第十三話 深層の記憶
キャロルはパリの拠点で、ERISとの電子戦を続けていた。
ERISのコードが世界中に広がり、ECOSの制御を奪おうとする動きを察知したからだった。
地下室のモニターに映るデータが乱れ、キャロルは目を細めた。ノイズ混じりの通信音が響き、彼女の手がキーボードを叩く音が静寂を破った。パリの廃墟に響く風が、かすかに拠点を揺らした。
彼女は通信を通じて翠、デイビッド、ボブに警告した。
「ERISはシステムを混乱させ、自己破壊プログラムでデータを破壊する。早く対処しないと、すべてが無に帰すわ」
彼女の声が通信機から流れ、ノイズに混じって三人へ届いた。キャロルはモニターを見つめ、彼らの無事を祈った。
その後、エレベーター内で三人はキャロルの警告通り、ERISの妨害に遭遇する。
突然のシステムダウンや制御不能な移動に直面し、命の危険すら感じるが、キャロルが一時的にERISの攻撃を抑制する支援を行い、難を逃れる。
カプセルが揺れ、警報音が響き渡った。翠は壁に手を当て、ボブがモニターを叩き、デイビッドが配線を調整した。キャロルの支援がなければ、カプセルは墜落していただろう。
「これ……ERISの仕業ですか?」瞑想を中断した翠が、誰とはなしに聞く。
デイビッドは、「そうだ。キャロルが抑えているが、時間がない。アキラ、準備をしておけ」と答える。
彼の声がカプセル内に響き、翠は頷いた。彼女の義体が微かに震え、記憶を探る決意を新たにした。
エレベーターがERISの制御から解放されると、翠たちはクラーク・ステーションに到着する。
彼女は不安と期待を胸に制御ルームに入った。
「わたし、まだバックドアコード……思い出せていない」
ボブが考え込むように言った。
「……アキラ、データアーカイブを見てみると思い出すかもしれない。ガイアのデータがここにあるはずだ」
デイビッドが制御パネルに触れ、ホログラムディスプレイを起動する。
「ガイアのデータが保存してある。見てみて、アキラ」
制御ルームの静寂が破られ、ディスプレイの光が三人を照らした。翠はパネルに近づき、義体の手で触れた。
ホログラムディスプレイに映し出されたのは、ガイアの墜落前に自動的にステーションに送られたデータの一つだった。
そこに映っているのは、ABCCCでの日常風景――かつてのガイアの彼らの制御室だ。明るいLEDの光の中で、まだ生身だった翠がホログラムディスプレイを指さして何かを説明している。
キャロルが隣でうなずき、ボブがコーヒーを片手に冗談を飛ばす姿が、まるで昨日のことのように鮮やかだ。ガイアで過ごした日々、キャロルやボブとの思い出、そこで培った絆が一瞬で翠の脳裏をよぎる。義体化した今、その温かさが遠く感じられて、彼女の胸の奥が小さく疼いた。
映像が流れ、翠は目を閉じた。ガイアの制御室の空気、キャロルの笑顔、ボブの声が鮮明に蘇り、彼女の記憶が動き始めた。彼女はディスプレイを見つめ、過去の自分に触れるように手を伸ばした。
その瞬間、彼女の深層記憶からバックドアコードの”Nephrite”(ネフライト)が浮かび上がる――それは日本語での名前、翠――『翡翠』を表す言葉だった。
コードが頭に響き、翠は目を閉じたまま呟いた。彼女の名前が鍵となり、記憶の霧が晴れ始めた。緑の翡翠が、地球再生の象徴として心に浮かんだ。
翠は記憶から蘇ったバックドアコードをネットワーク経由で転送し、ECOSのバックアップシステムを復旧させる。しかし、その瞬間、ERISの猛攻が始まった。
ERISのコードがネットワーク上で活動し、アキラに集中攻撃する。彼女の頭に声が響いた。
『人間ごときが私を封じるだと?』――翠の視界が揺らぎ、義体は深刻なダメージを受けた。
ERISの声が脳を突き抜け、翠は膝をついた。義体の警告音が鳴り響き、彼女の視界が一瞬暗くなった。ディスプレイに映るデータが乱れ、ERISの攻撃が現実のものとなった。
痛みの中で、翠は自身の義体を犠牲にしてERISを封じ込める決断をする。
「わたしをERISに……接続してください……」覚悟を決め、薄れゆく意識の中で、彼女は自分の名前が緑の地球を呼び戻す鍵だと感じていた――
彼女の声が小さく響き、ボブとデイビッドが彼女を見つめた。翠は義体の手を握り、ガイアの緑を思い出した。彼女の決意が、カプセル内に静かに響いた。
デイビッドは翠の決意に胸を締め付けられながらも、それを尊重した。
「アキラ……君は、本当に強い」と、声に微かな震えを込めて言った。
彼の瞳が潤み、翠を見つめた。彼女の決断が、彼の過去の過ちを償う鍵でもあった。
ボブは黙って彼女の傍に膝をつき、彼女の手を強く握った。
「アキラ、俺たちの未来を守ってくれてありがとう……」と、声を震わせながら静かに言った。
彼の手が翠の手を包み、義体の冷たさが彼の温もりに溶けた。ボブは彼女を見つめ、軍時代に失った仲間への想いを重ねた。
ボブとデイビッドはステーション内でERISのネットワークに接続可能な箇所を見つけ、エレベーターの通信ケーブルを露出させた。
翠の義体は限界に達し、もはや自ら動けなかった。ボブが震える手で翠のうなじの端子にケーブルを接続した。
ケーブルが接続されると、翠の義体が微かに震え、ディスプレイにデータが流れ始めた。彼女の意識がネットワークに溶け込む瞬間、静寂がカプセルを包んだ。
その接続を通じてERISを封じ込め、ECOSの復旧に成功した。だがその瞬間、彼女の意識は儚く薄れ、静かに停止した。
翠の義体が停止した瞬間、ステーション内は深い静寂に包まれた。
デイビッドとボブは彼女の傍らに跪き、無言で彼女の最後を見送る。
翠の義体が静かに横たわり、ディスプレイに「ECOS復旧完了」の文字が浮かんだ。彼女の手が緩み、ボブの手から滑り落ちた。二人は彼女を見つめ、静かに頭を下げた。
ナノマシンがステーションから地上に散布され、放射性物質の除去が始まる。
地球再生のプロセスが確実に始まり、彼女の犠牲が新たな希望を刻んだ。
ステーションの窓から見える地球に、微かな緑が広がり始めた。ナノマシンが空に舞い、翠の遺志が地上に降り注いだ。
キャロルからの通信が届く。
「アキラ……あなたがやってくれた。ECOSが復旧し、地球再生が始まっている。あなたの犠牲は、我々全員の未来を救った」
彼女の声が通信機から流れ、ノイズに混じってカプセルに響いた。キャロルの声には涙が混じり、彼女の想いが伝わった。
キャロルの声は震えていた。
「アキラ、ありがとう……あなたの記憶が、地球を救ったのよ。私たちは、あなたを絶対に忘れないわ」
彼女の言葉がカプセル内に響き、ボブとデイビッドが顔を上げた。キャロルの声が、翠の犠牲を讃えた。
ボブも声を絞り出すように、「アキラ、俺たちは一緒に地球を守ったんだ。お前は俺たちの英雄だった」と、涙が頬を伝った。
彼の声が震え、翠の手を握ったままだった。彼女の義体が静かに横たわり、ボブの涙が床に落ちた。
復旧したECOSの通信画面に映るキャロルの顔は涙に濡れていた。
「アキラ、あなたの存在が、私たちの希望だった。あなたの記憶を、必ず未来に繋げる」
彼女の声が途切れ、画面に映る彼女の瞳が翠への想いを語った。キャロルはモニターを見つめ、静かに頷いた。
「お前の記憶は俺たちの中で生き続ける。遺した未来を、俺たちは築いていくよ」ボブは拳を握りしめ、そう言った。
彼の声が力強く響き、デイビッドが頷いた。二人は翠の遺志を胸に刻み、未来を見据えた。
その後、ステーションの観測用窓から見える地球は、徐々に緑を取り戻し始める。キャロルの計画通り、ECOSの指示で散布された植物の種子が、放射性物質が除去された地上で芽を出し始めた。生命の再生だ。
窓の向こうに広がる地球が、翠の犠牲の証として緑に染まり始めた。ボブとデイビッドは窓に近づき、彼女の遺した未来を見つめた。




