二部
八
占唐の都は碁盤の目のように路地が走っている。
中央に都を二分するかのように延びた大通りの道幅は、通りと言うよりむしろ広場だ。
それがこの国を治める王族の住居兼仕事場街である内裏と大内裏まで一直線に延びる。
昼間はその大路が市場と化し、様々な地から集まった品物と人で溢れ返る場所だが、夜はただ星と月の明かりのみを頼りにする他ない。
街灯のないこの国では夜になれば全て闇に包まれる。
時折思い出したように現れては消える光りは、宴か忍び向かう貴族のもつ灯り、もしくは人ではない者の遊火。
満月でも無ければ周囲は闇に包まれ、そこは真実、人ならざる者の領分だ。
それを知っているからこそ、夜に出歩く人は何かしらやむにやまれぬ事情持ち。
まして被衣姿の女人などその最たるものに違いない。
好奇心や好色はあれど、厄介事には関わりたくない。それが人の性だ。
月の明かりも満つには足りない夜、人目を忍ぶように供も付けずに歩くその姿は、だからこそ見咎められずにひっそりと歩いていた。
衣に隠れてはいても、さらりと零れる艶やかな黒髪に被衣を押さえる手の白さ、艶やかな紅の唇はえもいわれぬ色香を纏わせている。
ふと、その姿は歩みを止めて辺りを見渡した。
周囲は静まり人の姿は見当たらない。
僅かに不思議そうに小首を傾げ、不安からか胸元に手を添えた、その時。
「あ」
「え……?」
満ちるには足らない月を背に、それは築地塀を越えて飛び降りてきた。
片手を塀につき、遠心力と反動を利用して、恐らく路へと着地するつもりだったのだろう。
軽やかかつ流れるような動きで身体を斜めに傾け越えてきた事からもそれは明らかだったが、路へと降りるはずだったその両足は、そのまま路ではなく不運にも歩みを止めてしまったその被衣姿へと綺麗に突き刺さった。
げしっと音までさせて華麗な直撃である。さらに、蹴りつけた人物は被衣姿でさらに反動をつけて軽い足音と共に着地した。
一方、ものの見事に飛び蹴りを受けてしまった被衣姿は受け身こそ取ったものの当然と言うか何と言うか、地面に突っ伏して動かない、否、動けない。
そんな被衣姿を一瞥した突然の襲来者は、元服したかどうかの、十二才ほどの少年だった。
黒髪黒目のまだ幼さの残る顔立ちだが、その瞳に浮かぶ色は顔と正反対の可愛いげなど皆無の冷めたもの。
「邪魔です。避けられないならぼさっと突っ立ってないで下さい。怪我したらどうするんですか」
「こっ……―――― こっちの台詞だ!」
被衣をかなぐり捨て、花宵は身を起こす。
ズキズキと痛む受け身を取った方の腕を押さえながら、花の顔を怒りに染めて無礼な襲撃者を睨みつける。
しかし、その様子にも少年は怯まない。どころか、視線そのままの冷たい声音で言った。
「それだけ厚着していれば平気でしょう」
「ふざけるな」
「ふざけてませんよ」
「なお悪い!……!」
はっとして花宵は胸元に手を当てる。そして慌てて袷から取り出した小さな包みを開く。
絹の布切れから出てきたのは飴色の花細工を施した見るからに高価そうな櫛だったもの。
「…………」
全身から力が抜けた。何の為に抜け出して来たのかと。
がっくりと項垂れていると、いつの間にか俯いた視界に地面以外のものが映っていた。
沓先が映ればそれの主が誰かはすぐわかる。
「……贈り物ですか」
「だったら、何」
自分より年下の子供に、たとえほぼ元凶であろうと怒鳴っても責めても仕方ない。それで櫛が元通りになるわけでも、時間が巻き戻るわけでもないのだから。
しかし、これは辛い。しばらく立ち直れないかも……と打ちひしがれている花宵の側で、少年は立ち去らずに立っている。
「……?」
不審に思って花宵は顔を上げた。
そこにあったのは、どこか困ったようなそしてすまなそうな表情で、ついさっきまでのあの一目で元凶と断じられる顔どこにやった!?と言いたくなった。
「…………すみません」
「う。……べ、別に」
何か物凄くしゅんとしている。こっちがいじめてるみたいじゃないか。
そう思って居心地の悪くなった花宵は、壊れた櫛を包んで袷に仕舞い、膝を叩いて砂を落とすと立ち上がった。
溜息をつくのも億劫でそのまま踵を返そうとした。のだが。
「…………」
「…………」
はしっと袖を掴まれていた。怪訝な顔で花宵がそちらを見ると、少年は真っ直ぐに見詰め返し、言う。
「お詫びに手伝います」
「は?」
「明日の昼に迎えに行きますから」
「え」
「とりあえず、今日は送ります」
「いや、ちょっと、別に手伝ってもらうことなんて」
「あ、今、友達呼びますから」
「人の話聞きなさいよね!?」
花宵の言葉を聞いているのかいないのか。恐らく後者なのだが、少年が何やら口笛のような音をさせると、辺りの空気がざわついた。
「ちょっと、何やったの」
ざわざわと明らかに普通のざわめきじゃない気配がする。
「何って、友達を呼んだだけですよ?」
「……その友達ってのは、なんであんなに大きいの」
「そりゃ、私達を乗せてくれるからです」
「ほう。じゃあ、そのお友達が、何で耳とか尻尾とかひげとかあるの」
「そりゃ、ちょっと大きい猫さんですから」
「どう見ても控えめでも化け猫としか言えないでしょ!」
実際に見た事はない。が、噂に聞く虎なみの体躯。真っ白な毛並みに所々灰色の模様がある化け猫が目の前に現れて腰を抜かさなかっただけ上出来の部類のはずだ。
しかも恐怖体験はこれでは終わらなかった。
「じゃ、行きますよ」
「ちょっと!」
「お願いします」
「いっやああああああああああああああああああああああああ」
無造作にそして意外に強い力で掴まれ化け猫の背に乗せられ、塀の上を猛進され、トドメは見事な月面宙返りを披露された事だろうか。
「じゃあ、明日の昼に」
事も無げに去って行こうとする少年に、迎え云々以前の事が頭に浮かび、口を出た。
「あんた誰!?」
少年はその問い掛けにキョトンとして、そう言えば言ってなかったか面倒臭いなという表情を一瞬浮かべてから、口を開く。
「吉野ついな。とりあえず、君は東宮なんですから呼び捨てにしても良いですよ」
それが初めてついなに会った時だった。しかも吉野ついなと名乗った少年は、翌日本当にやってきた。
「君、なに考えてるんだ!?」
「静かにして下さい。騒がれると隠行してても気付かれるでしょう」
そう言うが、人の気配が引いた一瞬を狙うように暗がりへと思いっきり引きずり込まれたのだから文句の一つも言いたくなる。
「無駄に人がいて忍び込み難いんですから、手間掛けさせないで下さい」
「あのねぇ、そもそも内裏に忍び込むって何考えてるの!?子供だからって下手したら警備の武士に引っ捕らえられるよ!?」
「私はれっきとした十二才です。だからこうして人目を忍んで来たんじゃないですか。うるさくしたら気付かれますから少し黙ってて下さい」
東宮とはこの国の皇子である。
その東宮たる自分に、事もあろうにこの言い種。
別にひれ伏せとか言う気はさらさらないが、こんな態度言動を取られたのは初めてだ。
唖然とする花宵をそのままに、ついなは何か細々と花宵にはわからない細工を施し、それを終えると振り返って言った。
「当分誤魔化せるようにしましたから、さっさと女装でも何でも良いんで外に出る仕度をして下さい」
昼間の大路には市が立つ。
遠路はるばる運ばれ集まった品々を商う人とそれを買う人の交わりがいたる所で繰り広げられる。
多くの人の声も引き連れられた家畜の鳴き声も騒がしく皆がそれぞれの目当てを探し求めて行き交っていた。
「花宵、こちらです」
その中で大人の背に埋もれそうになりながら壷装束の女性らしき人の手を引く少年は傍から見れば微笑ましい。
たとえその実態が東宮にさえ無遠慮な生意気可愛げ皆無の変人と、幾ら艶やかに装うとも男でしかもこの国の東宮であろうと、知らなければ微笑ましい姉弟の図なのだ。
「ちょっと……君、本気で何なの」
「先ほどからわけのわからない事ばかり言ってないで下さい」
「意思疎通って言葉知ってる?」
「だから、話しているじゃないですか」
内裏を抜け出してから幾度となく行ったやり取りだが、どうにも噛みあわない。
このついなと言う少年の目的も何も、わけがわからない事ばかりだ。
「ほら、あちらの店なども良さそうですよ」
「…………」
自分より一回り小さな手に引っ張られ、頭一つ分低いその姿を見つめる。
烏帽子も真新しいその姿は子供なのだが、どうにも何かが異質な気がしてならない。
そう考えていたら、やおらついなが振り向いて花宵は一瞬ぎくりと身を強張らせた。
「そういえば」
「何」
「知らなかったんですか?」
「だから、何が」
「贈り物で櫛は、別れの意味があるんですよ?」
その言葉の意味と、不思議なくらい真っ直ぐで邪気のない瞳に花宵はしばし固まった。
ついなは淡々と言葉を続ける。
「別れの御櫛は、そもそもは何代か前の帝が妹である姫を見送る時に渡した事から別れの意味を持たせるので贈り物……特に想う方へのものとしては避ける物だと思いますが」
櫛が苦しに通じるともされ、贈り物には適さないと言われていますし、と。
「何で……女性に、…………好きな人って」
「私より年上のいい年した人が此の世の終わりみたいな顔で泣くに泣けない情けない顔してるの見れば、自分の女装趣味を満たす為に手に入れたんじゃない事くらいわかります」
「これは、別に私の趣味じゃないわよ」
「別に私にはあなたの性癖は関係ないので気にしませんよ?」
「だから違うって言ってるでしょ!」
いやいやそういう事じゃなく。
話が思わず逸れそうな雰囲気に花宵は引きずられまいと首を振る。
「見事な細工でしたし、自分で使うのでなければ女性への、それもあまりの情けなさから見て想い人への贈り物として用意したのだと思いました」
さり気なく失礼極まりないものが所々混ざっているようだが、ついなは少しだけ唇を尖らせ下を向いて呟いた。
「それを、駄目にしてしまったので」
「ええと、それって……。それで?もしかして」
「そうですよ?言ったじゃないですか。手伝うと」
不思議そうに花宵を見つめるついなの瞳は、ただ純粋な子供のものだった。
花宵は軽く頭痛と眩暈を覚える。
これは、異質だ。
自分の知らない”生き物”だ。
「……よくわからない奴」
花宵の言葉に小さく首を傾げてから、ついなは辺りを見回し、花宵の衣の袖を引いた。
「とりあえず、嫌がらせや別れを切り出したくないなら櫛以外というのもわからないあなたの為に、しっかり案内して差し上げますから」
「……別れの意味があるって事くらい聞いた事あったわよ」
「じゃあ、別れたい相手だったんですか?」
「違う。ただ、そんなの気にするより綺麗だったし、櫛なら毎日使うじゃない」
「…………」
「ちょっと、何よその『うわー……』って顔」
ついなは花宵の言い分に呆れきったような顔をしたが、ふと思い直したようで首を傾げて聞いた。
「もしかして、初めてですか?想う方を見つけたのは」
初恋ですかと臆面もなく聞いてくる。
「そう」
思わず頬に朱が浮かびつつ、それを隠すようにもしくは半ば自棄になって花宵はことさら素っ気なく頷いた。
降りる沈黙が居心地悪く、花宵はとりあえず店を見る。
目の前に広げられた品々はどれも素朴で安価な物ばかり。
それが悪いと言うのでは無いけれど、やはりあの壊れた櫛ほどの一品は無い。
「…………まぁ、櫛はやっぱり避けた方が良いかもしれないし」
ちょっと自分で自分を慰めるように呟く花宵だった。
「どんな方ですか?」
「え?」
「あなたの好きな方は」
「どんなって……」
「華美なものがお好きですか」
「いや、どちらかと言えば装飾はあまり興味ない感じだったけど」
そこまで口にして、花宵は思った。
やっぱり贈れなくて良かったのかも。と。
華美な装飾は好まないけれど、櫛ならと思って用意した。それでもよく考えればそんな彼女に贈っても困らせるだけだったかもしれない。
絶対似合うと思うけれど、それは自分の思っているだけだから。
舞い上がってたなぁ、とほろ苦く花宵は肩を落とす。
「毎日使えてかつ装飾に興味のない方に贈るもの……」
ぶつぶつと何かを呟き、ついなはぐるりと辺りを見回した。
「あれなど良さそうですよ」
「ちょっと!」
ついなが花宵の手を引いて何かを目指して一直線に人の間を駆ける。ただでさえ動きにくい女装の花宵は人を避けるので精一杯になりつつも転ばぬようになんとか切り抜けた。
「ほら、これ!」
花宵がぐったりとしている姿を振り返り、ついなは子供の無邪気な笑顔で自分が見つけたものを示して見せる。それは小さな木製の調味料入れだった。
焦げ茶の木目とつるりと磨かれた入れ物に可愛らしい花の模様が彫り込まれている。
「何、これ」
地味。あの櫛と比べて花宵はそう思った。
「料理の味を調える香辛料の入ったものです。中々に入れ物が可愛らしいので、きっと喜ばれますよ」
「…………」
女性への贈り物に調味料。そんなのは聞いた事がない。
花宵の乗り気のしない様子を見て取ったのか、ついなは調味料入れを店主へと包むように願い、さっさと自分で代金を払ってしまった。
「ちょっと」
「いいから。騙されたと思ってこれを差し上げてみて下さい。絶対、櫛より喜ばれますから」
「む……。これの方があの櫛より良いって言うの?」
あまりに自信たっぷりについなが言うものだから、先ほどまで贈らなくて良かったのだと自分に言い聞かせていた花宵も、自分の贈ろうと思っていたものがこんな地味なものに劣るものかとカチンときた。
睨み付ける花宵に、ついなはさも当然のように頷いてみせるものだから尚更に。
「だからそう言っているじゃないですか」
「へぇ……。じゃあ、あの子が喜ばなかったら君はどうしてくれるんだ?」
そもそもついながとび蹴りしなければ櫛だって割れなかったのに、強引に自分を引っ張り出して、壊れた櫛の代わりに押し付けたのはこんな地味なもの。
「喜ばなかったら、あの櫛よりも美しい櫛を差し上げます。一応あてはありますから」
そんなあてがあるならそちらを先に出せ、と喉元まで出掛かって花宵は唇を引き結んだ。
「ふぅん。わかった。ちなみにあれ、元服したばかりの君が購おうとしたら一年分の禄どころじゃないけど?」
「でしょうね。でも大丈夫ですよ。そんな事にはなりませんし、そうなっても自分で言い出した事ですから」
にっこりと笑うついなと花宵の間に不可視の火花が散る。
どこか不敵な子供らしくない笑みを口許に浮かべ、ついなは言う。
「代わりに、喜んだら、どうします?」
「その時は君が正しかったって認めて好きなだけの禄を取らせてあげるよ」
「…………。その言葉、忘れないで下さいね」
「それで、結果は?」
東雲の問いに、花宵はくすっと笑って肩を竦めて見せた。
「言うまでもなく、ついなが正しかった」
調味料は考えてみれば貴重品で、それだけでも贈り物として一般人には十分。
その贈りたかった女性は猟を生業にしていて山の中腹に住んでいるような人だったから、櫛なんかよりも生活で使えるそれをとても喜んだ。中身は勿論、使い終わっても器は別のものを入れることもできる。可愛い入れ物だと本当に喜んでくれて、今でも彼女はそれを使っているのだ。
「私の惨敗よ」
「……それで、それと私にどう関係があるの?」
「ついなの方が正しくて、約束通り私はついなに好きなだけの禄を取らせようとしたんだけど……」
また性懲りもなく忍び込んできたついなを前に、花宵は苦虫を噛み潰したような顔になった。
それもついながにっこりと上機嫌だから余計にである。
「それで、どうでした?」
「…………君が正しかったよ」
時刻は丑三つ時。
東宮の寝所にやってきたついなはまるで始めから結果を知っていたかのような気軽さで問い掛けてきたのだ。
色々な意味で打ちのめされた気がする花宵は、溜め息と共に腹をくくった。
「何がどれだけ欲しい?」
花宵の問いに、ついなはキョトンとして瞳を瞬く。
「あなたが自分で得たもので私に与えられるものなんて無いでしょう?」
「何言ってるのかな?私は東宮だよ」
「知ってますよ。けど、それはあなたが自分で得たものじゃない。租庸調は国民からの献上品なんですから、あなたのじゃなく、国のものだって忘れないで下さい」
ついなの言葉に、花宵は息を飲んだ。
当たり前の事だったのに、忘れていた。それが恥ずかしくて頬が染まる。
「なので何かくれると言うなら、私はあなたが良い」
「…………」
今度は別の意味で花宵は固まった。
にっこり笑顔でこいつ今、何言った!?思わずついなを見る目に不信感が浮かんでしまう。
しかしついなはそんな花宵の不信感など意に介した様子はなく、そのままもう一度言った。
「あなたが良い。せっかくなので観察して参考にさせて頂きます」
「参考?」
観察とか。先ほどから妙な言葉ばかり聞こえる気がする。
「ええ。私も想いを寄せる方がいますから」
そう言う顔が、本当に嬉しそうで、見ただけで本当に好きなのだとわかった。
「先日の夜も、その方を追いかけていたのですが……」
「夜に出歩いてたのか?」
「ええ。というか、人間ではないので。その方」
「…………」
もう驚かない。今、はっきりわかった。
「君は、変な奴だな」
「そうですか?誰かに想いを寄せるなんて皆やっていることでしょう」
「いや、そういう事じゃなくて……」
変だし、ズレてる。けど、きっと悪気は欠片もないんだろう。
「…………でも、まぁ、確かに。そういう括りなら皆同じか」
「そうですよ」
「そうかもね」
花宵は思わず小さく笑った。
ついなは笑顔で頷き、花宵へ片手を差し出す。
「なので、私はあなたに協力しようと思います」
差し出されたついなの手を取って、花宵は握り返した。
「つまるところ、これって片恋同盟って所かな?」
冗談めかしてそう言えば、ついなは目をぱちくりと瞬いてそれからニッと不敵な笑みを浮かべる。
「今は、そうですね。でも、私は絶対それじゃ終わりませんよ?」
「こっちだって、そのつもり」
花宵とついなは顔を見合わせ、二人で笑った。
「って事だったのよ。恋愛同盟ね」
「…………」
「呆れた?」
「よく、わからないわ。それはいつの話なの」
「六年くらい前かしら。ついなが十二才して陰陽寮に入りたてで、私が十四の時だから」
六年。東雲にとっては数秒のようなものだが、人間の時間の感覚ならば年単位というのはそう短いものでもないだろう。
「……でも、私、会ったのは二年前だったはずよ」
「貴女はそうだったのかも知れないけど、少なくともついなは六年前には貴女の事を知っていて、追いかけてたわよ」
どうして。そう顔に出ていたのか、花宵は東雲を見てクスクスと笑う。
「それが知りたいなら、私じゃなく、あの子に聞いたほうがいいわ」
「あの子?」
「ついなの幼馴染。私が出会う前のついなを知りたいなら、きっとあっち」
花宵は歩みを止め、笑む。
「じゃあ、また改めて。着いたから今夜はここまで。ついなによろしくね」
「ええ。……ありがとう」
「どういたしまして。あとね、これは多分なんだけど」
とっておきの秘密を話すように花宵は紅を刷いた唇の前に人差し指を立てて声を潜める。
「ついなに、ついなの事を知りたいんだって言ったら、とっても喜ぶと思うわよ?」
それは何故と問う前に、花宵はひらりと身を翻して内裏へと戻っていく。
東雲は疑問を抱え、その後姿を見送った後も少しだけそこに止まっていたけれど、ふわりと地を蹴って夜空に舞い上がる。
知ろうと思って聞いたはずなのに、わかったのか謎が深まっただけなのか。
「わからないわ……」
呟き、そして東雲は朝餉の用意をする時間になるのを見計らって”家”へと戻っていった。
九
吉野の地は桜の地。そう呼ばれることがあるほど、ここの桜はどこよりも素晴らしい。
「私の護る地だもの。当然よ」
「そうですね」
その地に根ざし見守る社のカミである瑞木は薄い胸を張って誇らしげにそう言った。
本当にそう思っているのかどうかわからない様子ではあったが、禰宜を勤める瑞穂もそれに頷き、先ほどふらりと現れた風のカミ、東雲に土器の湯のみに注いだ茶を出す。
床板は年代を感じさせる色味だが、いつも早朝の掃除から一日を始める瑞穂の努力によって艶々と磨かれ、塵一つ無い。
薄茶色の短い髪を揺らし、茶を出し終えた瑞穂は白衣水色袴の姿で姿勢を正して客に向かい合って座す。
「それにしても、ついなったら本当にあなたに求婚しちゃったのねー」
姿勢を正した瑞穂の後ろから、まるでじゃれつくように十代中ごろの少女が抱きついた。
この社の主だと先ほど言った瑞木だ。
少女の姿をとってはいても、実際の年齢は本人のみぞ知る。
可愛らしい顔立ちだが、その色彩だけは人間とは離れていた。
真っ白な足元まで流れる髪に白い肌、雪に凍えた枝葉のような細く髪と同色の睫が縁取る大きな瞳は桜の色。ひらひらとした衣から覗く手足は細く、唇と爪もほんのりと染まった姿は美しい。
けれど、どこか幽玄の揺らめくような雰囲気を纏う。この姿をどう感じるかは見たもの次第だと、東雲は思った。
「あなた達は、昔からついなを知っているのよね?」
「昔からって言っても、私は瑞穂とついなが会った頃くらいからしか知らないよー?それまで、興味なかったし」
瑞木はそう言って抱きついた瑞穂に同意を求めるように頬擦りする。
「出会ってから今まで、ならば確かに花宵よりは数年だけ先に知り合っていますから」
それで良ければと瑞穂はじゃれ付く瑞木を気にした風もなく淡々と言った。しかしふと気になったのか東雲を見つめて問う。
「花宵は元気でしたか?やつれていたりはしていませんでしたか?」
「築地塀を越えて訪問するくらいには元気だったと思うけれど」
「ああ。全然元気で問題ありませんね」
なら良いですと一つ頷き、瑞穂は溜息をつく。
「もしついなのあしらいに困ったら、彼に助言を貰うのが一番良いですよ。あれを相手にしてやつれもせずに意気投合して動き回れる元気があるのは今のところ彼くらいでしょうから」
「あら。瑞穂だって別についなに構っても疲れてなかったじゃない」
「あれは諦めてたんです。普通の感覚でついなと接していたら気が狂います」
すっぱりと中々辛口な事を言う瑞穂に、瑞木はクスクス笑い、東雲は珍しいものを見るように瑞穂を見ている。
そんな東雲の視線に気づいて、瑞穂は一つ軽い咳払いをした。
「それでも、変に聞こえるかも知れないですが、悪い奴じゃありませんから。特に貴女には」
「そーねー。特につつかなければ回りに害はないわよね。ついながむしろ私達とか以外なんて気に掛けてないから」
人間としてはどうかと思うケドー、と瑞木は軽く言って、それから桜色の大きな瞳を輝かせて今度は瑞穂から離れて東雲の隣へと移動して腰を下ろす。
「だから私、ずっとついなが『絶対諦めない』って宣言してた貴女にこうして直に会ってお話してみたかったの」
瑞木はそう言って東雲の浅葱色の髪や白い肌に触ったりする。
東雲は外見的には自分と同い年くらいの瑞木を嫌がるでもなく、好きに触らせていた。
「貴女がこの辺りの空を春とかには良く通っていたの知っていたんだけど、ついなより先に声をかけたら恨まれそうだったし」
嫉妬深いんだもの、とぷくっと頬を膨らませる瑞木の様子が可愛くて東雲は思わず笑みを零す。
「あ!ねぇ、貴女は嫉妬ってわかる?」
「……嫉妬」
言葉としては知っている。けれど自然の気が凝って生じる精霊である東雲にとって、言葉の意味などは聞いたことがあり知ってはいるが、それが実際にどんなものなのかと聞かれたらわからないと答える他ない。
「うふふ。やっぱり。そういう事なら任せて!ついなの話以外でも、私、あなたの相談に乗ってあげる!」
まるでぬいぐるみに抱きつく幼い少女のように瑞木は東雲を抱き締める。
どういう事かわからず目を瞬かせ、東雲は傍観してひっそりと溜息をついている瑞穂に視線を送った。
「…………すみません。うちの瑞木が」
「うふふふ!よろしくねー、しのちゃん」
よくわからないが、どうやらこの社のカミに懐かれたらしい事だけは理解する。
東雲に抱きついたまま、瑞木は楽しそうに呟く。
「わからない事ばかりでしょう?人間に関わると、もっとそういうの増えるわ。物凄く混乱して、どうして良いのかわからなくなっちゃう」
瑞木へと東雲は目を向ける。視線を受けて、瑞木は悪戯好きの子供のようににっこりと笑った。
「辛かったり、悲しかったりするわ。けどね、同じくらい、きっと嬉しかったり楽しかったりもするの。これから、きっと」
瑞木は東雲を見つめて笑う。性別さえ同じでなければ意中の相手との睦み合いかと思えるほどその桜の瞳は熱を帯びて。
「貴女はこれから、きっと何よりも恐ろしい目に遭う」
白くたおやかな繊手が東雲の頬をそっと撫でる。
桜を見つめ返す色は森の緑。
東雲の緑の瞳を瑞木は覗き込むように顔を近づけた。
「そして、きっとそれは何よりの至福へと転ずるわ」
ぱっと手を離し、身も離して瑞木は無邪気に微笑んだ。
「ご結婚おめでとう。そして、ようこそ。私達と同じ場所へ」
瑞木の言っている事は東雲には意味がわからない。けれど、きっとその真意を聞いたとしても彼女は答えないだろうと感じる。
「意味がわからなくても大丈夫。きっとすぐ。ついなの事を貴女がこうして気にし始めた時点でそれは確実だから。―――― 答えは自力で見つけてみてね」
東雲の考えを肯定するような言葉を残して瑞木は軽い足取りで室を出て行った。
「本当にすみません。うちの瑞木が」
「いいえ。…………彼女は、私の味方になってくれるって言ったのだもの。謝られるような事は何もないわ」
「そう言ってくれると助かります」
「今の私にはわからないけれど、きっと彼女の言うとおりすぐにわかるのでしょう」
精霊は嘘をつけない。
瑞木の去った方を見つめ、東雲は考える。
知らないことばかり。わからないことばかりが、増えていく。
そして答えを知っているだろう者達は、必ず言う。―――― 自分で答えを見つけてね。
それはそうしなければならない何かがあるから。
「とりあえず、ついなとの出会い、お話しますか?」
「ええ。お願い」
瑞穂の声に意識を引き戻し、東雲は頷いた。
一目ぼれなんてありえない。
そこには「お前が」という一文が確実についていたのだろう。
そんな事は他でもない自分自身が一番わかっている。
けれど、人生何事も”絶対”なんてものは存在しないのだと知ったのは、間違いなく彼女を一目見た時だった。
ついなは出かけた東雲が帰ってくるのを庭に面した廂に座って待っていた。
空には月。吹く風はまだ夏と秋の間を彷徨うように揺れている。
ついなは自身の片手を見遣った。
結局、あの乱入のあった日から今日まで手を握る機会は廻ってこなくて、未だに惜しいと思っているのは内緒だ。
「…………触れたい」
触れたい。自分にとって彼女は陽だまりそのもので、触れるだけで心に温もりが落ちてくる。
触れられるだけでも良いから、今すぐ触れたい。
初めて心奪われた時から四年。追って、どうすれば見てくれるかと考えて、声を掛けるまでにそれだけ掛かってしまった。
本当はもっと早く声を掛けたかったのに、いざという時になってどうしても勇気が足りなかったのを、彼女も友人達も知らないだろう。
彼女が本当に偶然、仕掛けに落ちた時、頭の中が真っ白になった。
何を言えば良い。それよりもまず助けないと。でも彼女なら手助けなんていらない。そんな言葉がぐるぐると渦巻いて混乱した。
自分でも馬鹿だと思うが、とりあえず兎に角、何をおいても、近づいてみよう。それしか思い浮かばなかったのだ。そうしてさながら灯りに引き寄せられる蛾のように気づいたら彼女の側へ。
あの時は本当に自制しているのが精一杯で、最初からあんな事を言うつもりじゃなかったのに。
でも、逆に言うとあれで腹が決まった。もしそうでなかったら、この今は無かったのかも知れないと思えば、あれで良かったのだろう。
情けない。絶対言えない。
「…………それでも、信じられないくらい幸せです」
ついなは滲むような微笑を浮かべて相好を崩した。
これはまだ始まりに過ぎない。
彼女は妻にと乞うと承諾の返事をくれたけれど、彼女は精霊だから。
きっと、ついなという自分の事を好きなわけではない。
「どうすれば、好きになってもらえるか。これからですからね」
まだ始まりで、ひょっとしたら始まってすらいないのかもしれないと、ついなは思う。
だから、本当の勝負はここから。
「頑張りましょう」
好きになってほしい。
彼女の心が欲しい。
初めて彼女の笑顔を見た瞬間から、ずっとそう思っている。
「まだ、笑ってもらった事、ないですし」
まずはそこから。自分に笑顔を向けてもらえる事をまず目指そう!と現在十八の男は固く決意した。
十
「ついな?」
固く決意を決めた矢先に聞こえた声に、ついなはびっくりして内心飛び上がった。しかし表側は努めていつも通りを装いつつ振り返る。
「東雲、お帰りなさい」
まさか玄関から来るなんて、とは言わずに。
「……ただいま。何していたの?」
「え、それは、ああ」
どうしよう。あなたを待っていたのです。と言って良いものかどうか。
ついなはそんな事を考えた。本来ならむしろ何故そんな事で悩むのかと言われる類いだが、ついなのこれまで取ってきた行動が行動である。
自分が少々突飛な、普通の定義から外れた思考や行動をすることがあると、ついな自身認識しているのだ。そして東雲にそれがどう思われているか、先日の花宵乱入ではっきりきっぱり言われてわからない程、頭は錆び付いていない。
しつこく付きまとわれたと認識(それは紛れもない事実であるのだが)されているのに、ここでまた東雲を待っていたと言ったらどう思われるか。
妻になっても付きまとわれるの?なんて思われたら、今度こそ嫌われるんじゃないかと、本当に今更ながらついなは怖かった。
「…………?」
「東雲、今日はどちらに?」
「吉野よ」
「そうですか……」
ついなの態度に訝しげな顔で東雲は首を傾げるが、それ以上は追及しない。
それが余計にぎこちなさを生み出している事に、ついなは薄々気付いていたが、自分から踏み出す事が出来なかった。
幸せだからこそ、その関係を壊したくなくて。
その先を求めるには、踏み出す勇気が必要なのに。
「ねぇ、ついな」
「はい」
自分の不甲斐なさに軽く沈んでいると、東雲が側へと近寄ってくる。
そして何気無い口調でさらりと爆弾を投下した。
「私をどうして好きになったの?」
「え……………………」
森の緑は吸い込まれそうなほどに深い。
―――― ああ、ずっと見ていたい。…………ではなくて!
否、見ていたいんだけども!と頭の中がてんやわんやの大騒ぎだが、外見は至って普通の笑顔で固まっている。
しかも東雲は明らかに答えを待っているようで、黙ってついなをじっと見つめていた。
「…………ついな?」
「それ、は…………」
美味しい時には乱入してくるくせに、何故こういう時には花宵は来ないのかと半ば八つ当たり気味の考えが過ぎったのは紛れもない現実逃避。
「それは?」
「その……」
「その?…………ついな!」
「え?」
あまりに深くついなにとっては何よりも美しい緑の瞳が、驚きに大きく瞠られた。
嗚呼、綺麗だな。と見惚れていたのがいけなかったのか、おかしいと思ったのは視界から東雲の姿が消えてからだった。