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その六

少し陽の射す午後、喜市は件の女の少し後ろをゆったりと歩きついていた。

その脇には、喜市の手ぬぐいを首に巻いた侘助が、これもまたゆったりと歩いている。

何度か女は急かしたのだが、荷物が重いのと天気が良いのと足元がぬかるむのとで、二人の足はなかなか早まらず、とうとう諦めたようだった。


しかし本当のところは、長屋からはもう一刻近く歩き続ける必要があるほど遠くまで来たので、実際はこれ以上速く歩けば侘助が辛かろうと喜市が歩みを緩めていたのもあった。

二人は特に話さなかったが、お互いに陽気に似合う穏やかな沈黙が気にいったらしく、それぞれの口の端は同じように僅かに天を指している。

冷たく固かった空気の合間を午後は懸命に日差しが縫い、朝の寒さとは打って変わって暖かい。その麗らかな温もりを感じ、喜市は未だ遠い春をふと恋しく思った。


その時ふいに、何かの香が喜市の鼻先をかすめた。

微かだが、何故か魅かれる匂いに、喜市は先を行く女を呼び止め聞いた。

「おっかさん。この匂いはなにかねえ」

女は遅い歩みに不機嫌な様子で顔をしかめて振り返ると、二三度鼻でひくと嗅いだが

「匂いなんかするもんか」

と直ぐにぷいと鼻先で弾くように前を向いてしまった。


気にせず匂いの記憶を探る喜市に、斜め下から声がかかる。少しだけ、小さな口から白く染まった空気がもれてにじんでいく。

「藤の花だ」

侘助はそう言いきょろきょろと辺りを見回すと、少し先の寺の境内にある木を指差した。

「あれだ。」

侘助は言うが、その木に花は一向に見当たらない。それもそのはずで、藤の花には未だ時期が早すぎるのだ。

「まだ咲いておらぬよ」

訝しげに喜市は言ったものの、確かにそう言われてみれば藤の香りにしか思えず、小首をかしげると、侘助が再び口を開いた。

「今日は少し暖かいからな。藤も早く目覚めて春の備えでもしておるのだろう。あれは名士だからな」

「それならさしずめ恋文の練習かい。可愛いねえ。」

喜市はふっと笑うと、足を止めてじっと慈しむようにその木を見つめた。追い越した侘助はそれに気付き、ゆっくりと足を進めながらも振り返る。

「怒られるぞ」

しかしそう言う侘助の忠告などちくとも気に掛ける様子など見せずに、喜市は思い付いたようにかしげた首を戻して腕組みを解くといきなり

「春の日を 待つ身の上に 流る香は 姿隠せど 藤の花なり」

とさも難しい歌を詠み上げる様に口にした。


満足げに微笑む喜市に

「もう春だろう」

と侘助は口を挟んだが、喜市は微笑んだまま

「こいつが上手く咲いた時が春だよ。どんな恋文をくれるのかねえ」

と言って、再びすたすたと歩き出してしまった。侘助は慌てて追いかけ、横に並ぶ。


見上げると、さっきまでの自慢げな笑顔はどこへやら、もう春だと指摘されたのが恥ずかしかったと見えて、喜市は少し照れた風に眉を下げていた。

「俺の秘密を教えるよ。歌を詠むのは苦手でね」

まじまじと覗き込む侘助をちらりと見ると、そうこっそりと囁いた。侘助は笑うでもなく目線を通りに戻すと

「俺は嫌いじゃない」

と口にした。

喜市は予想もしなかった言い草に驚いて足を止め、その小さな体に目をやったが、侘助はさっきの喜市と同様にちっとも気に止めない様子で黙々と先に進んでいる。


「なあ、侘助。お前の秘密も一つ教えておくれよ」

僅かに浮つく心持で思いついたように喜市が言うと、侘助も足を止めて少し考えた。

そうしてくるりと振り返り、その何を考えているのかわからぬまんまるの目で何度か瞬きした。

「狢と狐の中の悪い理由を知っているか」

喜市が知らぬと答えると、侘助は少し得意げに口にした。

「昔、双方のご先祖が同じ人間の女を好きになったからだ」

言うと侘助はまた踵を返して行ってしまった。

「それだけか」

嘘か本当か検討がつかぬ答えに問いかければ、再び小さな歩みを止める。


「それだけだ。加えるなら、だから狐も狢もいがみ合うが、人間は嫌いじゃない」

振り返ることもなく、ただぶっきらぼうに付け加えられた言葉に、喜市はおそらくそれが言い伝えに過ぎないものであろうことがうっすらとわかったが、侘助においては人間がむしろ好きなのだ、と言うことだけははっきりとわかった。むしろ真偽の程はこの際どうでも良く、それだけで十分であった。


再び沈黙を取り戻した喜市は穏やかな笑顔でその小さな体に追いつくと、並んで通りの中へ消えていった。


喜市の家に、小さな着物が増えるのは、これから直ぐの話。

「春の日を 待つ身の上に 流る香は 姿隠せど 藤の花なり」


和歌なんぞ詠んだことないので乱暴ですが、

「待つ身」と「松見(藤の花の異称)」、「藤」と「不ニ」を掛けたり「隠す」を二つの意味で使ったり、精一杯頑張ってみました。


本当は友人の書いた小説とのコラボ用だったので、もっと沢山掛けたのですが、ここでは割愛します。


「雪解けの足跡」読んでくださいまして、本当に有難う御座いました!


シリーズはまだまだ続きます!

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