第九話 翠とデイビッドの合流
地球到着四日目、航行開始から三日。
二日後、ポッドの中は静かだった。
ポッドのモニターに、外の状況が表示されている。北緯三二・〇三度、東経一一八・四五度――中国の南京市の付近。放射線量は四・三Svだが、この義体なら耐えられるはずだ。
モニターの数字が冷たく光り、放射線の脅威が現実のものとして迫る。わたしは義体の腕を軽く動かし、その堅牢さに一抹の安心を覚えた。
ポッドの収納スペースから、使える機材を確保する。携帯用AI、放射線測定器、水浄化装置、予備の蓄電池……それらを防水バッグにしまう。体内蓄電池もフルに充電してある。
狭いポッド内で機材を手に取るたび、金属が擦れる音が響き、わたしの新しい身体が現実を突きつけた。防水バッグを背負うと、義体の肩に軽い負荷がかかり、生身の頃とは異なる感覚が意識を支配した。
「上陸地点、安全なのかしら……」わたしはつぶやきながら、ポッドのハッチを開けた。
ハッチが開く音が静寂を破り、外の風が一気に流れ込んできた。潮の匂いが鼻を突き、義体のセンサーがその成分を即座に解析した。
外の空気が一気に流れ込み、潮の匂いと湿った風が顔を打つ。雨が降りしきる中、嵐の音が耳をつんざき、遠くの空は黒い雲に覆われている。海岸は瓦礫と漂流物で埋め尽くされ、かつての都市の面影はどこにもない。航行開始から三日、台風の影響はまだ続いているようだ。
波が打ち寄せる音が絶え間なく響き、瓦礫の間から見える海は灰色に濁っていた。わたしはハッチの縁に手をかけ、外の荒廃した世界を見つめた。かつての南京の繁栄が、今は水と風に呑まれている。
潮の匂いと湿った風が顔を打つ。どこかで感じたことのある感覚が胸をかすめた。――日光が差し込むファーム。わたしはトマトの苗を手に持って、誰かに笑いかけている。『期待しててくださいな』と口にした声が、風に混じって遠くから聞こえてくる。頭がずきりと痛み、わたしはよろめいた。
その記憶が一瞬だけ鮮明になり、ガイアでの穏やかな時間が脳裏を駆け巡った。だが、次の瞬間、嵐の音がそれを掻き消し、現実がわたしを引き戻した。
防水バッグを背負い、ポッドの外に出た。足元が砂に沈み込む感覚が伝わってくる。わたしは深呼吸し、辺りを見回した。
砂が義体の足裏に擦れ、微かな音を立てた。目の前に広がる瓦礫の山は、かつてのビルや道路の残骸で、風に飛ばされた破片がカタカタと鳴っていた。わたしは一歩踏み出し、荒れ果てた大地に立つ自分の姿を想像した。
その時、視界の隅に人影が映った。黒い髪を後ろで束ねた男が、こちらに向かって歩いてくる。灰色の瞳が、遠くからでもはっきりとわかる。
彼の姿が雨のカーテン越しに現れ、義体の視覚がその輪郭を鮮明に捉えた。男の足音が瓦礫を踏むたび、かすかな響きが風に混じって届いた。
わたしはその姿に身構えた。だが、彼の歩き方は落ち着いていて、敵意を感じさせない。この放射線量で歩いているということは、同じ義体化されている者だ。
彼の動きに不自然さはなく、放射能に耐える義体の強靭さが感じられた。わたしは防水バッグを握り、警戒しながらも彼を見つめた。
「生きているのか?」
彼が最初に発した言葉は、穏やかだった。
その声が雨音を貫き、静かに耳に届いた。男の灰色の瞳がわたしを捉え、微かな好奇心が垣間見えた。
「……」わたしは警戒し、なにも答えなかった。
喉が詰まり、言葉が出なかった。義体の反応速度が一瞬遅れ、わたしの緊張が身体に伝わった。
彼はわたしのそばまで来ると、立ち止まった。
「オレはデイビッドだ。君を助けるためにここに来た」と握手を求めてくる。
彼の手が差し出され、義体の表面が雨に濡れて鈍く光った。わたしはその手をじっと見つめ、彼の意図を探った。
「助ける……?」わたしは眉をひそめた。
「なぜわたしを? あなたは誰なんですか?」デイビッドは灰色の瞳でわたしをじっと見つめた。
「オレが誰かは、今は重要じゃない。君が『翠』だということだけ、覚えておけばいい」
彼の声には確信が込められ、わたしの名前を口にするその響きに、微かな記憶が揺れた。わたしは彼の右手を握り返した。
その握手は冷たく、義体同士の接触が微かな振動を生んだ。
「記憶に混乱があるようだな」わたしの目は泳いでいたようだ。
デイビッドの言葉が静かに響き、彼の視線がわたしの混乱を捉えた。わたしは目を逸らし、記憶の霧を払おうとした。
「それでも、君は生きている。義体化された身体で、こうして地球に戻ってきた」
「わたしは、ガイアで何が起きたのか知りたい。自分が何をすべきなのか、教えてください」とわたしは敬語で続けた。
声が震え、ガイアの崩壊が頭をよぎった。わたしは彼にすがるように言葉を紡いだ。
彼は口元に微かな笑みを浮かべた。
「いい目だ。オレが思っていたより、君は強い」
その笑みが雨に濡れた顔に映え、彼の瞳に信頼の色が宿った。
「教えてください。あなたが何を知っているのか、わたしが何をすべきなのか」
ガイアで何が起きたのか、答えを彼が知っていると直感した。
わたしは一歩近づき、彼の言葉を待ち続けた。雨が強まり、瓦礫に叩きつける音が耳に響いた。
デイビッドは話し始めた。
「君はガイアの運営管理官で、生物学者だった。君を生かすためキャロルが君を緊急義体化した。記憶喪失はその影響だ」
彼の言葉が静かに響き、キャロルの名が再び胸を締め付けた。ガイアでの日々が断片的に浮かび、わたしは息を呑んだ。
キャロル――その名前を聞いた瞬間、頭の中に鋭い痛みが走った。わたしはその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
痛みが義体の神経を突き抜け、ガイアの制御室やファームの緑が一瞬だけ鮮明に蘇った。雨が顔を濡らし、記憶の波が押し寄せた。
「どうした?」デイビッドが心配そうに見つめてくる。
「何かが、頭の中で……」言葉を絞り出した。目の前が一瞬暗くなり、記憶の断片が蘇る。
キャロルの声、手術室の光、メディカルロボの音が混ざり合い、わたしを混乱に引きずり込んだ。
――手術室。キャロルの声が聞こえる。
『アキラ、生存のためにはこれしかない。急いで! あなたの義体に鍵がある』
けれど、記憶はそこで途切れた。頭痛が激しく、息が詰まる。
わたしは膝をつき、雨に濡れた地面を見つめた。キャロルの声が遠くで響き、鍵という言葉が心に引っかかった。
「何かを思い出したのか?」デイビッドの表情が硬くなった。
「手術室……キャロルが、わたしの義体に鍵があるって。でも、はっきりしない……」喘ぎながら言った。
記憶の断片が霧に包まれ、わたしは必死にそれを掴もうとした。
「君の中にはまだ記憶が残っている。バックドアコードも思い出せるかもしれない――それが、ECOSを復旧する鍵だ」
「バックドアコード……ですか?」
デイビッドの言葉に、わたしは目を上げた。雨が彼の顔を流れ、灰色の瞳が鋭く光った。
デイビッドは説明を始めた。
「ECOSはガイアのメインAIだった。ガイアの墜落でコアデータは失われたが、地球再生の要だ。キャロルが君の義体にバックドアを仕込んだ。ERISはコロニーを管理していたAIで、自我が芽生え、追放されたが目覚めてしまい、ガイアを墜落させた。君の記憶と義体が、ERISを止める鍵だ」
彼の声が雨音に混じり、ガイアの崩壊が現実として迫った。わたしは目を閉じ、彼の言葉を噛みしめた。
「そうです! わたし、西方へ向かえって、脱出ポッドのモニターに写ったAIに言われました。場所がわからないので、ここに上陸したんです」
「そのAIはECOSのオリジナルだろう。西方はセイロン島上空だ。そこにECOSのバックアップシステムと地球再生の鍵を握るステーションがある。キャロルの指示で、オレたちはそこに向かう」
デイビッドの言葉に、わたしは一筋の希望を見た。西方への道が、わたしの旅の目的だと確信した。
デイビッドは防水バッグから携帯用AIを取り出し、キャロルに接続を試みた。雨音が響く中、ノイズ混じりの回線が繋がる。
「キャロル、オレだ。デイビッドだ。アキラと合流した」
「アキラ、生きていたのね!」キャロルの声は喜びに震えていた。
「よかった……本当に、よかった……」
その声が雨を貫き、わたしの胸に温かさが広がった。
わたしはその声に胸が締め付けられる思いがしたが、記憶が空白のままで、どう答えたらいいかわからなかった。
「キャロル……さん? わたし、あなたを知ってるはずなのに……思い出せなくて」わたしの口から戸惑う声がこぼれた。
「思い……出せない?」キャロルの声が凍りつく。
「アキラ、あなた……記憶が?」彼女の声に不安が混じる。
キャロルの声に微かな震えが混じり、わたしは彼女の顔を思い浮かべようとしたが、霧がそれを遮った。
デイビッドが割り込んだ。
「キャロル、彼女は義体化の影響で記憶が一部欠けてる。君やボブのこと、バックドアコードもまだ思い出せてない。時間が必要だ」
「そうなのね……」キャロルの深呼吸の音がする。
「アキラ、ごめんね。でも、あなたが生きてるだけで希望がある。ゆっくりでいいから、思い出して。デイビッド、彼女を頼むわ」
「わかってる」デイビッドがうなずき、通信を切った。
キャロルの言葉が雨に溶け、わたしは彼女の温かさに支えられた。
キャロルの声に温かさを感じたけれど、記憶の空白にいらだちがつのる。
「わたし、キャロルさんやボブを知ってるはずなのに……」と呟くと、デイビッドが肩に手を置いた。
「焦るな。記憶は戻るさ。それが君の力だ」
雨の中、デイビッドは静かに言った。
「君に話しておくべきことがある」そう言って立ち上がり、わたしたちは西方への旅を再開した。
彼の手が肩を離れ、わたしは立ち上がった。雨が強まり、デイビッドの背中が瓦礫の向こうに進む。わたしは彼を追い、未来への一歩を踏み出した。