第1話 宵月天 前夜
粘着く夜の闇が、俺の肌に絡む。
静まり返ったこんな深夜なら、黒髪と青年然とした容貌の自分を気にするものも居ない。
俺が隠れている建物の陰も、今や完全に包囲されつつある。
鍛え上げた両眼で暗闇を見透かすと、朧気に追跡者たちの姿が浮かび上がった。
ざっと、七人程度か。
ただでさえ少数精鋭な上に、夜とはいえ街であることを考慮してか、ぎりぎりの人数を投入してきたようだ。
見た感じ、もっとも相手にしたくない連中は居なかった。
余裕がなかったか、それとも侮られたか。
後者なら好都合だ。その隙を突く。
懐から二本の細長い、黒く塗られたナイフを取り出す。
ナイフには即効性のしびれ薬が塗布しており、喰らえば死にはせずとも小一時間は起き上がれないだろう。
俺は退路を塞ぐ二人の男に向けて、鋭くナイフを投擲した。
闇の中において完全に姿を隠す刃が、確かな感触を得る。
その瞬間に飛び出し、黒いマントを翻し通りを駆け抜ける。
何者かが応援を呼ぶ声が聞こえたが、そんなものが届く頃には俺はもういないだろう。
崩れた包囲網を軽々と突破し、だがまだ気を抜かずに疾走する。
あの人数なら、包囲に使った連中が全員であると判断しても良い。
このまま逃げ切れば―――――――――――
街灯に照らされた石畳の上に、深くフードを被った小さな人影が立っていた。
(子供?だが――――――――)
止まれない。
俺は謎のフードを無視し、脇を抜けることを選択する。
その時、人影が揺らめき、顔を覆っていたフードが捲れた。
どくん!!
息が詰まる。
あまりの衝撃に、それまで無理矢理固めていた意志が瓦解する。
俺の足は鈍り、目の前は激しく揺れ動く。
取り憑いた迷いという亡霊が、再び俺を死神の下に誘う。
「お前は――――・・・・・っ!!」
追いついてきた男たちに地面に組み伏せられる。
だがそんな事も意識にない。
俺の意識は、今、俺を見下ろしている少女しか捕らえていない。
少女は溢れる金髪を波立たせ、にこやかに佇んでいる。
その笑顔から目が離せない。
俺はがたがた震えながら、両眼を恐怖に滲ませる。
「キャロル・・・・お前は・・・・・」
「そうよ、マスター。一年前に貴方に殺された、キャロルよ」
恐慌は過ぎ去り、諦めにも似た脱力感が俺を包む。
そうだ。こうなることは十分考えられたはずだ。
「マスター。私は貴方にがっかりしてるわ」
少女は、地に伏せる俺にどことなく冷めた目を向けて語りかけた。
「一年前のあの日、貴方の迷いを晴らすために折角殺されてあげたのに、貴方は何も変わらなかったのね」
声音には軽蔑、或いは感心。
「俺をどうするつもりだ?」
そう問いかけると、少女は目を細めて嗜虐心に満ちた笑みを浮かべた。
「もちろん、家出をした悪い子は、お家に帰ってごめんなさいしないとね?」
少女の体がふわりと浮かび、俺の背中に回って腕を絡めた。
「お帰りなさい、マスター」
その一言が、どうしようもなく俺の居場所がこの世界であることを告げていた。
七十年ほど前、世界を巻き込んだ大戦争が起こった。
決まり事は何一つなく、同盟国を不意打ちするなど日常茶飯事な世界で、全ての人々は疲弊しきっていた。
そんな中、ある滅ぼされた傭兵団の僅かな生き残りが、戦乱を避けて未開の地で暮らすようになった。
この一団は、高い技術と強力な戦闘力を以て、自分たちの生活を脅かす存在を排し続けてきた。
やがて戦争が落ち着き、世が安定を見せてからも、彼らは沈黙を守り続けた。
その一団は村を造り、外界の人間とは交わることなく暮らしていた。
その生活が一変したのは、今から四十年ほど前だった。
最も近くにあった王国。この国の王―――――この男は、戦乱時に傭兵団の長と戦友であった―――――が彼らにある提案を示したのだ。
曰わく、その力をルナウトピアの復興と繁栄に使わせて欲しい。
次いで提示した対価は『ルナウトピアの住民権』。
当時の傭兵団の長は、友人の頼み、そして団員たちが人恋しく思っていることを知っていたため、この誘いを受けた。
これが、ルナウトピア王国特殊部隊『ルナ・ヌエバ』の始まりであった。
「この馬鹿息子がぁぁあ!!」
容赦ない鉄拳が、俺の頬を殴り飛ばす。
俺の前には、隊服である黒いコートを羽織った髭面ぼさぼさ頭の中年男。つーか親父。
「一年間もうろちょろしおって、この放蕩息子が!パパはそんな子な育てた覚えはありませんよ!!」
ちくしょう調子乗りやがってこのアホ中年が。
「俺だってあんたに育てられた覚えはねぇ!いいから、制裁でもなんでもやりやがれ!!」
すると、クソ親父・ヴィルヘルムは眠そうに欠伸した。
「今何時だと思ってやがる。全部明日だ。とっとと部屋帰って寝とけ。世話はキャロルに任せる」
そう言って、広い執務室の奥の扉に消えて行った。
頬を押さえると、切れた傷がずきりと痛んだ。
隣にいたキャロルが慰めるように俺の肩に手を置いて言った。
「ヴィルもあれで喜んでるのよ。さぁ、部屋へ行きましょう」
久しぶりの我が家は、どことなく異邦の香りがした。
シャワーを浴びて汚れを落とし、部屋着を着てベッドルームに戻ると、キャロルが待っていた。
「はい、お茶。どう?一息つけた?」
キャロルからグラスを受け取り、俺もベッドの端に腰掛ける。
一年空けていたとは思えない、整理整頓された部屋を見ていると、あの頃の記憶が甦ってくる。
「ああ。お前が居るってことは、俺にはもう逃げ場はないんだな」
そう言うと、金髪の少女は仕方なさげな表情を作った。
「・・・・・・一年前のあの日、どうして私を壊して逃げようとしたの?」
・・・・・・・この騒動の確信を突く質問に、俺は答えることは出来なかった。
ただ、頭を抱えて口を衝いたのは、謝罪の言葉だった。
「・・・・ すまない・・・・・・駄目だ・・・・ずっと迷ってた・・・すまない・・・・・すまない・・・・」
あの時、最悪の仕打ちをしてしまった彼女への拙すぎる謝罪。
殺してくれればいい。本気でそう思った。償いようのない罪。何より、俺は、こんな自分が――――――――――
「大丈夫よ。迷子の(ワンダー)レイ。みんな許してくれる。思い詰めないで」
キャロルがそっと、俺の頭を胸に抱く。
俺は、そんな自分の肩ほども背丈のない少女に情けなくすがりついた。
赦しが欲しかった。
自分自身を赦せない俺を、誰かに赦して欲しかった。
「キャロル、赦してくれ―――――――っ!」
言いかけた俺の唇を、キャロルの柔らかいそれが塞ぐ。
俺の口蓋の内を舐めとった舌を這わせ、少女は妖艶に囁いた。
「でも、私を壊したことは、そう簡単には許してあげない」
キャロルの小さな体に押し倒され、俺はベッドに深く沈み込んだ。
短期連載を目指して鈍行していきます。どうぞお付き合い下さいませ。