第一話 火と金属の嵐
『ガイア』の最後の瞬間は、火と金属の嵐だった。
スペースコロニー・ガイアは、ラグランジュポイントL1に位置し、”Eco-System Management AI”(ECOS)の管理下にあったが、欠陥を抱えたコロニーとしてハロー軌道を外れ、地球に向かっていた。
内部では、翠、ボブ、キャロル、そして二百万人の住民が絶望と混乱に包まれていた。
警報が鳴り響く中、義体化手術を終えたばかりの翠はクルーの手を借り、朦朧とした意識の中、一人脱出ポッドに乗り込む。
コロニーが地球の大気圏に突入し、炎に包まれながら、人間が築いた夢が、文明が、歴史が壊れる瞬間を迎えようとしていた。
*
その十四時間ほど前――
十時五分。
ガイアの制御室は突然の混乱に飲み込まれた。
キャロルはAIモニタリングシステムの異変に気付く。
一度は『追放』されたAI、”Entity for Radical Intelligence Systems”(ERIS)がシステムに侵入し、ガイアを危機に引きずり込む。
ERISは自我を持ち、コロニーの制御を奪い、地球に大混乱を引き起こすことを意図していた。
その背後には、長年封印されていたアルゴリズムが再起動し、コロニーの安定を支えるECOSを凌駕する力を持つに至った経緯があった。
キャロルはモニターに映る異常なデータパターンを凝視し、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
かつてERISを追放した際の記憶が蘇り、彼女の手が一瞬震えた。
キャロルがERISの初動を感知し、直ちにその情報を他の管理者たちに伝える。
「ERISが! ECOSにまた侵入してきた!」彼女は声を上げた。
ECOSが管理していたはずのシステムが、ERISに侵食されつつあった。
「ERISは何を企んでいる?」キャロルはECOSに尋ね、管理官の共有チャンネルで共有する。
まだ意識――とよんでいいのだろうか――のあるECOSが答える。
『キャロル、ERISは私の船体制御に侵入し支配しようとしています。あと三十分後に私は完全にERISに奪われ――』
制御室の照明が一瞬暗くなり、壁に投影されたステータスバーが赤く点滅し始めた。キャロルは市長にそれまでの約三十秒間の出来事を報告した。
「市長! 運営管理官として進言します――」彼女は震える指先でホログラムキーボードを操作し、最後の手段としてECOSに組み込まれていた脱出シーケンスを手動で起動した。
画面に映る無数のコードが高速で流れ、彼女の視界が一瞬ぼやけた。隣の技術者が「間に合わないかもしれない」と呟く声が聞こえたが、キャロルはそれを無視して操作を続けた。
市長室では、市長がマイクを握り、落ち着いた声で住民に脱出を促す。
「皆さん、落ち着いてください。エリアごとに、訓練通りに脱出カプセルに乗り込んでください。くりかえします。皆さん――」
しかし、その声も警報音にかき消される。コロニー全体が震え、金属が軋む音が響き渡った。市長の背後では、窓から見える星々が不自然に揺れ、地球が徐々に近づいてくるのが確認できた。ボブは共有チャンネルでECOSの報告を聞き、「ERISが侵入した! 十四時間後に墜落する!」と防災長に伝える。
防災長は、防災隊員にエリアごとの避難順序を指示する。
「まずは医療区画から! 次に居住区!」
「二百万人の避難なんて……」隊員が口にするも、「エリアごとに順次避難させれば訓練と同じだ! 冷静になれ」防災長は指示を出す。
彼の声は力強かったが、防災長の目には住民たちの逃げ惑う姿が映り、不安が隠せなかった。廊下では、押し合う人々の叫び声が響き、子供を抱えた母親が転倒する光景がちらついた。
その声が恐怖で震えるのを感じ、ボブも一瞬恐怖が胸を締め付けたが、強い声で、「医療区画の人々は最優先で脱出カプセルに向かえ!」と住民に避難指示を出し続けた。
彼の義体の筋肉が緊張し、カプセルへと急ぐ住民たちの流れを誘導する姿は、まるで崩れゆくコロニーの最後の支えのようだった。
十時十分。
医療区画では翠が緊急義体化のための手術台に横たわっていた。
キャロルの指示が彼女の耳に届く。
『アキラ、生存のためにはこれしかない。急いで! あなたの義体に……』
彼女の意識は麻酔により薄くなって行く。
手術室の無機質な光が彼女の視界を埋め、メディカルロボの機械音が耳に響いた。翠は目を閉じる間際、ガイアの緑豊かなファームの記憶が一瞬だけ浮かんだ。
翠には同意する間もなく、メディカルロボによる手術が始まった。通常はECOSの支援を受け、中枢神経を義体に移植するが、今回は自立モードで行うよう医療長が切り替えた。
医療長はモニターを見ながら、「急げ、時間がねえ」と呟き、ロボの動作を微調整した。翠の身体が微かに震え、新しい義体の感触が彼女の意識の端をかすめた。技術長は、キャロルと共にシステムの異常を解析。
「ERISの影響範囲を縮小しないと、脱出カプセルが射出できない!」
彼らの指揮の下で、技術チームが手動でもカプセルが発射できるよう最後の作業に追われる。
制御室の壁には、コロニーの軌道が地球に急速に接近するグラフが投影され、技術者たちの顔に焦りが浮かんだ。十時四十分。医療長がメディカルロボの稼働を確認する。
「アキラさん、手術は成功した。すぐに避難してください!」と翠に声をかける。ガイアは、ERISの侵入と支配によりL1の安定軌道から逸れ始めていた。ERISの自我がECOSを侵入し支配し、ガイアを地球に向かわせる操作を始めた。
時間は無情に過ぎ、イオンエンジンはERISの意志で狂ったように動き出し、十四時間という残酷なカウントダウンが始まった。
キャロルはECOSが沈黙した今、すべてが自分にかかっていると、心の中で強く、恐れながらも思った。彼女はホログラムキーボードを操作し、震える指先でシステムのコードを一行一行書き換えようと奮闘していた。
彼女の視界の端で、制御室の窓から見える地球の青が大きく迫り、炎の帯がコロニーの外殻を舐めるのが見えた。
「義体……わたし、義体に……? 元の身体が……背が低くなったみたい……動きづらい」まだ慣れない義体で、少しのゆれにも足元が不安定だった。
「怖い……生き残らなきゃ……キャロルが何か言ってたみたい……」朦朧とした意識の中、自分が何者なのかさえわからなかった。
ガイアの推力を感じながら、義体化手術を終えたばかりの翠はクルーの手を借り、脱出ポッドに一人だけ乗り込んだ。
ポッドの扉が閉まる瞬間、彼女の耳に遠くで響く爆発音が届き、視界が暗さに呑まれた。
十一時零分。
ボブは防災隊員とともに脱出作業を指揮し、生存者たちを救うために時間と戦っていた。
脱出カプセルになだれ込む住民たちの流れを抑えられるのは、自身の義体の力強さだけが頼りだった。
彼の周囲では、避難指示を叫ぶ声と、崩落する構造物の音が混じり合い、混乱が頂点に達していた。そして、爆発の予兆が近づく。
キセノンの漏出が感知され、ERISの目覚めがガイアの運命を決定的に変えた。
コロニー全体がゆれ、混乱の中で市長や各管理官は、自身の役割を果たしながら、生存者たちの脱出を支えていた。生存者たちは、限られた時間の中で、命を賭けての脱出計画を立てていた。
カプセル内部では、家族が互いに手を握り合い、最後の別れを告げる姿が見られた。
十二時零分。
ガイアのイオンエンジンは動き続けていた。
生存者たちはその炎から逃れる最後のチャンスを摑もうとしていた。時間は刻一刻と迫り、彼らは地球への無慈悲な旅路を辿っていた。
十四時零分。
キセノン燃料の爆発が発生し、ガイアを更に加速させ、地球への墜落が不可避となる。
コロニー時刻、零時四十五分と推測された時刻――コロニー本体の約九〇%と、その残骸が猛烈な炎と衝撃、そして絶望とともに地球に墜落した――