孤独と優しさと
事実から、話さなければなるまい。
それは、究極の孤独の闘いであったことである。運命を背負った日から、僕は、過去の二人の偉人と同じ、精神上の闘いを繰り広げている。
それは一度だけ現われ、その姿を僕の目の前にさらし、至近距離である二メートルの位置で会話した。それから、僕の人生を予言したかのように伝え、薄気味の悪い表情を記憶に残した。
それからというもの、試されているかのように、人生に試練という出来事が連続して起こる自分がここにある。
それは、想像を絶する体験でした。普通なら、心を濁し、間違った方向へ向かうと感じられるのであるが。
何故か、心の焦点を悪なる部分に向けることは、自分自身として、許されないという気持ちが芽生える原動力となったことは、今の自分を作り上げている。
ひとつの名言がある。
「孤独の中でしか、自分自身を豊かに深めていくような濃密な時間は得られない」齋藤孝(教育学者)より。
はじめは、苦しみ抜いていたが、いつの頃からか、その人生を呑み込むように自分が強くなってゆくのを感じてきたというのは、この頃の精神の在り処といえると思います。
事実、神仏の加護を感じ始めた現在は、究極の孤独を楽しんでいる僕がいます。如何なる事が、僕を苦しめるかもしれませんが、心は一つであるように感じます。
そういった、人生経験があるからこそ、今の世の中の間違っている出来事が、悲しく感じられてなりません。
人は本来、どうあるべきかを考える時期に来ていると思います。判断を誤れば、人は間違いを犯し、罪なる不祥事を繰り広げるばかりです。
怒りには怒りで対抗し、人間の根本の道徳を忘れてしまう。そうなると、理性を失い、気がついた時には、とんでもない出来事を引き起こしてしまうというのが現状でしょう。
今まさに、試練の時が日本人に突き付けられています。それを超えてゆくには、人間の根本にある道徳そのものであると、僕は深く感じております。
いま、僕は時間をかけて勉強をしています。その門は狭く、大変な努力が必要ですが、今後の人生のすべてを、人のために尽くそうと思えば不可能とは思えません。
それは、究極の人間への、心ある優しさの挑戦であると思うからです。僕は、病があるからこそ、この気持ちを強く保てるようになりました。
優しさは最大の、心ある慈愛の精神そのものです。これだけは、言っておきますが、私の生き様は、生まれ持った宿命です。
つづく。