることはなかった。
これが夢かどうかなんてどうだっていい。彼がこんなに近くにいる。
「ここ、どこ?」
「シュランの長老の家。」
「あぁ・・本当だ。」
戦いの前にここの屋根の下に座っていた。あの時からどれくらい時間が経ったのだろう。
周りはやけに静かで、風は小さな小窓から入ってきている。外は真っ暗で、夜のようだ。
まるで何もなかったかのようにこの空間は存在している。
「私・・・どれくらい寝てた?」
「3日。・・・もう3日間、一度も眼を開かないまま寝てた。」
「3日も。」
その間彼はずっと私の傍で、私が目を覚ますのを待っていてくれたんだ。
セルスの眼のしたには薄っすらと隈が見える。
何を言えばいいかな。ごめん?ありがとう?会いたかった?
頭の中で言いたい事が一気に押し寄せて、口小さく開いたり閉じたりしているだけ。
その頬を冷たい何かが伝うと、セルスはまた優しく笑ってその大きな手を私の頬に伸ばした。
「また泣くのか。」
「・・・大好き・・セルス・・・・・大好き。」
たくさんの出来事を説明したくて、その間もずっと会いたかったことをいいたくて、私が人を殺してしまった事も
ちゃんとたくさんいいたいのに、口から出るのは大好き、というありきたりな言葉だった。
そんな私の幼い言葉にセルスは唯頷いて私を見る。
「リラもロイも一緒だ。まだ行って欲しくないが・・・心配しているだろうから言う。
ルキアが傍の野原でずっと眠っている。お前が瀕死状態だったから・・ドラゴンにも影響が及んでいる。」
そうだ、ルキア。
私はおじいちゃんの場所にいるとき、きっと瀕死状態だったのだろう。
死の瀬戸際は、会いたい人のところへ連れて行ってくれるのだろうか。だったらお母さんにも会ってみたかった。
覚えてない母の顔を、一度でいいから見てみたかった。だけど、私はルキアがいる。死ぬわけには行かない。
その気持ちがこっちに連れ戻したのだろう。
私はセルスの言葉に重たい体を布団から出して、ゆっくりとできるだけ早く玄関へ向かって走った。
走ったといっても、他の人に比べたらスローモーションで歩いているくらいの早さに違いない。
扉を開いたとき、重たい体にフワリと夜風が当たった。
「ルキア」
その夜風の通ってくる方には、月の光を浴びてその綺麗な白い肌を草の間に降ろしたルキアがいた。
寝ている間だけだったのに、もうずいぶん昔のことに思える。
彼女と共に空を飛んで、この夜を迎えるまでにまるで10年たったかのような気分。
『コア・・っ!』
一歩一歩の腹に足を踏み入れて、チクチクと体を刺す草を分けながらルキアに近づいた。
魔力のない体には、この世界の大気は重すぎる。
「ごめんね、ルキア・・・。苦しかったでしょ・・?」
『えぇ。でも、痛みを分かち合えたみたいで嬉しかった。
痛みが引いて、ゆっくりと呼吸が楽になると、あぁコアももう平気なんだって心配しないで済んだから。』
「ルキア・・・」
月の光だけが半分焼け爛れてしまった野原を照らしていた。
もう花は一輪も残っていない。ルキアの体から少し離れた場所からは全て枯れた草花が広がっている。
広大と言えば確かに広大だった。遠くまで遮るものがなく見渡せる。
風は何を揺らすでもなく通ってくる。音も何もない静かな夜。
「おじいちゃんに会ったの。」
『そうですか。』
「私が無力な所為で、赤竜とマスターを殺してしまった。」
『あれは仕方ないことです。』
「私はそうは思わない。私が殺してしまった、尊い命。命がなくなることに仕方ないことなんてないよ。」
命がこの世界からなくなることが仕方ないなんて悲しい。
あんな方法で死んでしまうことが、仕方なかったことなんて、間違ってる。
もしも仕方ないという死に方なら、大切な人に見守られて寿命で眠ることだけだと思う。
「私は未熟だから・・・傷つけてしまった。殺して・・しまった。
他に方法はたくさんあったかもしれないのに、最悪の方法で進んでしまった。」
心の中にはまだその時の景色がいっぱいに広がっている。
あの静かな空で、あの生塗る風を浴びて、他にも手段があったはずなのに、私は最悪の道を選んだ。
『赤竜が最後に言った言葉を覚えていますか。
“この世界を変えてくれないか。次目覚めて、もう一度彼と契約を誓っても、同じ事が二度と起こらない世界に。”』
「うん。」
『彼は伝えたかったんですよ。進むことを恐れないで欲しいと。
どれだけ苦しんでも、世界を変えるために進んで欲しいと。』
ルキアはそういいながら白いその羽を夜風に遊ばせた。
この3日でまるで元通りになったかのように、美しい羽が月に照らされる。
そう、赤竜はそう望んでいるように、ルキアもまたそう望んでいるようだった。
ここで留まるのは嫌だと、まだ空を飛んでいたいという青い眼を見せてくれた。
「おじいちゃんも、飛び続けろと言った。ねぇ、ルキア。」
『はい。』
もしもまた人を殺してしまったら、私はどうすればいいの?
これから二度と同じようなことがないなんて、言い切ることは出来ない。私はまだ未熟だから。
だけど、そうならないように努力はしたいと思う。精一杯、同じことが起こらないように。
それでもまた、人の命を奪ってしまったとき、私はどうすればいい?
そう考えると、不安で不安で仕方ないの。ここで空を飛ぶことを止めたら、命を奪うことはなくなる。
それなら空を飛ぶことに意味はあるのだろうかと、考えてしまう。
誰かを傷つける可能性を持ちながら、空を飛ぶ理由なんてあるのだろうかと。
「これから先、二度と誰かを傷つけないなんて言えない。」
『えぇ。』
「なら、どうして空を飛ぶの。誰かを傷つけないと得られないものなら私はいらないよ?」
『誰も傷つけたくないのなら、誰とも関わらないですむ部屋で永遠と一人で過ごせばいい。
空を飛ぶこともなく、風を感じることもない、たった一人の部屋で生きていけばいい。
けれど、もしも人を守りたいと思うのなら空を飛ぶことを選んで欲しい。
死ぬまでに、誰も傷つけずに生きる人なんて一人もいない。だけど、誰も守れずに死んでしまう人はいる。
誰かを傷つけて、誰も守れずに死ぬか。誰かを傷つけてでも、守り続けて死ぬか。
コアはどちらを選びますか。』
ルキアの眼が鋭く私を見た。
たとえたった一人で部屋に閉じこもり、一生を過ごしても誰かを傷つけてしまう。
約束した父を、セルスを、リラにロイを、平和にすると約束したお婆さんを。
そして誰も守ることなく一生を過ごしていく。
それは正しい選択?
「よかった。」
ため息が自然に漏れた。私のその言葉にルキアが驚いた目を向けた。
私の心は決まっていた。貴女と空を飛び続けようと。
でも、ルキアはそうじゃないかもしれないと思った。だから聞いたの。
“どうして空を飛ぶの”と。その答えに貴女はちゃんと答えてくれた。
誰かを守るために空を飛びましょうと、そうルキアは言ってくれてる。
「私はもう決めてたの。傷ついても、傷つけても、それでもルキアと空を飛び続けようって。
よかった。ルキアもそう思ってくれていたんだね。」
そしてルキアも私が飛びたくないと言わないか、不安だった。
私達はもう心に決めていたんだよね、一緒に空を飛び続けると。
『えぇ。よかった。私は貴女に空を飛んでいて欲しかった。いいえ、一緒に空を飛んで欲しかった。』
そう約束したでしょう?私が着いて来てくれるかと聞いたんだよ。
そして貴女は頷いてくれた。だから私は誰かを傷つけてしまうことを恐れず空を飛ぼうと思った。
できないと思って飛ばないより、もう誰も傷つけない事は出来ることだと思って飛びたい。
空を飛び続ける分だけ、可能性があるんだから。