そのニ
ひんやりとした部屋の中に漂う煙草の匂いの合間を縫って、隅に積まれた椿の花と枝から、土の香りと花の香りが差し込んでくる。
その傍らには決して質がいいとは言えない紙に、墨一色の濃淡で描かれた椿が優雅に横たわっていた。
贔屓目に見ずとも見事に思える腕前に感心し、ものめずらしげにその絵を眺めていると、後ろに隠れたようになっていた男子も、じろじろと一緒になってそれを見ていた。
喜市はその視線に気づくと直ぐに、苦い顔をして紙をくしゃりと握り、隅にほうって火鉢を掻いた。
男子は少しおびえた様子を見せた後、清次郎の撫でる手に安心したのか促されるままに恐る恐る中に足を入れる。
更に引き入れられて、畳の上に腰を下ろしてもなお男子は未だ喜市を警戒しているらしく、腰が浮つき、いつでも逃げられるようにしているようだった。
じっと見つめてくるどんぐり眼に口角を上げて返すと、喜市は布団を隠している屏風をどかし、小さな二段の引き出しのついた箱から紙の包みを取り出した。
「腹の足しにはならんだろうが」
と言いながらよこしたそれを、男子は喜市の目をまじまじと見ながらそっと受け取り、包みの口を握り締めて押し黙っている。
「金平糖だよ」
喜市は先に目をそらすと、こん、と煙管の灰を火鉢に落とし、葉を詰めながら言う。
しかし男子はいまだ喜市の目をじっくりと見つめたままで紙包みをあけると、すぐにそこに入っていた白く小さな金平糖に目を奪われてしまった。
途端に男子はひょいひょいと口に運び、瞬く間にそれは少なくなっていく。
「お前、名前は」
喜市が聞くと、傍らで男子の様子を呆気に取られて見ていた清次郎は、ふと気を戻して代わりに答えた。
「侘助というのだそうだ。しかし狸というのは本当なのかい。こんなに上手く化けられるものなのかね」
以前生霊と出会ったことがあるからか、清次郎は言葉とは裏腹に大した驚きもないようだった。
それよりも、そんなこともあるのかと納得をしているような口ぶりである。
清次郎の言葉に、侘助は金平糖を頬張りながらうなづいた。
ふうん、といった感じで喜市が火鉢の炭で煙管に火をつけ、部屋には一層濃い煙草のにおいが立ち込める。
「で、こいつが狸なのはいいとして、清次郎殿は何で俺のところにきたのだ」
聞くと清次郎は恥ずかしそうに
「俺のところの火鉢が割れたので」
と頬を掻きながら答えた。
なるほど、直すにも買うにも事欠く清次郎の暮らしならば仕様がないし、その日暮らしはお互い様なので、喜市は別に攻める気もなく「そりゃあ難儀だな」とうなずくばかりだった。
それよりも新春とはいえ凍て付くような寒さの中、清次郎に何かあってもそれは困る。
問題はもう一方である。
「それで、侘助は何で付いて来たんだ」
すっかり食べつくした金平糖の包みをくしゃりと握ると、ただ短く
「腹が減ったのだ」
とだけ答えると、また喜市の目をじっと見つめ始めた。
確かに、昨年の夏の天候の悪さはあったがそれでも市場や店には、いつもと同じくらいの品が並んでいた。
それは獣の住む所とて、変わらないだろう冬への蓄えをするには十分だったはずだ。
喜市がそれを言うより早く、悟ったように侘助は口にした。
「俺らの住んでたところは、人に畑と店にされちまったよ。引っ越そうにも、隣は狐の縄張りだ。通ることはできん。
それに何だかやたらに人がいて、化けられないやつらは皆狩られた。化けられるやつだけで散り散りに逃げて出たんだ。」
余りに淡々と言ってのける侘助に、喜市と清次郎は顔を見合わせた。