肖像画
書斎には、一枚の肖像画が飾られている。眼光は鋭く、気概を感じさせるその眼差しは、僕の人生の師でもあるのだ。そしていつも、僕自身はその肖像画と、問答という心の対話を繰り返している。
それは、つねに心の中の精神を、きれいに保とうとする原動力でもあり、心が弱りそうになっている時の強い味方になってくれることは間違いがない。
何故に、その肖像画を飾るようになった理由には、とても深い訳があるのだ。その訳は、ここで語ることはできない。いや、人類の今後のためにも語ることは控えようと思っている。その僕の、人生の師である肖像画の人物は、神と称えられる「イエス・キリスト」である。そして、この一枚の肖像画が、僕の汚れなき精神を保っているといっても過言ではない。僕にとっては、生きる道と、今後の人生の大切な手本でもあるからである。
僕は、しがない作家志望の四十四歳である。昔は、調理師を目指し、東京に上京した経緯があった。その東京で、運命の病をこの身に背負ってしまうことになる。
はじめは、悲観している自分がいたが。いつの頃からか、強い自分に生まれ変わることになったのは、今に自分を支えている原点でもある。
僕は、一切心に邪念を持たないように努めている。それは言葉では、簡単に伝えているように思われるであろうが、並大抵の精神力ではない。この頃は、病気の事もきちんと考えて、コントロールする大切さを痛感している自分がいるのだ。
時に、その肖像画の視線を感じているのは、不思議な感覚もある。実際、その日によって、眼光の目つきが変化しているように思われるのは錯覚とは思えない。真剣さが、心に訴えてくることを感じるからだ。いつも、あなたと生き、あなたの姿勢を見習いたい。
事実であるが、僕にも駄目なところが存在するのは確かである。手のつけられない、気性の激しい自分がここにある。
つねに、その気性の激しさが、僕の最大の弱点でもあるのだ。そういう時は、つねに睨まれている感覚が僕を襲うのである。そして、きつく胸を締め上げる不思議な現象が、僕を現実という世界に呼び戻してくれる。
その時は、余計に胸の感覚が苦しく感じられる。深い反省のあとの諌めは、自分自身を苦しめていることは変わらない。
今後の課題は、この一枚の「イエス・キリスト」の肖像画のように、邪心がまったくない人生を送ることが出来たら、僕はとても生きている価値観を味わうであろう。