馬と娘
男の生まれは、決して祝福されたものではなかった。
彼の母は領主の屋敷で働く下女のひとりであり、父はその家の当主。
彼を産むと、母は口を閉ざしたまま屋敷を去った。
その赤ん坊は父親の曽祖父に生き写しだった。褐色の肌。鋭い眼光、彫りの深い顔立ち。この家の栄光は彼から始まった。
だから、当主はその男を一族から外すことは出来なかった。
男の役目は、屋敷で生まれた駄馬を地方の農家へ売りさばくことだった。
「いい馬ですよ。今は少し疲れて跛行してますが、すぐに治ります」
そう言って笑えば、相手は疑いもせず頷いた。田舎の農民たちは誠実で愚直だった。
跛行していた駄馬は、いい馬に育った。
どんな駄馬も、いい馬になった。
牝馬を売った家には牡馬を連れて訪問した。
恩着せがましく種付けをしてやるのだ。だから、農民は彼の訪れを歓迎した。
ある年、男は体は小さいが美しい骨格のしなやかな脚を持つ牝馬をある豪農に売った。そこの奥方はその馬を大切に育てた。
その馬に種付けをしている時、その奥方の目と男の目が交わった。
奥方の頬は赤かった。言葉はいらなかった。互いに何を求めているのか、分かった。
翌年、籠にいれられた赤ん坊と、見事な馬が彼を迎えた。
赤ん坊は誰にも似ない美しい子だった。豪農はその子を授かりものとして大切に育てた。
やがて、娘が年頃になった頃、帝の後宮が開かれた。後宮に入れる娘を探して役人がこの地にやって来た。
娘を見るなり役人は合格だと言った。娘は後宮に、はいることになった。娘は馬をつれていくことを願った。
娘にじっと見つめられた役人は、馬も召し上げることにした。 娘は馬に乗って後宮に向かった。
帝は、後宮にはいる娘たちを出迎えた。綺羅をまとった娘たちの一団の最後に馬を引いた娘がやって来た。
娘も美しいが馬も素晴らしかった。
帝は娘を抱いた時、草原の風を感じた。
帝は離宮を作り娘と馬を大事に囲った。
◇◇◇
夜が長くなった。
火鉢の火を見つめていると、今までのことや、馬の瞳を思い出す。あの、底の知れぬ黒。
あの馬を連れて行った娘のことは、時おり夢に出てくる。
帝の后になったという噂を聞いたのは、もう三年前だったか。
それからというもの、体のどこもかしこも錆びついたように痛む。医者は養生しろと言うが、笑ってしまった。もともと長く生きるために生まれたわけじゃない。
俺は、領主が下女に産ませた子だった。
この世に望まれずに生まれ、馬を売っては嘘をつき、農民の素朴さに救われてきた。
嘘の中で、たったひとつだけ本当のことがあった。
馬と、奥方の目。
あれは嘘じゃなかった。互いにわかっていた。どちらも孤独で、同じ熱を抱えていた。
あの娘が生まれた時、俺は初めて「残す」ということを思った。
名前もろくに呼ばれない俺の血が、あの子の中に流れている。
名も、地位も、財も、俺のものは何も残らない。
だが、あの子が笑えば、それで十分だと思っていた。
あの馬と娘が都へ上るとき、俺は丘の上から見送った。
風が強く、娘は頭巾を深く被っていた。
あれが娘を見た最後だった。
――先日、旅の商人が言った。
「后が男子をお産みになり、帝もたいそうお喜びとか」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。笑ってしまった。
俺の生きた証が、帝を産んだのか!帝になるというのか!
人の上に立つなど、考えたこともなかった。
だが、もしそうなら、それでいい。
馬の血は強い。風のように駆ける。
女の目は火を宿していた。
そのふたつが混ざれば、帝でも不思議はない。
俺はもう、馬に触れる力もない。
だが、耳を澄ますと蹄の音が聞こえる。遠く、草原を渡る風の音に混じって。
あれは、あの牝馬の子か、孫か。
それとも、俺の記憶が鳴らしているだけか。
――いい。どちらでもいい。
この手は奥方を抱いた。この目は嘘を見抜き、そして真実を見た。
生きるというのは、そういうことなのか?
夜明けが近い。
戸口の隙間から、朝の光がひと筋差している。
息が白く揺れた。
その白が、まるで馬の息のようで、俺は少し笑った。
「……チェッ、チェッ」思わず舌鼓をしていた。
風が吹いた。馬が答えた。いい馬がやって来た。
遠くで蹄の音が響いた気がした。
俺は、その音に包まれながら、静かに目を閉じた。
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