第36話 :コア
「ふはぁ〜」
春もすっかり過ぎ去り、今年の夏はどうやら少し涼しいようです。
大きなため息に似た声を漏らして、テラスに出ると、コンクリートの冷たさが裸足には気持ちよく
その感覚に、ようやく短い休憩が入ったことを実感する。
「どうした。もう嫌になったか。」
少し笑いながらその低い声がテラスにいる私の背筋をピンと伸ばさせた。
「省長官っ!」
「今日ももちろん徹夜だ。女にはキツイだろうが・・・」
煙草を吸いながら、諦めたようなその口調に体が自然と元気になる。
一瞬の強い風に、煙草から出る煙が揺らぐ。
「何言ってるんですか。・・・嫌になる?そんな事、ないです。」
本棚の整理を終えた私に渡された仕事は、どれも総予省で働いている人と同じもので、同じ量。
仕事を与えないと言っていた省長官が、与えてくれた仕事はどれも大変なものばかりだけど
「楽しいんです、とっても!!時間が滝みたいに流れていって。
あぁ、生きてるなって。今出来る事を精一杯できてるなぁって思えるんです。」
少しずつ、少しずつかもしれないけど確実に、セルスに近づけてるような気がするから。
「お前、おもしろいな。滝か。ここの奴等は地獄だって言うのに。滝か。」
「滝ですっ!だけど、その間に小川みたいな時間があって。その時間が頑張れ!!って自分を応援できる時間なんです。」
このテラスで立っているこの時間が、小川のようにゆっくりで。
夏の涼しい風を運んで、夜の星をこんなにも見せてくれる時間。
「滝があるから、小川はあるんですよっ!その事も、ここに来て得られた事の1つですっ。」
学校で流れる時間はいつだって鐘の音で一定に区切られていて。
こんな風に時計を見ないで過ごすことなんかなくて、時間は時計。
そんな常識がここでは全く通用しない。時間は流れ。流れは常に一定だとは限らない。
「やっぱり、白竜が選んだだけあるな。お前、学校出たらここに来ないか?」
煙草の火を魔法でジュッと消して、その吸殻をそっと白バラに変えて彼は言った。
「ははっ。本気ですか〜?それ。」
その白バラを差し出しながら、彼は真剣な顔をしてこっちを見た。
「本気だ、と言ったら?」
射るように見てくるその目は、今日の夜みたく真っ黒で吸い込まれそうだった。
「ここは私なんか、必要としてません。
それに私はもっと広い世界を見て、たくさんの事を経験して、私にしか出来ない事をやりたいんです。」
「総予省を蹴るなんて、エリート街道を蹴るようなもんだぞ?」
「あははっ。エリートですか。省長官は、そんなことを思ってここに来たわけじゃないんですよね。」
だから、私はここにはいられない。
ここにいるのは、国を支えたい、民を救いたい、そんな思いを抱いて本気で来た人ばかり。
そんな所に私が簡単に足を踏み入れちゃいけないって思うの。
「昔、上に行くと約束した奴がいたんだ。だから俺はここに来ただけだ。」
そっとテラスに揺れるカーテンを手で避けて、ハイドン省長官は中へ片足を入れて言った。
「そいつが悲しまないですむように、ここで俺にできることをする。それだけだ。」
「・・・私も約束した人がいるんです。ずっとずっと遠くを飛んでるんですけど、すぐに追いつくって。」
最近、とても忙しい所為なのか。約束を交わしたあの日が酷く遠い昔の事に思える。
「休憩終わりだ、・・・朝までには仕上げるぞ。」
「はい。」
省長官の後を追って、資料まみれの部屋の中に入る。
今目の前にある事しかできないけど、しないよりもずっといい。
この資料まみれの部屋で、朝まで徹夜して、ルキアと一緒に空飛んで、それで伝説のマスターになれるわけじゃないけど。
私は確かに今を生きて、何かを得てる。そう思える今がとても楽しいの。
貴方の約束を少しずつでも、縮めているような気がして、とても幸せなの。