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一部

 ――― 最期まで道連れにして差し上げます。


 それは馬鹿馬鹿しいくらい、人によっては狂気のような言葉。

 けれど、目の前の東域の都で陰陽師を勤める青年は、真顔で言ってのけた。

 片や東の風の代表とされる精霊。片や陰陽師とはいえただの人間。

 一方は時に上級精霊として、そしてこの東にあれば時よってはカミとして恐れられるもの。

 それにたかが人間の、十八そこらの男が言うのだ。

「妻になって下さい」

 馬鹿馬鹿しい。実にくだらない。

 そう、考えるのが普通だった。身の程を知れと言っても良かった。

 けれど、

「良いわ。その言葉が本当なら、なってあげる」

 そっと片手を伸ばし、差し出されていたその手を取った。


 それが、始まり。



      *** ◆◇◆◇◆ ***



「それで。私は言っておくけれど家事なんてしないわよ?」

 東雲はそう言って、東域と北域の特徴を掛け合わせたような薄桜の衣、その裾を揺らした。

 浅黄色の長い髪を掻き揚げ、深い森の緑をした瞳が、目の前でにへらっと笑み崩れている自身の“夫”を見遣る。

 夫は首の後ろで一括りにした黒い髪に、この東域では一般的な活動着である狩衣という服装で、瞳は黒曜石のように黒く、十八という年齢よりも大人びて見える要素の一つなのかもしれない。

 一般的に、この東域に生息する人間は他域の人間よりも顔立ちが幼いのだが、目の前の幸せそうに微笑んで自分を見つめてくる男性は実年齢よりも大人びている……というか、マセているように東雲は思った。

 何しろ、先日、東雲はこの“夫”にプロポーズされて、それを受けたのだから。

「構いません。自分のことくらい自分で出来ます」

「そう。なら良いわ。けれど、ねぇ、それで私が居る意味はあって?」

「勿論。居てくれるだけで私にとって十分」

 何故か自信満々で言い切る夫に、東雲は軽く溜息をついた。

 本当に変な者だ。こういうのを変人というのだと東雲は初めて理解した。

「私に、どうしてほしいのかしら?」

「何も」

「?」

 夫は笑う。幸せそうに。

「何もしなくても、良いのです。ただ居てくださるだけで。いえ、ずっと此処に居ろとも言いません。貴女は貴女の自由に」

「……意味がわからないわ」

 妻になってくれと言ったくせに、何もしなくて良いなんて。

 よくは知らないけれど、人間の夫婦というのは妻となった女性が夫の世話を焼くものだろうということくらいは知っている。

 なのに、それをしなくて良いと言うのだ。

 それならば何故。

 世話焼きをして欲しいのではなくて、何故この自分に妻になれなどと願ったのか。

 何故だか腹立たしくて睨みつけるも、やはり幸せそうにへらへらしてる。

「貴女のことが大好きだということですよ」

「…………」

 本当に訳がわからない。なんでこんなに苛々するのだろう。

 その笑顔を見ると、無性に腹が立つ。

 ぷいっとそっぽを向いて東雲は簀から庭へと降り、軽く地を蹴った。

 それだけでその身体はふわりと浮き上がる。

 風の精霊である彼女には至って普通のこと。

「お散歩ですか?いってらっしゃい」

 笑顔で見送るように見上げる顔に、風の塊でもぶつけてやろうかとさえ思ったが、それすらも癪だったので何も言わずにそのまま風に乗る。

 何故こんなに、苛立つのだろう。



「それはねぇ、うふふ、シルフィがぁ、そのついなさんにぃ恋をしているからだよん」

「ビオル、ついにボケたの?」

 東西南北をそれぞれの大国が治める大陸「ハルト」

 その中心である狭間と呼ばれる地域は精霊も妖も人間も全てが交わり合う完全な中立地域。

 どこの国からも干渉されず、どこの国の干渉も許さない。絶対的な治外法権の場所。

 その森の中で布の塊のような人物が言った言葉を、東雲はすっぱり切って捨てた。

 実はその布の塊のようなものが風の精霊を束ねる長でもあるのだが、つまり風の精霊である東雲もその部下のようなものなのだが、すっぱり。

「ボケてないよん。酷いねぇ。あははん」

 袖を唯一布から見えている肌である口許へと添えて笑う布の塊。

 東雲は腕を組み脚を組み宙に浮いている。

「ボケよ。だって恋なはずないわ」

「なんでぇ、そう思うのかねん?」

「恋はもっと楽しいものでしょ」

 人間の語る恋は、それこそ楽しくて胸が躍るものだと聞いている。

 時折暇に飽かせて宮廷の女房たちの恋愛話などを聞いたり、それでなくても普通の庶民の少女たちの話も、恋とはそういうものだという。

 間違っても苛々したりいじめてやろうかと思うようなものじゃないはずだ。

「うふ。さてねぇ?楽しいだけが恋じゃないっていうのも、よく言われることだよん?」

「……ともかく違うわ。認めない」

 こんなのが恋なんて。

 しかも、それなら相手はあの夫ということになるじゃないか。

 東雲がツンと顔を逸らしたのを見て、布の塊が小首を傾げる。

「それならぁ、なぁんで妻になることに了承したんだいぃ?」

「馬鹿だったからよ」

 きっぱり言った言葉に布の塊が黙る。

 それは続きを促しているのか、それとも二の句が継げないのか、どちらだろうか。

「道連れにして、最期まで一緒にいるなんて馬鹿なこと言うから、ちょっと面白いかと思っただけ。人間でそんなこと言ってくるやつなんて初めてだったし、だからちょっとくらい観察したら面白いかと思っただけよ」

 面白そうだから、人間の夫婦の真似事でも付き合ってやろうかと思った。

 そんな気まぐれだ。

 断じて、恋じゃない。

「…………何?ビオル」

 布の塊が何か頭痛でもするかのように片手を額に当てている。

「うーん……あのねぇ、そのぉ……うん、まぁ……」

 うんうん唸っていたが、結局その布の塊は力なく首を横に振った。

「しばらくぅ、一緒に暮らしてみると良いんじゃあないかねぇ。そうすればぁ……多分、わかると思うよん?」

 何が、とは言わなかったけれど、なんとなく一番最初の問いの答えだと思った。

 どうしてこんなに苛立つのだろう、という。

「一緒に暮らす、ね……」

 あの顔を見るとイライラするのだけれど、何故かその言葉に不快感は起こらなかった。




 狭間から帰った東雲を、夫は変わらず幸せそうな笑顔で出迎えた。

「おかえりなさい」

「…………」

 頭沸いてるんじゃないのかというほど、幸せそうで。

 だから東雲は呆れたような顔で口を開いた。

「ただいま」

 真似事の夫婦。

 人は家に帰ったらそう返すのだと聞いたから返しただけ。

 なのに、夫となったこの青年はとても幸せそうに笑うのだ。

「……そんなに楽しいの?」

「はい?」

「こんなやりとりが」

「はい」

 ほわんとした笑顔で頷く様子に、居心地が悪くなる。

 東雲は溜息をついて邸の中へと上がり。

 夕刻で非番だからか、夕餉の支度が出来ている膳を見る。

 二つの膳。明らかに夫とそして自分の分だ。

 三日ほど帰っていなかったのだが、まさかその間も自分の分も用意していたのだろうか。

 そうでなければ自分の分までいつ帰るか知れないのに用意できないだろう。

「……私が食べると思うの?」

「食べられませんか?」

 精霊が人間と同じように食事をすると思うのかと聞いたのだが、返ってきたのはそんな少しずれた言葉。

「食べられるわよ。けど、別に必要ないわ」

 人間の食事はいわゆる嗜好品の感覚だろうか。

 取らなくてもなんら問題ない。

「では、ご一緒に」

 食べましょう、と夫は膳を勧める。

 向かい合って座り、膳を食す。永い時の中では退屈で興味本位でやってみることがあった正座と、この地域の食事の仕方が役に立った。

 箸の使い方なんて知らなければ突き刺すだけにしか使えそうにも無い。

 ふと視線を感じてそちらを見ると、夫が匙を渡そうとしていたようだが、箸を使えるのを見てどうしようかと固まっていたようだ。

「……あるなら最初から渡していれば良いでしょう」

 固まるくらいなら、と東雲はさっさとその手から匙を取り、箸置きに箸を置いて匙を使う。

「何?」

 何故か夫がとても嬉しそうで、思わずじと目になった東雲に彼はにこにこ笑顔のまま首を横に振った。

「なんでもありません。私の妻は可愛いなぁと思いまして」

 物凄く腹が立つ。何故かはわからないけど、物凄く。

「どうしました?」

 へらへらと笑う夫。

 知らないと返して。しばらくそのあつものを匙で口に運んだ。

 特に会話があるわけでもない食事を終える。

 膳を下げたその姿を視界の端に見送ってから、再び庭へと降りた。

 紺碧の夜空に散らばった砂礫されきほどに膨大な大小の光粒。

 人はこれから自分達の行く末を紐解けるのだという。

 精霊である自分にはまったくわからないものだが。

「絶対、恋なんかじゃないわ」

 ならば、これもあの夫は運命だと読み解いていたのだろうか。

 だからあんな馬鹿げた途方も無い荒唐無稽な事を言ってのけたのか、と。

 それならば、やはりこれは恋などではないのではないか。

 読み解いた先がそうだったからならば、それは運命というものだとしても恋ではない。

 自分のあずかり知らぬ所を読み解いて先回りされるのは決していい気分ではない。だからだろうか。

 こんなに苛々するなんて。そう呟いて夜空へと舞い上がった。

「食事の支度もしなくて良い。どこでも自由にいって、居たい時に居てくれれば良い、ですって?バカにしてるの」

 人間の妻の役目くらい知っているのに、どれもしなくて良いなんて。

 腹立たしい。苛立たしい。

 それじゃ今までと何も変わらないではないか。

 夫婦となればもっと距離が近くなるものじゃないのか。

 勝手に読み解いて先回りしたくせに。

 それとも、やはりあの時は勢いであって、今になって立場の差を感じているのだろうか。

「…………あれが?」

 自分で考えておいてあれだが、とてもそんな謙虚な考えが浮かぶもんじゃない。

「いつも笑ってるけどそのくせ実は中身なんて興味向いたやつ以外には欠片も塵ほどもなくて」

 陰陽師としては呪詛の依頼なんかもあって、いつも断わっているけど表向きの善人みたいな断り文句の裏、その真実は「なんで貴方なんかの為に私が命はらなきゃいけないんですか?人を呪うなら返されたときに代償が奪うのは術者の方なんですよ。貴方なんかに命かけられません。そもそもやっかみで人呪うくらいなら自力でのし上がって蹴落とすとかまず試さないって自分を振り返りやがれこのボンクラ」なんていうようなものがたっぷり含まれてる男が?

「無いわ」

 ありえない。

 もし万が一あったとしても、はっきり言えばきもい。

「やっぱり、バカにされてるのかしら」

 先読みして、勢いでプロポーズしたけど今になって立場に恐々とするなんて、あの夫に関してあり得ないとしか出てこないから、後は考えられる可能性としてはそれだけなのだが。

 バカにされているのだとしたら、むかっ腹ではないか。

 あんなへらへら幸せそうな男に、先回りされて、バカにされるなんて。

「…………何も出来ないと思っているのかしら」

 何もしなくていいというのは、何もどうせ人間の生活に関わる事などわからず出来ないと思っているからなのだろうかと、そう思った。

「………………」

 それは、あまりにも業腹だ。



     ■      ■      ■



 目が覚めて朝餉の仕度をしなくてはと床を出たついなは夜着のまま釜のある厨に向おうとして、はたと動きを止めた。いい匂いがする。

「朝餉の支度ならあるわ。食べなさい」

「東雲……?」

 匂いの元はいつも食事をする間。二人分の朝餉の膳が用意されていて、ほかほかと汁物からも湯気が立っている。

 思わずちょこんと膳の前に座ったついなは、まじまじとそれらを見た後、急に東雲の手を取ろうとした。

「な、なによ」

「怪我はしていませんか?火傷は」

「無いわよ」

「嗚呼、でしたら……」

 よかったとホッと息をつく。

 それから一転、にこにこと笑顔になり。

「私の為に作ってくださったのですね。ありがとうございます。さっそく頂きましょう」

 そうして箸を手についなが食べ始める様子を、東雲も向かいに座り眺めながら自分の作った膳に手をつける。

 強飯こわいいという硬く炊いたご飯が一般的な占唐の食卓だが、朝から食べるのにそれもどうなのかと思ったし、先のついなの様子をみていると朝は急いでいるのかそれともそういう性情なのか、しっかり噛み締めているようには見えなかった。なので用意したのは水飯みずいいというおかゆよりはまだ硬さのある程度の柔らかいものだ。本当の水飯はおかゆと大差ないのだが、そこは好みに応じたと思えばいいだろう。

 根菜の汁物はちゃんと中身の具も柔らかく煮えているし、甘葛で甘く味付けた玉子焼きに漬物。

 ついなの箸がそれらに伸びる。

 失敗なんてしてない筈だ。風の長に作り方を教わり、そして実際つくったものを味見して貰ったのだから。

 ちゃんと大丈夫だと太鼓判も貰った。

 大丈夫……なはず。

 そんなことが頭の中でぐるぐると巡っていた所為か、意識していない東雲の眉間にはぎゅっと皺が寄っていた。

「とても美味しいです、しのの…」

 名前を呼ぼうとしてその表情を見たついなはキョトンとした顔で目を瞬く。

 酷く深刻そうな顔で眉間に皺を寄せていた東雲の顔が美味しいと言った瞬間にほっと安堵して緩んだのだ。

「……?……何よ」

 自分では意識していないことなのだろう。

 東雲がついなの様子に訝しげに首を傾げる。

 慌ててついなは咳払いをしつつ首を横に振り、なんでもありませんと返した。

 内心そんな東雲の様子がとても可愛いなんて思ったのだが、言ったら怒られそうだ。

 食べ終わった朝餉に手を合わせ、何だか危なっかしい手つきで洗い物をしようとする東雲についなは不安になりつつ、ひとまず出仕の仕度を終え、再び洗い場を覗き。

「…………東雲、無理なさらなくても……」

 そこには、どうやったのか床……というか土間の地面が濡れていて、器が転がっていたりするという光景があった。

「う、うるさいわ!ちょっと手が滑っただけよ!」

 呆然とその光景に固まっていたのは引き起こした当人のはずの東雲。

 ついなの声に東雲はサッと顔に朱が差しそういい返す。

 真っ赤な顔で一緒に片付けようというついなの申し出を突っぱねる東雲に、ついなは、ほにゃとした笑みに少しだけ心配そうな色を滲ませたものの大人しく引き下がった。

「食器はどうでも良いので、怪我だけは気をつけてくださいね」

 邸の門まで行き、外へと出る前についなはゴツンと額を扉にぶつけてそのまま縋りつくように座り込んだ。というか、悶えた。

「……可愛い」

 陰陽寮にて後に“吉野様”と呼ばれる陰陽師は、そんな言葉と共にふるふると震えていた。

 明らかに、安堵したり慌てたりしているのに素直じゃない反応。

 自分の感性を異常という輩がいても構うものか。

 文句なしに自分の妻は可愛い。

「……幸せです。貴女がいてくれるだけで」

 それは嘘偽りない心。

 少し意地っ張りで、プライドが高くて、素直じゃない。

 そんな君が愛しいのだと、言ったら絶対怒られる。

 それでも、想わずにはいられないほど、好き。

 傍から見てもおかしい男だが、そもそも他人にどう見られているかなんて気にする者でもない。少しは気にしなければ人として何か大切なものが欠けているような気がするのだが、本人にとってそんなものは無用の長物でしかないのかもしれない。

 自分に必要なものは、自分で決める。

 何とか体勢を立て直し出仕するために戸を開けたついなは、一度振り返る。

 彼女は、自身が女性として愛するただ一人の女。







 吉野という家はそれなりに古くて、それなりにその筋では実力のある家筋であるらしい。らしいとどこか他人事のようになるのは、あまり興味が無い上に、ついなにとって視える祓えるが当たり前すぎるからだ。

 常人には見えざる異形を見つけ調伏することを得手とする家筋の本家、その長男として生まれたついなも、その例に漏れずその力を持っていた。

 けれど、見えるのはなにも異形ばかりでは無い。

「鬱陶しい」

 出仕したついなは仕事に必要な資料を読みに図書寮へと足を運んでいたのだが、廊下を渡れば御簾などの内側から見てくる視線とひそひそ話し。

 大内裏にある各仕事場においてそれは変わり映えのない光景なのだが、よくもまぁ人のことにいつも気を向けていられるものだ。

 そんなことしている暇があるなら働けと思う。

 職場では皆、互いを蹴落として上がることを考えているし、仕事場が違えば今度はその職が持つ異能に奇異の目が向けられる。

 どこに行っても居心地は最悪だった。

 異形よりも、人間の悪意の方がよほど性質が悪いというのが、ついなの持論である。

 早々に必要な資料を書き写し、人気のない大内裏の木々が植えられた場所へと移動した。

 木陰に腰を下ろして写したものを読んでいると、近くを数人が通りかかった気配がし、その会話が耳に入る。

“陰陽寮の……”

“異形に触れる者たち”

 偶然聞こえた内容はありきたりなもので、逆によく同じ内容で飽きないものだとついなは感心しそうになった。

 異形にまつわる物事に関わる、異能の職。

 普段は関わりたくないというくせに、何かあればすぐに泣きついてくる。

 都合の良い時だけその存在を望むのだと、誰もが皆わかっていることだ。

 同じ人間でも、少し毛色が違えば“異質”とする。

 それが、人間。

「子が出来たら、こんな所には入れたくないな」

 ぽつりと呟いた言葉に少し時間が止まった。

 子。どれだけ先の話だ。

 まだねやを共にするどころか口付けさえしていないのに。

 あの東雲に妻問つまどいをした日から今日まで、実は触れ合いといえば、あの手を取ってもらったことと今朝などの触れることくらい。

 抱擁すらしていないのが実状だというのに。

 欲がないわけではない。

 今朝のような可愛い姿を見れば、思いっきり抱き締めたくなったりもする。

 手が握れたなら、しばらくというかずっと離したくないとも思う。

 それ以上はまだ当分先でもいいとは思っているものの、そういう触れ合いに対する欲がないなどというわけではさらさらない。

 のだがしかし、そういったことよりも、単純に嬉しさが勝っているのだ。

 傍に彼女が居てくれる。ただそれだけで、他に何もいらない。

「人間の欲なんて次々湧くものですけどね」

 きっとそのうちに、それだけでは飽き足らなくなる。

 そうわかっているからこそ、今はこのままでも良いかと思うのだ。

 ―――― 下手なことして嫌われたくありませんし。

 だって妻は可愛い。

 精霊で、人間の夫婦なんてよくわからないだろうし、彼女の性格からして今まで色恋なんてきっとない。

 そもそも精霊には普通、恋人や家族というものはないからだ。

 彼らは自然の化生。

 気が凝り、自我を持ったもの。

 風の精霊ならば全ての風が家族と同意義であり、性別と言うものもあやふやである。

 ただその自我が気まぐれに決めているに過ぎない。

 そんな精霊の一人である妻。

 彼女が自分では考えもつかないほどこの世界に存在し続けている彼女が、見てくれた。

 人間の一人、ではなく、“ついな”として。

 戯れだとしても、妻にと乞うたその手を取ってくれたのだ。

 これ以上の喜びが、あるだろうか?

 愛しい妻のことを思い返し、ついなは幸せたっぷりの笑顔を浮かべていた。

「ああ。けれど……きっと可愛いでしょうね」

 妻と自身の子ができたなら、きっと可愛い。

 それだけは言える。間違いない。

 そんな未来の親ばかはまだ見ぬわが子を思い、笑み崩れる。

 けれど、その笑みにふと影が差す。

 ―――― 邪魔なものはそれまでに始末しておきたいのが本当のところなのですが。

 その瞳に宿る光は同一人物のものとは思えないほど暗く冷ややかだった。

 人は異質を嫌い、異形を排除しようとする。

 ついな自身、陰陽師としてその異形を狩るわけだが、そもそも彼らも災難だと思う事は少なくない。

 人に害為す異形を、といえば聞こえは悪くないが、何故異形が人を害すかと、考えないのか。

 元々は彼らの住み着いていた土地を開墾して田畑や都は作られた。

 人は森や山に獲物を求め踏み入る。彼らの住処を荒らし、彼らを追いたて、自分たちの領域を広げる。

 そこで異形を守る側に回らないのがついなという男なのだが。

 災難だなと同情はしても、自分の生活と言うものの為に狩ることに躊躇いなど覚えない。

 それが仕事なのだから。

 彼らが人を害するならそれを退け調伏する。

 そして同時に何もしないのなら、目に見えても祓ったりしない。

 異形を調伏することに躊躇いなどないが、同時に自身の力量及ばず逆に屠られるのならそれも仕方ないと思っている。

 ついなは、異形と人間ならば異形の方が好感が持てた。

 彼らはほとんどの場合、とても素直で、そして自身を偽らないからだ。

 そう。人間よりも、彼らの方が好きだ。

「彼らは力さえあれば逆らいませんし、ねじ伏せて納得させれば良いのですから、とても素直で物分りがいい。少なくとも頭が固くて物分りが壊滅的な人間よりは余程」

 自身の生家を思い浮かべ、ついなは企てる。

 どうやって絶やそうか。彼女のことを悪し様に言ったあのものたちを。

 自身の親族にもかかわらず、ついなの思考に迷いはない。

 それは異形を調伏する時と同じく。

 彼らは彼女を妻にすると言った時、認めなかった。

 それくらいは最初から予期していたのでどうということはない。

 元から家になど未練は無い。すっぱり縁を切るつもりでいたのだから。

 けれど、彼女を悪し様に、彼女のことを何も知らないくせに言いたい放題。

 挙句の果ては穢れだと言った。

 どちらが穢れだと言い捨てて家を出たのだが、あの様子では今後も邪魔をしてくる。

 それこそ子など出来たら何をしてくるか。

 妻子に手を出してくるなら、血の繋がりなどに容赦はしない。

 あの汚らわしい親族の視線に触れさせたくなくて、彼女を直接連れて行かなかったことは英断だと今でも思っているほどだ。

 しまったあの場で絶やしてくれば良かった。

 そんな危険極まりない思考の男に捕まってしまった東雲は微妙に悪寒を感じつつ、その頃はまだ朝餉の後片付けと悪戦苦闘していたので、こんなことを知る由もない。

 狂っていると、他人に言わせればそうなるだろう。

 それでも構わない。

「そうしなければ手に入らないのですから」

 妻にと乞わなければ、彼女を妻にはできない。

 ならば乞おう。

 親族が何を言っても関係ない。

 大切なのは彼女の気持ちと自分のこの想いだけ。

 実際のところ、自らの血縁すら障害となるなら絶やすことに躊躇いの無い感覚というのは、重ねて言うが確実に人間として大事な何かが足りない。

 “普通”の人間から見れば外せない大事件だとしても、ついなにとっては歯牙にも掛ける必要の無い瑣末な事に他ならない。

 そう言った意味では、やはりこの男は狂っているとしか言えないのかもしれなかった。




「それでぇ……これは一体何事かなぁん?」

 風の長は自分の住処である小屋の床に広げられた衣の数々に、呆れたように散らかした張本人を見遣った。

「選ぶの手伝って。ビオル」

「私ってぇ、一応仮だけどぉ、シルフィさん達の長だよねぇ?」

 全っ然、長として敬われてる気がしない。

「そうよ。当たり前じゃない」

「それでぇ、何でこうなるのかなぁん?」

「何故って」

 キョトンとした面持ちでそれこそ不思議そうに東雲は布の塊こと、ビオルを見て言う。

「あなたが私達の長だからに決まっているじゃない」

 どこでそれがどうすればイコールになるのか。

 風の精霊を束ねる長かっこ代理かっことじになってからはや数百年。

 風化するんじゃないかと思うほど平穏無事な日々を送ってきたのだが、ここになっていくらか波風がある。

 退屈は毒のようなものだと、いつか誰かが言っていた。

 それはそうだと思う。思うのだが。

「…………ねぇ、シルフィさんやぁ、答えはわかったぁ?」

「全然。ねぇ、こちらとそれ、どちらが良いと思うかしら?」

 こうも堂々かつはっきり言われると次が続かない。

 大人しく問われた衣を見比べ、ビオルは少し考えた後に東雲を見た。

「なぁんで私に聞くのぉ?」

「あなた一応性別あるじゃない」

 精霊は自然の気が凝ったものだ。そんな彼らに本来性別は無い。

 だが、ビオルはそんな彼らの長であるにも関わらず、器をもっている。

 その器とは肉体だ。そしてその肉体は少々規格外があっても人間とほぼ同じと言っていい。

 当然、人間の身体が一部例外を除き大体性別がはっきりあるのと同じでビオルも男性という性別を保持していた。

「性別だあるんだから、男としてどんな衣が気になるか言えるでしょ」

「いやいやいや、何かぁ、紙一重な事いわないでぇ?!」

「何が?」

「……はぁ。とりあえずぅ、性別はあまり当てにならないよぉ?服装なんて好み次第だものぉん」

「そうなの?」

「シルフィさんや、まず、まず大前提なんだけどぉ」

「何?」

「それぇ、誰に見せたいのぉ?」

 その言葉に、問われた東雲は眼を瞬いた。

 衣を手にしたまま、微動だにしない。

「誰って……。え?」

 ビオルは堪えた。溜息を盛大につきそうになるのと引き換えに、一番基本的なことを諭すように口にした。

「あのねぇん?”男性”の意見が欲しいってことはぁ、シルフィさん自身が着てみたいとかじゃぁなくぅ、”誰か”に”見せたい”って事でしょう?それならぁ、その”見せたい誰か”を基準にしないとぉ、そもそも意味がないよぉん」

「見せたい、相手……?」

「そうだよぉ」

 衣を手にしたまま呆然としたように同じ言葉を繰り返す東雲に、ビオルは今度こそ溜息をついた。

「シルフィさんや。自覚した方がいいよぉ?シルフィさんはぁ」

「待って。待ってビオル。言わないで!」

 悲鳴じみた制止よりも、一歩ビオルが先だった。

「恋をしたんだよぉん」

 恋。あれに?

 あの、ちょっと頭の中大丈夫かどうかもわからない、あれに?

 信じられなかった。何で?どうして?何でよりによってあれに?

「……ねぇん、何か新婚の奥さんとは思えない事、思ってないかいぃ?」

 ビオルの掛けてくる言葉も今の東雲には遠かった。

 頭の中は絶賛混乱中だ。

 冷静に考えてみようとして自問自答する。

 あれのどこに恋すべき点があると言うのか。むしろ恋をしたと言う事はどこかに惚れたという事のはずだが、それならばどこに?

 精霊である自分から見ても、あれはどこかおかしい。絶対に人として大切な何かが足りない。

 無い。惚れる要素が欠片も。

「シルフィさんやぁ……とぉっても疑問なんだけどぉ、前にも聞いたけどぉ、何でそんな感じなのにぃ、妻問いに返事したのぉ?」

「馬鹿だからよ」

「…………」

 すぱっと即答した東雲に、ビオルは押し黙った。

 何でそれで結婚を了承する理由になるのかと、言葉にしなくても空気がありありと問い掛けている。

「身の程知らずだし」

 いやいや、普通それでふる事はあっても承知はしないよねぇ!?そう叫びたいのを、ビオルは懸命に堪えた。

「人間の性格の善し悪しなんて簡単にはわからないものだけど、あれはそれ以前にねじ曲がってるし」

 だから何でそれで。

 唯一見える口許を呆れたように布の塊かたまり風情ふぜいは歪め、深々と溜め息をついた。

「あの性悪、よりにもよって私の通り道に結界を張って捕えたりしたのよ」

「……ねぇ、シルフィさんやぁ……本当に何でそれで承諾なんてしたのぉ。馬鹿だって言うならぁ、普通逆でしょうぅ?」

「あれは断ってもそれこそ死ぬまで付きまとってくる予感もしたんだもの」

 いやいや以下略。

 もう何を言えば良いのかわからなくなった。今の若い子(精霊を若いと言うのも人間と同じにみるのもどうかとは思うが)ってこうなの?と密かに心の中でビオルは手に負えない事態を真剣に見詰めなおす。

「…………あのねぇ……。どう考えてもぉ、今の話だと承諾する要素が無いよぉ?」

「だから不可解だし、恋なんて有り得ないって言っているのよ。話を聞いていなかったの?」

「そういう次元じゃあないよねぇ!?」

 忍耐の限界が来たのか、ここ数百、下手したら数千年来出した事のない悲鳴じみた声を布の塊ことビオルは上げた。それは同時に”私の意見の方が一般的だよね!?”と居もしない誰かにとりあえず認めてもらいたい悲痛さもあったような無かったような。

 気のせいか頭痛がするように思えてビオルは目深に被ったフードの中で頭を抱えた。が、ふと気づいて最早最後の気力を振り絞るかのように東雲に問い掛ける。

「……通る道に、罠?」

 物凄くスルーするには変な言葉を確かに聞いた。

「ええ。私が良く通っていた道に人間以外が踏み込むと発動する術をかけて閉じ込めたのよ」






 いつものようにお気に入りの大樹の古木、その枝に腰を下ろして春は夢の如しと呼ばれる都とその景色を眺めようとしていた。

 その視界が急に空から地に落ちたのと、有り得ない重さというものが自分の身に降りかかってきたのはどちらが先だったか今でもわからない。

 兎にも角にも気づけば空を駆けていた素足は森の土を踏んでいたし、自分の両手はとっさに突き出し地面に接していた。

「何。これ」

「嗚呼、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」

 自分の疑問と同時に掛けられた見知らぬ声に東雲は顔を上げる。そこにはまだ年若い人間の男がいた。

「これは、あなたがやったのかしら?」

 我ながら、不機嫌を隠そうともしない声だった筈なのに、何故かその男、否、少年は嬉しそうに頬を上気させて恥ずかしそうに頷きつつこう言ったのだ。

「はい。ですから、私でしたらその術を解いて差し上げることが出来ます。だから、術を解く代わりに、私とお友達になって下さいませんか?」

「寝言は寝て言いなさい。大体、お願いしているような口ぶりだけど、どう聞いても脅迫じゃない」

 むしろこの少年、殺してもいいかしら?と一瞬だけ思った。何で自分を罠にかけて捕えた相手にそんな対価を払って自由にしてもらわければならないのか。

 そして、確かに不意をつかれたとはいえ自分はこの地域を束ねる風の精霊。この程度の人間が掛けた術を自力で破れないとでも思っているのか。そこが一番気に触る。

 随分と私も舐められたものね。そう思い東雲の緑の瞳が剣呑に光った。

「私も馬鹿にされたものね。このくらいの術、解けないと思っているのかしら?」

「いいえ。簡単に解けると思います。……はぁ、やっぱり駄目ですか。混乱に乗じればいけるかなって思ったんですが」

 失敗しちゃいました。とか、ぺろっと小さく舌を出して見せたこの目の前の少年に、何だか無言で風の塊をぶつけたくなったけれど、東雲はそこは曲りなりにも人間より遥かな時間を経ている存在。

 ギリギリの所で思いとどまって無言で宣言どおりに片手で術を破る。パン!と何かが弾ける様な音をさせて術が解かれるのがわかった。

「私にこんな事をして、勿論覚悟は出来ているわね?人の子」

 たとえ偶然であろうが、すぐに謝罪して術を解けばそれで済ませたが、こんな風に虚仮にされて黙っていては風の精霊として沽券に関わる。

「ええ。十分覚悟していますよ」

「そう」

 なるほど。術者としてその程度の心構えはあるのかと、東雲は少しだけ少年の評価を修正した。ならば今回の事はちょっといきがった人間の子供のお仕置き程度で済ませてやろうかと、そう思った矢先。

「これからずっと、お友達になって下さるまで諦めずに、あらゆるどんな手を使ってでも必ず追いかけます」

「…………は?」

 何か、変な発言が聞こえた気がする。気のせいだろうか?

 少年はとても嬉しそうに、それはそれは楽しそうに、笑顔で言った。

「好きです。まずはお友達から。そしてゆくゆくは私の妻になって下さい」

 何言ってるのこいつ。

 まず浮かんだのはそれ。そして次に、関わらない方が良いかも、だった。

 何で自分を罠に掛けた相手と友人に、あまつさえ妻にとか無い。なのに目の前の少年はきらきらした瞳を見るからに本気で言っているらしいのだ。

 本能的に、この子供は危険だと思った。何かヤバい。

 見ていると悪寒がする。

 東雲は静かに、まるで熊にするようにゆっくり背を見せないよう後退りした。

 そのまま地を蹴り軽く浮き上がる。一刻も早く離れようと宙そらで身を翻した東雲の耳に、少年の楽しそうな、それでいてどこか狂おしいような声が聞こえた。

「覚悟して下さいね。絶対諦めませんし逃がしませんから」




「…………」

 ビオルは今度こそ黙りこんだ。

 どちらにも思うところはある。大いにある。ありすぎる。

 現実逃避するように茶を啜ってみた。

「……それで、それが何で今の事態になるのぉ?」

 ただのストーカー誕生秘話にしか聞こえなかったが。

「それからというものどうやったのか不明だけど、私の行く先々に待ち伏せの如く現れて」

「………………」

「いい加減頭に来て追い払ってやろうとしても、逆に喜んでるし」

 何その根性のあるストーカー列伝。

 うっかり喉元まで上がってきたその言葉を飲み込み飲み下し、ビオルはお替りのお茶を湯飲みに注ぐ。

 お茶の温かさが身に染みた。







 何故、自分では何もしない輩の為に力を尽くさなければならない?

 ついなはようやく元服した事を喜ぶ親族たちの宴を見ながら、そこに祝いの品や言葉を持って来る客人達を見ながら、心の中でそう呟いていた。

 何もしないだけならまだしも、自分たちが困れば助けてくれと言うくせに普段は心の中で見下してくる輩などさらに助ける価値が見出せない。

 その見下す視線の中に、嫉妬がいつも混じっているのも解せなかった。

 自分たちに出来ない事をする力。それが羨ましいのだろうと気づいたのは数年前だ。

 けれど、だからこそわからない。

「異質なものを嫌うくせに、羨むなんて」

 結局、異質を嫌うというのの根っこはそれなのかもしれない。

 人は自分の手が届かないものに焦がれ、そしてそれが行き過ぎ煮詰まって、嫌悪や憎しみに変わるのだろう。行き過ぎる前に諦めるか別の道を取ればまた違った所に行き着くのだろうけれど。

「くだらない」

 ついなは物音も立てずにただ呟きだけを残して宴を抜け出した。

 主役のはずの長男がいなくなっても、誰一人として気に留めない。

 元々ついなは十二才にしては冷めていて、言動もしっかりしてはいたが子供らしさとは無縁の所謂いわゆる可愛くない子供だった。ともすれば大人よりも冷静冷徹とも言える判断をする事もしばしばで、そんな様子だったから姿が見えなくなっても心配する必要などいつの間にか大人達の中に存在しなくなっていて。大騒ぎして探したら本人に「馬鹿ですか?」という目で見られればさもありなん。

 それが子供に対する親の当然の反応だとしても、吉野の家ではついなにだけは適応されるものではなくなっていた。

 祝いに来ている客人達とて、目当ては元服した主役ではない。その家の現当主に、祝いを言うのが肝心なのであって、いくら長男でいずれは代替わりすると言ってもまだ元服したてのひよっこなどに用はないのだ。

 吉野の郷には春に花を咲かせる草木が沢山自生する山がある。

 屋敷を抜け出したついなはその足で山へと入った。天狗が出るとか妖樹が蠢くとかそういう話も絶えない山であるが、ついなには慣れ親しんだ庭だ。

 その山にある神社には、数少ない友人もいる。

瑞穂みずほ

「うるさい。今日は忙しい」

 そう言って、数少ない友人は本当に忙しそうに動き回っていて、面白くは無かったがそれで邪魔するほど子供でもなかったついなは、つまらなそうな顔をしたもののそれならと諦めて踵を返した。

 そこかしこから視線を感じる。馴染みの妖たちのものもあれば、他所から流れてきたらしいものの視線も感じた。

「ねえ、誰か遊ぶ?」

 この場合の“遊ぶ”は勿論、「喧嘩売ってみる?」なのだが。

 途端に周囲から一斉に妖の気配が散っていく。その事についなは小さく舌打ちする。

「意気地が無い」

 自分の命が掛かっている彼らにしてみれば相手と自分の力量を比べて判断するのは重要だ。意気地とかそういう問題じゃない。

「別に滅するまでやらないのに」

 そうじゃなくても、喜んで怪我を負うものなんてそうそういるものではないだろうに。

 溜息をついてついなは適当な大岩を見つけると腰を降ろして蒼く透き通った空を見上げた。

「都でもここでも、どちらでも同じだろうに」

 むしろ都の方が窮屈さは増しそうだ。それに唯でさえ友人が居ないのにたった一人の友人とも離れなければならなくなる。

「面倒だし、今更学ぶ事なんてないし」

 家は陰陽の名家と呼ばれるものだし、その蔵書は既に一部はそらんじることの出来るほど読み込んであるのだ。今更、自分よりも進捗の遅い他者に合わせて学生として陰陽寮に入る事になんの意味があるのだろうか。

「どうせ、適当な時期に適当な女性と娶わせられるんだろうし」

 公に勤める場所での名家とはいえ、所詮は一部署でのトップ。世間一般で言う『貴族』などでは間違いなくない家。

 だからこそ、気を抜けばすぐに没落してしまうのが自分の家だけではなく『貴族』未満の家全部の現状だ。

 没落を防ぐには、道は二つ。

 一つは、力で。能力でも財力でも権力でも何でも良いから力でもってのし上がり困難とか障害とか自分の邪魔のなるものをねじ伏せ、安寧を掴む方法。

 もう一つは、自分のよりも家の格が上の妻を娶る事。

 この国では妻の実家に婿が養ってもらうのが一般的だ。

 ただし、娶った後は自分の力で家を養っていかなくてはならない。最初だけは妻の実家に世話をしてもらえるが、そこから先は夫の甲斐性というわけである。だから、一夫多妻が認められているとはいえ、幾人も妻を娶る事が出来るのは娶った後に今度は自分が養っていける者のみ。それこそ貴族だけとなる。

 一般的には貴族とはいかずとも、やはり貴族に近いような家柄の妻を娶り、地道に家の格を上げていくのが安定した生活の第一歩なのだ。

「馬鹿か」

 しかしついなにはそれも気に入らない。“そんな事”の為にどうして顔も何も知らない相手と”恋愛ごっこ”などしなければならないのか。

「時間の無駄だな」

 女性はむやみやたらに人前に顔をさらすものではないとか、歌を送りあって駆け引きだの、はてはどう言い方を変えても”覗き”だろうに”垣間見する”とか。やってられるか。

 見合いで決められた相手ならば少しは手順も半強制だから簡略化されるだろうが、何が悲しくて興味の欠片もない見合い相手と文通して気が合っても合わなくても結局は娶わせられなければいけないのだ。

 書物を紐解くほうが余程、有意義な時間を過ごせるというもの。

「好き好んで私と娶わせられるものも居ないだろうに」

 自分の家は、常人には見えぬものを祓う職にある。人間は本能的に自分たちと異質なものが居れば排除しようとするのだから異能も当然歓迎などされない。

 現に自分の母親はついなや他の異能を扱う者を、時折見ては瞳の奥に気味悪く思う色をひた隠そうとしている。

 実の親子でさえ、理解できないものは恐ろしいのだ。

 どんな姫と娶わせられても、相手にとっては自分は異質で、自分にとってみたらそんな視線とそれから一生付き合っていかなければならない。冗談も大概にして欲しいものである。

「せめて次男かそれ以降に生まれたかった」

 長男でさえなければ別に無理に娶わせられなくて済むのだが、非常に不運な事についなは長男だった。

 さらに、恐らく極めつけに一番の不幸は、確かにその才がありついな自身は才を磨くこと自体は好きだった事だろう。玉も磨かねばただの石。なのだが、玉でさらにそれを磨くのだからただの石とは言えない。

 これから先を思って溜息をつく十二才。可愛げも何もあったもんじゃない。

 憂鬱になりながらも、ついなはある意味で飼い殺しのようなその状況から抜け出そうとは思っていなかった。何を言えどここまで育てられたのは事実であるし、それに抜け出す価値のあるものが見出せないのが本音でもある。

 自分のやりたいことは、そのままでも出来るからだ。役目さえ果たせばあとは自由。

 抜け出そうとする労力とその対価を考えて、わざわざそうするものがない。

 それがついなの出した答えだった。

 ふと、視線を一本の桜の木へと向ける。

「風のカミか」

 淡色の中に若葉のような緑が見えた。空を抱き締めるように伸ばされた白く細い腕。

 声の届かない位置にいるのに、見えたその顔は今にも笑い声が聞こえそうな、楽しそうな笑顔だった。その姿は女性で、物語の中の天女のような衣を身に纏っていて。

 浅葱色の長い髪と桜の花弁が歌う様な風に踊って、その女性は空へと舞い上がる。

 刹那、本当に偶然。女性と目が合った。

 その瞳の色まではわからない。けれど、ついなは息を止めた。

 楽しそうに、本当に楽しそうに、彼女は笑って。

 それは生命の輝きそのものに見えた。吹いた風は少しだけ強く、けれど春の優しさをそのまま伝えるようなもので。




 ついなの数少ない、というか現時点では唯一の“人間の友人”である瑞穂は忙しさにも一段落して、数刻前に追い払った友人を思い出し眉をしかめていた。

「本当に忙しかった。忙しかったけど……ちょっと言い方、きつかったかな?」

 あの友人に限ってあれで傷つくなんて有り得ないけれど、少々余裕が無くて自分の言い方も無愛想過ぎたのではないか。

 ついなの友人とはいえ、常識人である瑞穂はそう考えて溜息をつく。

「また来たら、桜餅と茶でも出してやるか」

 そういえば、あれはようやく元服の儀を済ませたと聞いた様な気がする。曲がりなりにもその挨拶に来てくれたのかもしれないと思い返し、少し悪かったなと思った。

「―――― 瑞穂っ!!」

「ついな。さっきは悪かっ」

「私は彼女を妻にします!!」

「…………は?」

 誰が、誰を?

 瑞穂はまた突拍子も無い事を言い出した友人へと胡乱げな視線を投げる。

 欄干をひらりと飛び越え、沓を脱ぎ捨てて廂に立った友人は、元服して被ったはずの烏帽子もどこに落としてきたのか。ただいつも冷めて子供らしくも無いその顔を、珍しくも輝かせ、まるで恋する”乙女”のように頬を染めてやけに力強く宣言した。

「彼女が私の妻になる女ひとです」



     ◆◆◆ ◇◆◇ ◆◆◆



「ついに頭が沸いたのかとあの時は本気で思ったな」

 当時を思い返して瑞穂は呆れたような目を向かいに座るついなへと向けた。

 聞けば、相手はそれなりに高位の風を司るカミだと言うし、よりにもよってこの男が一目ぼれとか何の悪い冗談かと思ったのは紛れも無い事実だ。

 理由を聞けば「だって他の何よりも欲しいと思ったんです」だったし。

 それから四年ほどで都の陰陽寮で力をつけつつ見合いはのらりくらりと避け続け、遂に目当ての女性を……否、女性と、”再会”を果たして追い掛け回し、つい先日とうとういつかの宣言通り彼女に妻問いして承諾を貰ったという。

「東雲殿は本当に災難だな……」

「何を言っているんです。瑞穂。私は彼女を誰よりも幸せします」

「……だったら今すぐ、解放して差し上げろ。それが一番幸せだ」

「嫌です。それじゃ私が幸せじゃありません。私は、私と東雲どちらも幸せにするんですから」

 それにね、とついなは何故か妙に自信満々で言い切った。

「解放するのが東雲の一番の幸せなんかじゃありません」

「ほう。お前と居るのが一番だとでも?」

「その為に、私は妻にと願ったんですよ」








 結局、何処に恋する要素があるのかわからぬまま、東雲は“家”になった場所へと帰ってきた。

「…………まだ帰ってないわよね?」

 思えば一応妻になってから今日まで、「おかえり」を言った事は無い。

 いつも帰ってくるのは東雲で、ついなが迎える側だったからだ。

 家の周囲に張り巡らされた結界は、許可無き者を阻む。だからこそ一日中、家を空けていられる。

 そっと木戸を押しやり、家の中へと入った。

 誰も居ない家。灯りも灯っていない家。

「人間はよくこんな所に住めるわね」

 これならまだ外のほうがましだ。そう呟くも、ふと足を止めて振り返る。

 今、上がった玄関を見て東雲は森の緑を閉じ込めた瞳、その眉根を寄せた。

 こんな所。誰も居ない場所。気持ちの良いものではない。

 けれど、

「ここに、いつも帰っていたの」

 自分がいつも後に帰る。当然、誰も居ない家についなは一人で帰ってきたのだろう。

 帰って、自分の手で暗く沈んだ闇に灯りを点して。

 ずっと、そうしていたのだろう。

「……………………時折なら、別に、出迎えてあげない事もないのよ」

 誰も居ないのはわかっているけれど、どこか言い訳するように呟き、東雲は奥へと進む。

 風の長に言われて帰ったが、ようやくその意味がわかったような気がした。

『シルフィさんやぁ、まずは“おかえり”って言ってあげるんだよぉ?全部ぅそこからだよん』

 “そんな事”が何故大事なのか。そう聞いた時は思ったけれど、寂しいこの家に帰ってみればストンと腑に落ちる。たとえどう考えてもそれが寂しいと思うような可愛げがあるとは思えない者だとしても、誰も居ない家に帰っているという事には変わらない。



「東雲?」

 まず先に思ったのは、珍しい、だった。

 風の精霊である妻はいつも自由で、いつ帰るともわからない。それを承知で妻にと願ったのだし、ついなには妻にしたからと言って縛り付ける気は欠片もなかった。

 実際、いつもこの家にいるわけではなく、気が向いたら顔を出していくだけだった妻が、今日は帰ると玄関で腕組みしてついなを一段上がった所から見下ろしている。

 何故か不機嫌そうな表情で。

「…………遅いわ」

「すみません。いらしているとわかっていたら、仕事も何もすっぽかして戻ってきましたが」

「ねぇ、それって人間の社会で許されるの?」

「そんなものより君と過ごす時間の方が優先されるのは当たり前じゃないですか」

 絶対間違ってる。そうツッコミを入れる者はおらず、やけにきりっとついなが言い切った所為で東雲は思わずそういうものなのかと思ってしまった。

 後にこれを聞いた風の長はなんとも言えない顔(しかし口許だけしか見えない)で長く重い溜息を吐くことになる。

「あと、……“いらして”とか言うの、やめなさい」

「え?」

 そう言って東雲はきゅっと唇を横に引き結ぶ。そのままくるりとついなに背を向けて歩き出す。

 慌ててついなは沓くつを脱いで後を追おうとした。

「おかえりなさい」

「…………!」

 一片ひとひらの言葉が背を向けた妻ひとから降ってきた。

 舞い降りた一片に、嬉しくて呼吸が止まりそうになったついなの事など振り返らずに東雲は歩く。

「はい!ただいま。東雲」

 振り返らないから、もう蕩けて崩れそうなついなの嬉しさたっぷりの笑顔は見えないし、同時についなも振り向かない東雲が泣きそうなくらい顔を赤くしているのを見ることは叶わない。漆喰の壁には硝子戸なんてものもないから、並ぶか追い越すかしない限りそれは叶わないし、今それを東雲は絶対にさせないだろう。

 ―――― か、可愛いっ……!

 ふるふると震えながら、ついなは前を歩く東雲を思いっきり抱き締めたいという衝動と闘っていた。

 今やった間違いなく逃げられる。そう思う程度の分別はあったらしい。

 ―――― なんですかこの可愛らしさ!ああ!抱き締めたい!

 どんな気まぐれでも構わない。明日はまたいつものように自分が先に帰って待つことになってもいい。ただただ嬉しく愛しい。

 ―――― どうしよう。正直、まずいです。理性がもたない。

 目の前で揺れる浅葱色の長い髪、細く華奢なその身体を抱き締めたい。そんな衝動を無理やり抑え込んでいる気配を感じてではないだろうが、東雲が足を止めて振り返る。

「夕餉、出来ているわ」

「―――― 東雲」

「何?」

「生殺しです」

「は?」

 突然何言っちゃってるのこいつ?口で言わずとも目が口ほどにものを言う。

 東雲が割りと本気で引き気味になっている目の前で、ついなは発作でも抑えるように片手を胸に当て、さらにその手をもう一方の手で上から押さえているのだ。

「今すぐ逃げないって約束してくれないと、私はどうにかなります」

「…………」

「…………」

「…………約束したら?」

「とりあえず、この発作は治まると思います」

 え。何、病気なの?そう東雲が胡乱げな目をついなに向ける。が、どうにかなられても困るし、逃げなければいいのだと思えばとりあえず一言で済む事を避けても仕方ない。

「逃げないわ」

「抱き締めていいですか?」

「却下」

「……ですよね…………」

 わかってたんです。そう呟きつつ、ついなは東雲の手をじっと見る。

「…………手、握っちゃ駄目ですか?」

「…………」

 すでに東雲の表情が完全に呆れ顔の体である事はついなとて重々承知だった。それでも諦めきれないらしい。

 睨み合いにはならない。何故なら片方が哀願である。

 拒絶するのも何だか馬鹿らしいし、この程度の事で目くじら立てるのも同様だ。

 東雲は何も言わず、ついなの目の前に片手の甲を差し伸べた。

 途端、哀願だった潤んだ瞳が喜色に変わる。現金なものだと思うと同時に、何故かやっぱり手を引っ込めたくなった。

 しかし、自分から差し出した手前、今更それは出来ない。そうしたい理由もわからない。

 ただ、その喜ぶ顔を見たら、何故か今すぐ回れ右をしてついなに顔を見られないようにしたくなったのだ。

 それが出来ないから、代わりに東雲は殊更無表情かつ半眼でついなを見た。

 自分から触れてもいいかと聞いたくせに、ついなは差し出された手を見て迷っているようだった。

 恐る恐る、まるで触ったらその瞬間に溶けて消えるとでも思っているかのように、慎重すぎるくらいゆっくりと両手を差し出された手へ伸ばす。

 白く細い指先に、触れようと……。

「ついなー!遊びに来たわよー……って、あら?」

 硝子戸はなく、内壁は漆喰でも庭に面した方は天気が悪かったり冬でもない限り蔀戸や御簾である文化。家の周りは築地塀ついじべいに囲まれているものの、それを越えれば覗き放題である。

 そんな様式が都に住んでいると一般的であり(農民などはまた違っているが)、この辺りは人気もない上についなが張った結界で悪意のあるものは入れないからと思っていたのが油断と言えばそう言える。

 が、賊でもないのに築地塀を乗り越えて先触れも無く客人が来るなどと予想できたかと言えば中々難しい。

 東雲の差し出した手に触れようとする寸前で、東雲もついなも固まって、突然の来訪者の方を凝視している。

 物凄く気まずい空気だった。

「もしかして……お邪魔しちゃったかしら?」

花宵かしょう…………」

「は、はぁい。ついな……その、ごめんなさいね?うふ」

「降りてきなさい」

「えーと、物凄く怒ってる?」

「降りて来い」

 ついなの声は、同じ年頃の男子と比べてみれば高い方だ。けれど、この時ばかりはその声が唸るように低く響いた。

 そこには有無を言わさない響きと、極寒の冷たさがたっぷりと籠められている。

 聞くだけで呪われそうだった、とは後にこれを言われた花宵かしょうの言葉。

 嫌だな逃げたいなと思うも、それをやると後が怖い。

 花宵は言われた通りにひらりと庭に降り立ち、荒れ放題に近い小さな庭を横切り二人の下へと近づいていく。何かされたら無駄かもしれないがとりあえず逃げられるように気を配りつつ。

「…………」

「ちょっと、怖いわよ。悪かったって言ってるじゃない」

「……ついな、誰かしら?」

 東雲は近寄ってきた人物を見て、とりあえずついなへ差し伸べていた手は引っ込めてから、改めてついなに問い掛けた。

 唇に刷いた赤い紅、艶やかな黒髪を頭の後ろで結い上げて飾り簪で飾り、身に纏っているのは西域さいいきの大国”澪綾れいりょう”の女性のもののように見える。こちらの国の衣装よりも身体の線が出てひらひらしているが動きやすさで言うと恐らく格段に上だろう。

 かく言う東雲も同じような装束だ。違うのは、東雲の方がより露出が少なくこちら寄りだという点だろうか。

「…………恋人か何かなのかしら?」

「東雲!?こんなのと私がそう見えるんですか!?いえ、それ以前に君以外に興味なんかありません!!」

「いや、私も流石に勘弁よ。これでも可愛い婚約者がいるし」

「第一!これは男です!」

「……え。男性……?」

「そうよー。正真正銘、お・と・こ」

「君がそんな風に言うからそう見えないんだ!普通に喋りなさい、普通に」

「…………男にまで手を出しているの?」

「違っ――――う!!何でそうなるんですか!?あと、何度も言いますが君以外に興味なんて無いんですから手を出した相手なんて居ません!!」

 言い切ったついなは肩で息をしながらじろりと花宵を睨みつける。その眼光が人を殺せそうな程だ。

「…………とりあえず、上がってもらったらどうなの」

「……そうですね…………ええ、少し、話もありますから」

 何の話で、それは言葉で済む話なのか。それが問題だと、花宵は思った。

 三人は居間へと移り、東雲はついなと花宵の前に用意していた膳を出す。

「ねぇ、これは貴女の分だったんじゃない?」

「良いのよ。形だけだもの。私は人間の食事は無ければ駄目なわけじゃないし」

「あの、出来れば貴女が食べてくれない?私がついなに殺されそう」

 突き刺さらんばかりの視線を感じて花宵がそう言うと、東雲は少し考えてから首を横に振る。

「客人に出さずに私が食べる方が人間の文化として有り得ないでしょう。確か、この場合は断る方が非礼になると思うのだけれど。あとついな、睨むの止めなさい。食べて貰わないと私の恥じになるのがわからないの?」

「慎んで頂きます」

「残したら吊るしますから」

 残すほど不味い出来ではないはず、と東雲は思いつつも、人の味覚は千差万別である事を思い出して少し心配になった。

 けれど、花宵は汁物に口をつけ、ほっとしたような笑みを浮かべて全て空にする。

「美味しい。やっぱり汁物は温かいうちが一番」

「温かいからじゃありません。東雲が作ったからです。まったく、何で君に東雲の手料理を……私だって食べるまでに……」

「悪かったわよ」

 ぶちぶちと文句を言うついなと、うるさそうにしつつも応じている花宵を眺め、東雲は首を傾げた。

 どういった知り合いなのか見当がつかない。ふと、そこで別のことにも思い至った。

 何も知らない。

 いつもついなの方からやって来たから、どんなものか知っているような気がしていたけれど、実際には人間の生活もしきたりも、好みも、こんな人間同士の繋がりも、何も知らないのだと。

 知っていることなんて、きっと一握りにも満たないのだと感じて、東雲の胸に知らないものが渦巻いた。

「東雲?」

「あ。……何?」

 不意についなから呼ばれて、東雲は凝った何かから意識を引き戻す。

「先ほどのような誤解を早急に解消したいので紹介します」

 そう言って、ついなは視線で花宵に自己紹介するように促した。

「先ほどはごめんなさいね。私は花宵。ついなの友人。ついでに言えば私が女だったとしてもこんな怖い物騒なのはお断りだから安心して。むしろ貴女、災難だったわね」

「花宵……もう黙っていいですよ」

「そういう所が物騒だって言うのよ。あと今日、来たわけなんだけど……はい、これ」

 小さな包みを花宵は東雲に手渡す。

 不思議そうな顔で包みを見詰める東雲に、花宵はそれを開けるようにと促した。

「気に入ってくれると良いのだけど」

 言われるままに開いた包みの中には、蝶と扇を象った飾りの簪があった。

「君は人の妻に飾りを贈るんですか」

「仕方ないでしょ、それしか思い付かなかったんだから。あんたへの贈り物は録ろくで取らせられるけど、個人的に贈れるものは少ないのよ」

「私にくれるの?」

 東雲の言葉に、花宵は笑顔で頷いた。

「勿論。その為に用意したのよ。改めて言うわね」

 花宵は姿勢を正し、流れるような優美な所作で東雲とついなに礼をする。

「ご結婚おめでとう。まぁ、貴女には良いか悪いかわからないけど」

「一言余計です」







 ある時から付きまとうようになった変な人間。

 この国で陰陽寮とか呼ばれている術者の組織に所属する者。

 それが、私の知る“ついな“という人間の全て。

 あと付け加えるなら、色々ねじ曲がってそうな性格してるって事だけ。

 だから、目の前でこんな風に他人に対して親しげにしているのは、初めて見た。

「気に入ってくれた?」

「ええ。ありがとう」

 東雲が礼を言うと、花宵は「良かったー」と笑顔で頷いた。

「十中八九これから色々大変で気苦労が絶えないと思うけど、このお馬鹿さん見捨てないでやってね」

「花宵……黙らせますが良いですよね」

 ひんやりとした笑みで刀印とういんを切ろうとしているついなから、花宵は然り気無く距離を取りつつ「いや」と返す。

「それにしても……話しには聞いていたけどまさか本当に承諾するなんて……一体どんな弱味を握られて脅されたの?」

「人聞きの悪い事を!東雲を脅したりなんか」

「承諾しなくても変わらず追い掛け回されそうだったし、それだとしてもしなくても一緒でしょ?特に何か変わるわけでもないと思ったから」

 東雲の返答に凍り付いたのは花宵だけでなく、ついなも一緒だった。

 当たり前のように答えた東雲を前に、花宵は気の毒そうな顔でついなの肩を叩く。

「頑張りなさい」

 そんな男二人を不思議そうに東雲は眺め、後で風長ビオルにどうしてそんな反応をされたのか聞いてみようと思った。

「さて、帰るわ。お邪魔しました」

 花宵がそう言って立ち上がり、東雲とついなも見送りにと外まで出る。

「また改めてお会い出来ると嬉しいわ。ついな、近いうちに禄ろく上乗せしとくから」

「それはどうも」

「じゃあね」

 その男と言うには笠を被っても艶っぽい後姿が闇へ路地の先へ消えるまで見送った後に残された東雲とついなの間に降りたのはなんとも言えない微妙な沈黙と雰囲気だった。

 ついなはちらりと上目遣いに横に立つ妻を見る。

 花宵の消えた先を見つめて何かを思案するような横顔に、うっかり「考え込む横顔も可愛いなぁ」とか思ってしまったのがバレたわけではないだろうが、不意に顔を上げた東雲はついなを見る事無くその場で地を蹴ってふわりと浮き上がった。

「し、東雲?」

「ちょっと心配だから見届けてくるわ」

 空に浮きながら、東雲はついなを見下ろす。

「…………はい」

 ついなはどこかしょんぼりと力なく、けれどその言葉に頷いた。

 しかし、その様子は捨てられた子犬のようだ。犬の耳や尻尾があればへにょんと力なく垂れていただろう。

「…………また明日、朝餉の用意をしておくから、少しゆっくり起きても大丈夫よ」

「え?」

 聞こえた言葉に慌てて顔を上げるも既すでにその時には東雲は夜空高く舞い上がっていた。

 ついなはそれを見えなくなるまで見送ってから、深々と溜息をつく。

「……手」

 未練がましいその呟きは誰にも聞こえずただ消えた。




「あら?ついなの奥方どうしたの?」

 花宵は笠に垂れ下がっていたむしの垂れ衣を片手で少し押し上げて隣に音もなく降り立った東雲へと声を掛ける。

「何かあっては事だから見届けようと思って」

「ふふ。大丈夫。こんな格好してるけど、私そんなに弱くないのよ?」

「それでも、一応気を遣うわ。あなた、ついなの友人なのでしょう?ついでに、この国も大騒ぎになるじゃない」

 東雲の言葉に花宵はぺろっと小さく舌を出した。

「あらら。バレちゃってた?」

「夜のおましに居るのは、式?」

「そ。ついなに作ってもらったの。あれのおかげでちゃんと時間までに帰ればわりと夜は自由なの!大助かり」

「…………」

 東雲は目の前で「うふっ」とそこらの女性よりも艶っぽくしなを作って笑む、”この国の皇子”に緑の瞳を向けて考えた。

 大丈夫かこの国。

「ふふ。確かに可愛いかもしれないね。東雲殿。ついなの話してた通り」

「…………」

「それが聞きたくて追って来たんじゃない?」

 無言は肯定。そう取った花宵は再び歩きながらくすくすと笑う。

「時間までに戻らなきゃいけないから、歩きながらでごめんなさい」

「いいえ。気にしないで」

「それで、聞きたい事はあなたをついながどう言っていたかで良いの?」

 花宵の言葉に東雲は逡巡しゅんじゅんし、小さく首を横に振る。

「それよりも、……ついなの事を聞きたいわ」

「ついなの?」

「私は、何も知らないの」

 花宵は何も言わずに先を促すような沈黙を守った。

「ある日いきなり現れて、つきまとって。先ほど言ったくらいの事しか、知らないの」

 妻になってと、出会ってからそう言い出すまで二年。精霊の自分にとっては数秒もしくはそれにも満たない刹那。けれど、人の二年は数秒や刹那ではない。

 それだけの時間があったのに、あの時、その手を取るまで。

「私は、知らなかった。あなたのような友人が居たことも。きっとまだまだ知らないことだらけだわ」

 何故、こんな気持ちになるの。

 たかが人間一人の事なのに。

 知らない。それが何だか胸に痞つかえて、わだかまる。

「知りたいの」

 東雲の言葉を聞いて、花宵は立ち止まり少し考えるように視線を泳がせた。

「私が話せるのは、私の知っている事だけだけど?」

「いいわ」

「私が話したくなかったり、ついなの名誉の為に話さない部分があっても?」

「構わないわ」

「私が……嘘を吹き込むとは思わない?」

「そんな必要、あるの?」

 きょとんと東雲が不思議そうに花宵を見る。

 その瞳があまりに無垢で、花宵は肩を竦すくめた。

「はぁー……。不思議。いえ、だからなのかしら?」

「何が?」

「こっちの話。私個人の事だから内緒」

 花宵はそう言って口の端に少しだけ苦い笑みを浮かべて微笑んだ。

「いいわ。ちなみに、嘘なんかつかない。貴女の言う通りそんな必要なんて無いもの。あと、言いたくないような事も私とついなのあいだには無いし、貴女に……まぁ、そんな風に思われている時点で名誉も何も無いわよね」

 付きまといとか言われている時点で名誉なんかあったもんじゃない。

 貶けなすつもりは無いが、ついなが少し難がある性格だったりするのは事実なのだ。

 ただし、と花宵は東雲を見る。恐らくこの女性は、その難も気にしない。というより、受け入れるだろう。「ふうん」とか「そうなの」で。

 花宵の唇に今度はただ笑みが浮かぶ。

「私とついなの出会いから話しましょうか。今のような関係になったきっかけ、実は貴女なのよ」

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