第54話 :ルアー
夕日は紅く空を染めはじめ、地平線のかなたにその身を沈ませ始めていた。
時計が示す時間は意味を持たず、視覚に与えられた感覚がその時間を狂わせる。
「あ〜つかれたぁ・・・・」
そう声を上げた俺は、途方もない道のりを何時間か歩き続けて、足がそろそろ疲れ始めていた。
昼の熱がようやくその地から放たれるように、冷え始める。
土と乾いた草が敷かれているその場所を歩き続けて、足の裏はもうボロボロだ。
大人の男である俺の足が疲れているのに、こんな小さな少女が疲れてないわけがない。
黒の男でさえ、ふとした瞬間に遠くを見ている黒い目が疲れを見せていた。
「夕日が綺麗〜!!」
疲れた、と呟く俺の隣。
そう大声を上げたのは、身長もずっと小さく、体も2回りは小さい少女だった。
「ねっ?ねっ??」
「え。あぁ。綺麗・・・か。」
その名はコア、幻の白竜と契約した伝説のドラゴンマスターである少女。
その知らせを聞いたのは、彼女と出会う少し前だった。
アカンサスに旅立つその前日に、その話を聞かせてくれた。
まぁ、思った以上に幼かったが。
「綺麗と感じる人間は、恵まれている。」
隣の俺よりも少し背の高い黒の男は珍しく口を開いてそう言った。
今まで黙り続けていたこの男の、小さな声にコアが嬉しそうに反応して見せた。
「黒さんは感じないのっ?」
「黒さんっ!?」
コアは名を名乗らない黒の男を、“黒さん”と呼んだ。
男はしばらく黙ってコアを見て、静かに呟いた。
「・・・感じない、もう何も。」
「暗い、暗い・・暗いわ!!もっと明るく振舞えよ!コアみたいにさぁ!!」
「あはは〜!!ルアーは明るいねーっ。」
笑ってこっちを見上げる少女は、黒の男の暗さをかき消すほど明るい。
足の疲れがその笑顔で簡単に忘れてしまえるような、そんな笑顔を久しぶりに見た気がした。
「あ、コア!日が沈むぞ!!」
こっちを見ているコアに急いで声をかける。
地平線に沈んでいた太陽が、闇に染められ始めた空から逃げるように消えていく。
太陽は沈むその時、白い光が一瞬強く光って姿を消す。
「あ、ホワイトホープ!!初めて見た!!」
その光を人々は、白い光が願いを照らすという意味でホワイトホープと呼んだ。
ホワイトホープは、立った一瞬この世界に存在を示そうとする太陽の輝きのように思えて仕方ない。
そんなホワイトホープに、コアはしばし感動の声を上げていた。
「夜が来るな〜・・・」
「だんだん寒くなってきたね。」
闇が世界を占め始めた時、太陽が沈んだ地平線の向こうから、白い光の残像がこっちに向かってやってきた。
近づいてくる、光の残像・・・真っ白で、光をまとったような生き物。
「アレ・・・なんだ?」
「んん〜?」
「・・・?」
3人の目は遠くから空を渡ってくるその白い生き物に釘付けになっていた。
風の匂いが変わった。
「ルキアだ!!」
コアが一際大きく明るい声を上げた。
「・・・え?」
彼女がルキアと呼ぶ、それはあの幻の白竜。
だんだんと近づいてくると、その幻の姿を露にした。
「・・・あ・・れが・・・」
言葉なんかでなかった。
口を開いたまま、真上で羽を広げて舞っているドラゴンに魅入ってしまう。
白く、気高い、幻と呼ばれたドラゴンが今目の前で地上に降り立とうとしている。
「・・白竜」
黒の男も口をあけて小さく呟くと、その姿に魅入っている。
風の匂いが変わり、感動を与えて、ドラゴンは俺達の前に立っている幼い少女に舞い降りた。
闇を裂いて、ドラゴンが地に降り立つと、澄んだ声が空気を揺らして響いた。
『コア』
青い目、白い肌、澄んだ声。そのどれも、この世のものだとは思えないほど美しい。
「ルキア。来てくれたんだねっ、嬉しい!」
『さぞお疲れでしょう。』
「ルキアはもう平気?寝れた?」
『はい。いつから歩いていたのですか?』
少女は俺達に言った。“こんなに暑い中を飛ばせたくないの。”
“こんなに暑い”と言った昼を、自分は歩いても、白竜には休んでいて欲しいと。
「夕方くらいだよ。」
白竜に向ける少女の笑顔が、一瞬とても大人びて見えた。
その白い肌を少女の赤く焼けた肌が優しく撫でている。
『・・・暑い中、すいませんでした。』
「え?」
ドラゴンは悲しそうな目をコアに向けてそう言った。
『こんなにも焼けて・・・。足もボロボロじゃないですか。』
「ルキアが心配する事じゃないよ?」
少女がついた嘘も、ドラゴンには通じなかった。
ドラゴンマスターズは、常に主従関係で縛られている物だと思っていた。
そんな俺の考えを根本から覆した、少女の言葉。
“・・・ドラゴンは、マスターの召使じゃない。”
あの時は、よく分からなかったその言葉の意味を、今ようやく理解できた気がした。
少女は暑い太陽の下でも、長い長い道のりの中でも、唯の一言もその辛さを述べたりしなかった。
疲れたと嘆く俺の隣で、日に焼けていたその腕の痛みも、足の疲れも、一言も零さずにいた。
“ドラゴンは意思を持ってマスターの傍にいるの!”
少女の言葉が耳の奥でこだまする。
白竜はこの少女と契約を交わし、伝説のマスターを迎えた。
それはきっと偶然なんかじゃなく、必然だったんだ。
こんな少女だからこそ、白竜は契約を結び、一生の時間を少女にゆだねた。
『大切なマスターを心配しないドラゴンなんて、いませんよ。』
ルキアの見せるその眼は、まるでわが子を思う親のように優しく穏やかだった。
自分を一番に思ってくれる。自分の決断に弱音を吐かない。
そんな主を選び、契約し、仕えるルキアの眼は確かに伝説のマスターを映していると思った。
「ありがと。」
思ったより、ずっと幼かった少女は俺なんかよりもずっとずっと芯を持つマスターだった。
伝説のドラゴンマスターを、今この目で眺めている。
そんな風に考えると、何かこれからとんでもない事でも起こるようなそんな気がした。