その一
通りからは、人々の賑わいが引っ切り無しに聞こえて来ていて、獅子舞がいるのだろうか、笛の音と子供たちの喚声がさざなみの様に沸いている。
長屋住まいで棒手振りの喜市は、部屋に寝転んで煙管をくゆらせると、天井を見つめぼうっとまどろんでいた。
そのさなか、長屋の外から雪の融けて湿った土を踏む音がし、それが部屋の前でぴたりと止まる。
「喜市殿、いるか」
声の主を悟った喜市は
「おりません」
と半ば茶化したように返すと、煙をゆっくりと一息吐いた。
すると何やら戸外でぶつぶつと文句を言っている声の主にけらけらと笑うと、ようやく立ち上がって戸口へ出た。
「たまには普通に出たって良さそうなものだ」
戸を開けるなり、声の主である清次郎は眉間に少ししわを寄せて言った。
清次郎は喜市とは同じ長屋の向かいに住む今は無役のお侍で、年も近く何かと係わり合いになることが多い間柄だ。
「ところで。なんだ、それは」
笑いをひそめた喜市が視線をちらりと清次郎の横へと逸らした。
そこにいるのは、見たところ十に届かぬ位の歳で少年であろうか。深い藍の着物には白い格子がかかっていて仕立も良く、どうにもしていた頬被りの田舎くささには似合わなかった。
ふっくらとした頬と小さな口は子供らしい可愛さを持っていたが、まんまるい目の奥はなぜか無邪気さとは縁遠い大人びた色を浮かべていた。
総じてどこか奇妙な男子である。
「いや、吉婆に頼まれて千住の宿まで遣いに行ったのだが、帰りにこの男子に会ったのだ。
親と行商に来たのだが、はぐれて道に迷ったらしく、腹も空かせているというので連れ帰った。
何、行商の通る道に迷子の知らせをいくつか張り出しておいたから、大丈夫だろう。奉行所にも届出しておいたしな。」
にこやかに言う様に喜市は、ふうん、と気のない相槌をすると、手にした煙管で地面をぴしりと指し示した。
「おっかさんは鍋にでもされちまったのかい」
そう言って足元を指された男子はまんまるい目をさらに見開いたが、清次郎は何事か分からない様子で喜市と男子を交互に見た。
「清次郎殿、ご覧よ。これが人の足跡かねえ」
言われて清次郎は直ぐさま煙管の指す先を目で追いかけると、なるほど、雪解けで柔らかくなった道に今し方付いた清次郎の足跡の横には、およそ人間の子供のものとは思いがたい、小さな獣らしき梅の文様のような足跡が付いていた。
男子は喜市と睨み合ったまま、髪の毛をわずかに峙てじりじりと後退りを始めた。
弾かれる様にぱっと走り出そうとした刹那、清次郎は男子の細いその腕をしっかりと捕らえていた。
思いがけないことに男子は驚いて振り向くと、必死にその腕を振り払おうともがいたが、清次郎が空いた手をすっと上げると思わず首を引っ込めた。
一つや二つぶたれるのかと思ったのだろう。
しかし清次郎は上げた手を柔らかく男子の頭に置き、ニ三度あやすように叩くと
「腹が減っているのだろう」
と微笑みかけた。
清次郎の素早さと、男子を引き止めたことに驚いたのは喜市も同じだったが、その様子を見ると直ぐに慣れた様子でため息を吐き、緩んだ縞の着物の襟を正して二人を招きいれた。