第8話 看守長、牢に赴く
看守長、牢に赴く
地下牢の石段を、重々しい足音が響いた。
その歩みは規則正しく、まるで軍靴の行進のような硬さを持つ。
先を行く若い看守たちは、どこか怯えたように視線を交わしながらも、後ろに続く巨躯の男の存在に背筋を伸ばしていた。
――看守長バルド。
この牢獄で二十年もの経験を積んできた老練な男である。
片目には深い傷跡が走り、常に鋭い眼光で周囲を射抜いていた。
囚人たちにとっては悪夢の象徴であり、部下の看守にとっても畏怖すべき存在。
「……案内しろ」
低く響く声に、若い看守が「は、はい!」と声を震わせる。
彼らは地下牢の最奥へと急いだ。
そして――問題の牢前に到着する。
「看守長、こちらです!」
鉄格子の前で待機していた看守二人が直立し、敬礼を取った。
彼らの顔は蒼白だ。
バルドは無言で牢を一瞥した。
「……」
その瞬間、彼の片目が僅かに見開かれた。
「これは……」
石と鉄で囲まれたはずの独房。
そこには、まるで異国の屋敷の一室を切り取ったかのような光景が広がっていた。
木の床。白壁。机と椅子。
本棚に整然と並ぶ書物。
そして、ふかふかの寝具まで備えられている。
さらに異様なのは、その中央に腰かける一人の少女――ローゼであった。
彼女は机の上に置かれた皿からフォークで料理を取り、紅茶を口に運びながら、分厚い本に没頭している。
頬にはうっすらと幸福の笑みすら浮かんでいた。
「……馬鹿な」
バルドは思わず低く呟いた。
「看守長! 昨日までは普通の牢でした! それが突然、このような……」
「鍵を開けても中には入れません! まるで目に見えぬ壁に阻まれるようで……!」
「呼びかけも届きません! 嬢……いや、囚人は完全に別の世界にいるかのようで……!」
看守たちが次々に説明する。
バルドは耳を貸しながらも、じっと鉄格子に近づき、その目で観察した。
牢内から漏れ出る光は温かく、魔道灯のような明滅もない。
香ばしい食事の匂いまで漂ってくる。
「確かに……匂いまでは幻術で誤魔化せぬ。実体がある……か」
バルドは懐から短剣を取り出した。
鍵束を受け取り、ガチャリと錠を開ける。
「下がれ」
看守たちを後退させ、自ら鉄扉を押し開く。
――しかし。
扉の先にあったのは、見えぬ壁だった。
分厚い鉄板のような抵抗があり、一歩たりとも足を踏み入れることができない。
バルドは短剣を突き立てた。
――ギィン!
金属音とともに、透明な膜が淡く揺らめき、すぐに消えた。
「……結界、か」
短く吐き捨てるように呟いた。
中のローゼは、そんな試みを全く知らぬまま、優雅に椅子にもたれかかって本の続きを読んでいる。
バルドは片目を細めた。
「奴は、我々の声に気づいていない……いや、声そのものが届いていないのだな」
「か、看守長……これは一体……?」
「分からん。ただ言えるのは――」
バルドは背筋を伸ばし、牢内を鋭く見据えた。
「これは囚人の手によるものだ。外部の差し入れでも、魔道具の仕掛けでもない」
「囚人……本人が……!?」
「そうだ。これは自発的に展開された《結界》に他ならん。恐らく……スキルだ」
看守たちが息を呑む。
「スキル……! まさか、あの令嬢がそんなものを……?」
「公爵家の娘だ。特異な加護を持っていても不思議はない」
バルドの声は低く、しかし明確な確信に満ちていた。
「……だが、問題は別にある」
バルドは腕を組み、唸る。
「この結界、我々の権限では干渉できん。無理に破ろうとすれば、牢獄そのものが損壊する危険すらある」
「そ、それでは……」
「上へ報告するしかあるまい」
その言葉に、看守たちは戦慄した。
――上。
すなわち、この地下牢を管理する国王、今は国王が外遊中のため王子に。
「しかし、報告すれば……我らの管理責任が問われます!」
「問われようとも、隠し通せる事態ではない。いずれ噂は漏れる。ならば、早めに報告し、対応を仰ぐ方が被害は少なく済む」
バルドは静かに言い切った。
彼の判断は常に冷徹だ。私情は一切ない。
牢の中。
ローゼはページをめくり、うっとりとした声を漏らした。
「あぁ……この展開、最高……!」
まるで、外の緊張感など存在しないかのように。
バルドは鉄格子を睨みながら、低く呟いた。
「――囚人ローゼ。貴様は一体、何を隠している……?」
こうして看守長による確認は終了した。
地下牢に生じた不可解な現象は、ただの囚人管理の問題ではなく、国家的な「異常事態」として扱われることになる。
そして、それが後に大きな波乱を巻き起こすことを、この場の誰一人としてまだ知らなかった。




