その三
侘助は清次郎が寺からもらった芋やら漬物やら、吉婆からのお裾分けの玄米の握り飯やらを一通り平らげると、少しうとうととした後にぐっすりと眠ってしまった。
そうすればまるで小さな嵐が去ったようで、二人はようやくいつもの様に茶を飲み交わす。
「一体何だかねえ。起きたら帰るだろうかね」
喜市は相変わらず煙管を指に挟んで頬杖を付き、小さく寝息を上げている侘助を眺めていたが、気のせいか目許と口許が僅かに緩んで見えた。
掻いた火鉢の中で、炭がぱちりと音を立てる。
「ところで喜市殿、良くこの子の足跡がおかしなことに気付いたな。」
喜市はふと笑みを漏らすと、再び火箸で炭を持ち上げてに説いた。
行商に付いて来た割に草鞋が新しいこと。着物が良いものでありすぎることや、寒風の中行き来するにしては、頬も手も足も綺麗すぎると言うことがおかしかったのだ、と言うことらしい。
「それで奇妙に思って足跡みたら、あれだ。清次郎殿は何でも信じすぎるんだよ。ちょっとは改めたほうがいいんじゃないかね。」
「しかしそれに喜市殿はなぜ驚かぬのか。この前もそうであった。」
説明が終わるなり清次郎は矢継ぎ早に聞き、今の忠告など一切気にも止めていない様に目をらんらんと輝かせていた。
「驚いたよ」
喜市は呆れたため息をつきながらもそうと答えると、それにしては冷静だなんだと言って、清次郎は感心している。
それが何だか大げさであるように思えた喜市は気まずさを誤魔化すように額をかくと話を始めた。
「別に冷静なわけじゃない。異様だが異常ではないだけの話だよ。俺の里は山の奥で、化け物や幽霊、そんな言い伝えはごろごろしてたもんだよ」
煙が一息もうもうと吐かれると、喜市は椿の山に目を移し、まどろみかける目で頭の中の記憶を追い始めた。
「幼馴染に出雲ってやつがいてねえ。小さい頃は山遊びに連れまわされたものだ。
天狗だのなんだの信じてるやつで、天狗に会ったという話をしたら里の子供に馬鹿にされて、それからは一言もその話は話さなくなったよ。」
火鉢に火箸を差し込むと、喜市はひとつあくびをこさえた。
のんびりとしてみせる喜市とは裏腹に、清次郎は少し驚いていた。
酒も入っていないのに、こんなに自分のことを饒舌に話す喜市は初めてだし、それどころか里の話など、むしろ江戸の出でないことすら始めて聞いたのだ。
しかしそんな清次郎の様子も気づかぬように、喜市は追って出るあくびをかみ殺して話を続ける。
「でもね、俺がねあいつの帰りが遅いのを探しに山に入ったら、あいつは呆然と立っていて、「天狗だ」といってへたり込んだまま動かなかったんだ。そりゃもうしっかりした口ぶりでさ。
寝ぼけたなんざ露とも思えぬほどだったよ。それにね、何よりあいつは人をたばかるようなやつじゃあなかったんだ」
「御主も見たのか、天狗を」
清次郎は息を呑んで聞いた。
喜市は境目を彷徨っていた意識と視線を漸くこちらに戻すと、わずかに笑い目を伏せる。
「残念ながら、なかったねえ。」
はき捨てた言葉が余りに悲しげだったので、清次郎は俄かに聞いたことを後悔したが、さして気にもしていない様子で喜市は話を続ける。
「でもね、そいつは子供のくせに真面目で頑固だけど、厄介ごとも進んで請け負うお人よしで。しかし、そうだなあ、例えるなら青竹のような無垢で凛然とした子供だったよ。きっとそういう人間は、選ばれるんだなと幼心に思ったものだよ。」
そう言って喜市は清次郎の姿をぐるり一回り見ると
「ここに来てそれが間違っていないとわかったがね。」
と再び笑った。
その笑いが含んでいる意味を捉えきれない清次郎は、何のことかと目をぱちくりさせていたが、喜市の妙に嬉しそうな様を見て、やっと肩を下ろした。
傍らでは侘助の穏やかな寝息が規則正しく往復していた。