第105話 :コア
青く、空がどこまでも続くように――――私はセルスを思い続けられるだろうか。
『コア?』
白く優しい声が私にかかる。
私達はブレイズ達と別れて、王国二軍に囲まれながら、トレスの隣を飛んでいた。
「何?ルキア。」
『・・いいえ、なんでもないの。』
ゆっくりと上下する白い羽が、まるで雲の上にいるような気分にさせた。
優しく包み込む雲のようなルキアの背で、私はいつも空の最果てばかり見つめていた。
どこまで続くのか、どんな景色がその向こうには広がっているのか。
世界は途切れることなく、私が見ている景色の向こうにもまた、新しい世界が広がっている。
「コア、セルスが呼んでるぞ。」
ふいに、隣のトレスが私に近づくと、トレスの右隣にいるセルスを指差しながらそういった。
トレスを通り越して覗かせる彼の顔が一瞬、儚げに揺らいだ。
「ルキア、セルスのところにお願い。」
『えぇ。』
ルキアは相槌を打つとフワリと上に舞い上がり、ゆっくりとトレスをまたいでその向こうにいるセルスの隣へと舞い降りた。
セルスはルキアが降りてくるのを眩しそうに見あげている。
隣まで並ぶと、セルスは優しく微笑んだ。
「疲れたのか?」
その一瞬、凛々しい横顔の隙間に見せた笑顔に私の心はギュ―ッと締め付けられる。
これ以上苦しくしないで、と心の中で叫ぶが、私は彼への返事に首を横に振るので精一杯だった。
いつも傍にいるのに、たった一瞬の笑顔が、たった一言が、私をドキドキさせる。
小さい頃から見てきたはずの彼の笑顔、幼い頃からともに育ち、いつも助けてくれた言葉。
それなのに、今までとは全く違う輝きで、私を魅せてやまない、彼の全て。
「本当か?」
「ルキアが疲れたら、休憩、もらっていい?」
もう長い時間空を飛んでいるルキアを、休ませてあげられるだけの休憩時間は中々無い。
それが分かっているから、喉が渇いても我慢し続けている。
『私はまだ平気ですよ。アルは平気?』
太陽の光がさんさんと降り注がれる真昼だ。白いルキアより、きっと黒いアルのほうが大変に違いない。
ルキアはそれを気遣っていた。
『疲れたら勝手に休む。』
ボソッと面倒くさそうに呟かれた言葉に、私とセルスとルキアが笑った。
「勝手に休まれると困るだろ。」
セルスは笑いながらアルの背を撫でた。
その仕草でさえ、私は胸が焦げ付くくらいに熱を持つのを感じた。
「ご、ごめん。戻るね!行こう、ルキア。」
『えぇ。』
逃げ出すようにセルスの傍を離れたことに、セルスは気づいてしまっただろうか。
最近、特にセルスがこっちに来た当たりから、どうしようもないくらい苦しい感情に気づき始めていた。
ただセルスが好きだと、大好きなのだと思っていた気持ちより、はるかに大きな感情が私の中に揺れる。
「コア、平気か?」
トレスが心配そうに私を見ている。
「全然平気だよ!ありがとう。」
私がそう笑って見せると、トレスも安心したようにため息をもらして、そうか、と笑ってくれる。
優しくて強くて、まるで私とは正反対の彼女が私は大好き。
厳しい言葉の裏には、いつだってその人を思う彼女なりの思いやりがあることも知っている。
だからこそ、セルスへの気持ちがこんなにも揺らぐのだ。
『コア。』
空がどこまでも続いているように、私もセルスを思い続けることはできるのだろうか。
そんな風に思ったときだ。ルキアが右についている金軍を抜けて、外へと私を連れ出した。
しかし誰も気づく事は無く、さっきと同じように突き進んでいる。
「ルキア!?・・どうかした?休みたくなった?」
私はルキアの急な行動に焦っていた。
しかし当のルキアは至って平然としていて、どちらかというと私のそんな言葉も予想していたようだった。
『いいえ、そうじゃないの。』
ルキアが短くそう言って黙り込んだとき、私は目を閉じて口元を緩ませながら言った。
「隠せるわけ・・ないよね。」
私が感じている感情を、こんなにも傍にいるルキアが気づかないはずが無い。
ルキアは返事をする事も無く、静かにバサッと羽を揺らした。
「不安だよ・・・。」
世界がどこまでも続くほど、彼を愛し続けられるか。そう問われるた時、私は迷い無く頷くことはできるのだろうか。
そう考え始めると、私はどうしようもない不安に押し潰される。
『誰かを愛する事は、この世界で何よりも素晴らしく、何よりも大変な事。・・昔母が言ってたわ。』
ルキアの澄んだ声にほんの少し、体に圧し掛かっていたものが溶けていくような気がした。
ルキアのお母さんの言葉は、私の心の中に焼きつくように響いた。
「私・・・」
大好きなのに。
私は気づいてしまったから。
『コア、平気ですよ。誰も貴女を咎めたりはしません。』
「・・私っ。」
気づいてしまったの。
トレスのセルスに向ける目が、私と同じ感情を持ったものだと。
「私っ・・トレスも、セルスも・・大好きだからっ・・。」
苦しくてしかたなかった。
『コア・・・。』
大好きなトレスの気持ちを、私が傷つけるのではないかと。
セルスが好きだと言ってくれるたびに、笑いかけてくれるたびに、私はトレスを傷つけているんじゃないかって。
「・・誰かを傷つけるために・・っ・・セルスを好きになったんじゃない・・。」
この感情がトレスを傷つけてしまうのだと、気づいてしまった。
“俺も、お前が好きだ。”
セルスのあの言葉は、私には重たすぎた。
「こんなにも好きなのに・・っ。」
離れないで、傍にいて、笑いかけて。そう願い続けていた気持ちは嘘なんかじゃない。
だけど、そう願ったのは・・誰かを傷つけるためじゃない。
『コア・・・。』
零れる涙がルキアの白い背を濡らして、ゆっくりと風に飛んでいく。
空に捧げられた私の涙は、いつかルキアみたいに白い、あの雲になるのだろうか。
「こんなことなら・・」
セルスには全部伝えた。ただ知っていてくれるだけでよかったと言えば嘘だけど。
それが私にできる唯一の事だと思ったから。
「こんなことなら、好きになんてならなければよかった・・・っ。」
トレスが大好きで、友達になってほしいと言った私が、トレスを傷つけるくらいなら、
私はセルスの隣に立ち続ける事を、諦める。
風が濡れた私の頬を優しく拭っていくのに、私の頬は濡れたままだった。
今は誰にも優しくして欲しくはなかった。こんな私は優しくされる権利なんてない。
『なら、セルスにそういいなさい。』
「・・っ・・。」
『貴方のことは好きじゃないと、セルスに言いなさい。』
ルキアの言葉が、私に強く響いた。
『もともと好きなんかじゃなかったのだと、トレスの前で言いなさい。』
ルキアの強い言葉は、とても優しく流れ込む。
どんな優しい言葉より、ずっとずっと優しい言葉だった。
「・・優しく・・しないで。」
ルキアは私の気持ちがそのままに伝わるから、そう言ったのだ。
今の私に一番優しく、背中を撫でるような言葉だった。
心の奥の苦しみをそっと抱いて、まるで連れ去ってしまいそうなほどに暖かく。
『貴女には優しい言葉に聞えてしまうんですね。』
精一杯キツく言ったつもりなのに、とルキアが微笑んで言った。
私が優しくされたくないから、わざと冷たく言ったことくらい分からないわけがない。
私の言葉を否定することなく、私に訴える。
逃げてはいけないと。
本当は分かっていたから。
好きになるんじゃなかったと言ってしまえば、好きじゃなかったのだと言ってしまえば、確かに楽になれる。
だけどそれは違うってことを、本当は分かっていた。それはただの逃げでしかないと。
『貴女はセルスにそんな事、言えないでしょう?そんな事を言える程度の感情じゃないのだから。』
「ルキア・・・。」
好きじゃないなんて、自分に嘘をつくことはできない、してはいけない。
好きにならなければよかったなんて、そんなの嘘だ。
「私ねっ・・セルスが大好き。セルスに会えてよかった。セルスを好きになってよかった。
もしこんなことになるって分かっていても・・きっとセルスと出会いたいと思ったと思う。
何度でも・・何度でもセルスを好きになったと思う。」
『えぇ、知ってるわ。』
誰を傷つけてでも、決して消す事なんてできない私の初恋。
ただ、誰かを傷つけてでも結ばれたい、そんな恋じゃない。
「だけど・・っ・・じゃぁどうすればいいの?・・私、トレスを傷つけてまで・・セルスの隣にはいたくない。」
『コア・・貴女は優しすぎるのよ。』
「・・そんなことない。セルスに知っていて欲しいって気持ちが・・トレスを傷つけようとしてる。
セルスの答えはいらない。だけど・・知っていて欲しいなんて、一番我が儘だもん。」
そうだと知っていても、伝えてしまいたかった。
トレスがどれほどセルスを好きでも、私は諦める事なんてできないくらいにセルスが大好きなのだと。
『世界は決して丸くない・・・。』
「・・・丸くなんてならない。誰かが誰かを好きな限り、その気持ちが大きければ大きいほど、丸くなんてなれない。
どこかが繋がって、どこかが途切れて・・。どうすれば皆が幸せに大好きな人の隣に・・・いられるのかなぁ。」
そっと遠くにいるトレスとセルスを見た。
大好きな2人が、一番幸せになる方法は、きっととても難しい。
もしもトレスがセルスに気持ちを伝えたとき、私はセルスの傍にいたいといえるだろうか。
「トレスが傷つくことを・・分かっていても・・・・・。」
私はとても酷い人間だから、トレスが伝えても・・セルスの笑顔を忘れる事なんか私にはできない。
セルスと過ごした日々や、セルスを想い続けた時間を否定する事はできない。
「この気持ちは、捨てられそうに無いよ・・・。」
苦しくて苦しくて、それほどまでに貴方が好き。
そんな気持ちをトレスだって抱えていて。
この世界は残酷にも、皆が幸せに笑って大好きな人の隣にいられるようにはできていない。
その中で人はこんなにも苦しんで恋する気持ちを抱くのだろう。
だからこそ、誰かを愛する事は、この世界で何よりも素晴らしく、何よりも大変な事なんだから。