8話
己が下した判断を自責し尽くしたその翌日、中庭の木のベンチに座り、俺は呆けながら空を眺めていた。
本来こんな事をしている暇も時間もある訳がない。来週までに30分を凌ぐ為のスライドを仕上げなければならない上、他講義の対策もまだまだ不十分。穴だらけだ。
そして今頃北棟では、製図実習の最後の製図課題の仕上げが行われている具合だろうか。
渡部と揉めて以来2週間連続して欠席しているので、今からのこのこ出向いてまっさらの状態から書いても間に合う訳がない。あのまま提出をすれば間違いなくあの課題は最低評価。
既に五枚の課題のうち四枚は提出済なわけなので、もしかするとお情けで落単は避けられるだろうか?
いや、あれだけの不行儀をしたのだ。その上での御涙頂戴情頼りの落単回避など、向こう側も馬鹿げているとしか思えないか。
煌々と照りつける7月終わりの熱い日差し。 だがそれは木陰が生み出す天然の冷房と、冷ややかに身体を包む風が良い塩梅に中和していた。
そんな冷風が吹くたび中庭を覆う風がコーラスの様に騒めき、思い浮かべたプレゼンの草案を掻き乱していく。
「あー…」
欠伸をしながら姿勢を変え、長ベンチの上で横になる。木製ということもあり、寝心地は良いものではないが"肩の荷を下ろす"という用途には十分適していると感じた。
「……えー………の業績の……」
近傍の棟で講師の声が僅かに聞こえてくる。が、それも草木が犇き合う音に掻き消されていく。
のどかだ。
壮大な自然が奏でる澄んだ音に対して、大それた感想など思い付かなかった。
自身の置かれている状況に反して辺りはあまりにも和やかで、その乖離が大きすぎるせいか、変に心地が眠気へと変換される。
人はあまりにも絶望的な窮地に立たされたとき、現実を受け入れることを反射的に拒み、変に冷静になるといったことを聞き齧ったことがある。まさに今がその状況なのだろう。
徐々に瞼の重みは顕著に感じられるようになり、頭が船を漕ぎ始める。
薄れゆく意識の中でふと思う。
もし初めから見返りを求めることもなく、利用することも打算せず、過剰な優しさを振り撒くこともしなければ、果たしてどうなっていたのだろうか。
結局のところ与束や上屋、そして他の友人と見做していた人間も、「自身に何かしらの恩恵があるから」という考えが根底にあるから、俺と交友関係を結んだのだろう。今後見込みが無いと思われてしまえば切られてしまうのも無理はない。
アイツらが求めていたのは自分では無い。課題や代返や講義資料の共有といった『大学生活の水準を上げる為に必要な依存先』なだけだ。
いや…当然か。自分がそうなんだから。
そういう共依存の様な関係で、友好関係を結ぼうと持ちかけたのは俺だ。
なら、与束の様な何も生み出さないゴミみたいな奴に群がる周りの人間は、何を考えて接しているんだろうか…
いや、あんな奴のことをこれ以上思う必要は無いな。1年と3ヶ月を費やして構築した人間関係が失われてしまった今、千思万考の如く思索しても単なる時間の浪費だ。
取り敢えず今は思考を放棄しよう。
そして時間がゆっくりと、自分の喉元を締め上げるのを見待ってみることにしよう。もしかするとそういう本当の死地に立たされてこそ見出せる活路があるのかもしれない。
そんな都合の良い解釈で思考を断ち切り、仮眠を取る事にした。
突如、「ガコン」という音が鳴ったかと思えば、雑草を足で踏み分ける音が初夏の風に紛れて聞こえてくる。決して長くはない時間が経たないうちに、その安息の眠りは妨げられた。どうやら誰かがこの中庭に入り込んできたらしい。
瞑られた目を再度開くと、そいつは向かい側のベンチにゆっくりと、そして進捗に腰を下ろしていた。服装は白いカッターシャツを着ており、腰が相当悪いのが顕著に見て取れる。
他人がいる中でベンチで寝そべっているのも居心地が悪いので、起き上がり別の場所に行くことにした。
「おい」
別の場所で休もうとした時、その乱入者が俺を引き止めた。聞き覚えのある声だった。
「…はい?」
「講義に行かんのか」
「…行きませんけど」
そう答えるとその男、渡部は溜息を吐いた。何故いるのかは分からないが、恐らくは偶然だろう。自分が認識している限り、この男にそこまで他人を気遣う温情は無い。
「そうか」
渡部はぽつりと呟くと、先程自販機で買った煙草を取り出して口に咥えた。
「ここ、禁煙ですよ。前のボヤ騒動で結構大事になったんで」
「ああ、知ってるとも」
「じゃあ何で吸ってるんですか」
「取引だよ」
そう言い、渡部は懐から更にライターを取り出した。
「今、お前の製図の成績はな、悪くはないんだよ。寧ろあのクラスなら上から5番以内には入ってる」
「はぁ。じゃあ僕は単位が貰えるんですか?」
「残念ながら渡す訳にはいかない。シラバスにも書いてある通り、単位取得条件は5枚全ての課題を仕上げる事を前提としてるが、お前はまだ1枚出してないからな」
「なるほど。じゃあ落単ですね」
「そうだな。そこで取引だ」
渡部は座り直して真っ直ぐに俺の方を向いた。
「今から煙草を俺は吸う。そこでお前がスマホでも何でも撮って、生活指導課にでも報告すればいい。俺は始末書を何枚も書かされる事になるだろうからな」
「そりゃ最高ですね。不届き者が痛い目に合うんですから」
「だがそれを撮ったら俺はお前に単位をやらんし譲歩もしない」
「…要件は?」
「もし今このまま俺のことを看過して今から北棟に出向き、白紙の製図用紙に名前と作品番号だけ書いてくれれば単位はやるから。勿論最低保証の成績だがな」
そう言い放つと、渡部は煙草に火を付けて吹かし始めた
「つまりヤニカスの校則違反を見逃して、今からでも講義に出ろと?」
「まぁそんな感じだな」
「いやだ、と言ったら?」
「どうもせん。お前も俺も損をするだけ」
当たり前のことを言い、渡部は再び煙草を吹かす。煙がこちら側にまで伝ってきて目に痛みを感じた。
思うところはあったが与束のことと同じく、自身に問いかけて納得出来る回答を探し出せる悠長な時間は今この場には無い。講義の終わりも刻々と迫って来ている。
「分かりました。そうしましょう」
俺は渡部の提案に承諾した。
「そうか」
最低限の返事だけして渡部はベンチから立ち上がり、缶用のゴミ箱に吸い殻を放り込んだ。
「煙草1本と現役大学生の必修科目の単位が同程度なんて…随分と不平等な取引ですね」
「そもそも俺が煙草を吸わなかったら、これはただのお情け、救済措置に成り下がるからな。わざわざ対等になるようにしたんだよ。そうでもなきゃ、講師に歯向かう様な奴のプライドがこんなこと看過しないだろ」
「いや、逆ですよ先生」
腰を摩りながら歩いていく渡部を呼び止める。
「なんだ」
「すみませんでした」
俺は頭を下げた。
「…あぁ」
渡部の声色には若干の驚嘆が混じっている様に聞こえたが、顔を上げるといつものように眉間に皺を寄せた、仏頂面の中年講師がただずんでいた。
「まぁ、お前も色々あるだろうけど頑張れよ」
そう言い、渡部は北棟に向かって歩いていった。
製図室での用を済ませた後、俺は軽食を取って作業を進めた。本当は食堂やらキッチンカーやらで少し良い食事を取り、気合いを入れたかった。が、今は1枚でもスライドを作らなければならないので、それはまたいつかの日にすることにしよう。
渡部との取引の後、『やれる所までやる』という心得のもと、結局またスライド作成を再開することにした。まだ声をかけていない友人にもダメ元で助けを求めたが、終に手伝ってくれる様な奴は俺の友人の中には存在していなかったらしい。
藁にも縋るほどの僅かな希望が打ち砕かれたので落胆こそしたが、傷が残るほど大きな失意には至らなかった。既に自分が友人達からどういった存在かを薄々理解していたからだ。
『必要かもしれないが、必須ではない存在』
要するにそういう奴に俺はなってしまったらしい。
このスライド作成以外にも期末レポートやら考査対策など、現段階ですべき事はいくらでもあった。優先順位も殆どが必修のため、捨て科目も作れず多忙を極めている。タスクは大量にある上に終わる算段もついていない。それを手伝ってくれる様な人間もいないまさに孤立無援の状態。
それでもどういう訳だか、そんな今の惨めな自分がどうしようもなく面白かった。
絶望的な状況を眼前にして、果たして自分がどこまでやれるのかという武者震いの様な、奇妙な冒険心が宿り始めているのをうっすらと感じていた。
自習室で周囲の人間が小声で談笑している最中、孤島に取り残されたかの様にただ1人で他人から押し付けられた課題をこなす。
側から見てもはっきりと分かるほど、俺は今この上なく落ちぶれている。これは否定のしようもない事実だ。
その一方で、今の崖っぷちの状況を肴に、悲劇的な自分を愛している自分がいるのもまた1つの事実だ。
課題の期限に塗れた大学が終わると、今度はバイトへ向かう。タイピングをし続けた末に指は小刻みに震えており、座りっぱなしというのも相まって体の調子は芳しくない。だが、それだけ疲弊してようが、いつも通りシフトは詰め込まれているため、行かなければならないのが現実だった。
「おはようございます」
こうして挨拶をするのは何度目になるだろうか。そんな事をふと考えながらエプロンを付ける。ロッカーに備え付けられた鏡に映る自分の顔を見ると、淀んだ瞳の下にはぼやけた鈍色の川が流れており、ここ最近の疲労を色濃く表していた。
嘆息と共に溜まっていた疲労感を吐き捨てて、エプロンと気を引き締めながらホールへと向かう。
「あぁ、なんだ威崎君か」
厨房では川内が気怠げにハンバーグを焼いていた。だが、そんな仕草の割にパートの人たちより数段上回る速さで手際よく盛り付けも同時並行でこなしていく。
「どうも川内さん、おはようご─」
「今からオーダー増えるから、威崎くん今のうちにやってないテーブルのバッシングしてきて」
「…すぐに行きます」
川内は挨拶に受け答えをするわけでもなく、そのまま流してバックの冷凍室に消えていった。そこに剽軽な様子は一切なく、寧ろ普段の事務的な言い草に安堵すら覚えた。
夕食の時間帯というのもあり、客足は止まることはなく増える一方だった。30あるテーブルのうち空いているのは僅か2席。主婦パートの従業員となんとか回しているが、目紛しい客の入退店と途切れないオーダーに脚が子鹿の様に小刻みに震え出している。その上、時折店内に響き渡る子どもの大絶叫が耳にも精神的にも参るほど喧しいのだ。
あまりにも耳障りなので客を傷付けずに伝える方法を考えたが、世の中の常識的な道理と従業員マニュアルに従うだけの人間にはあまりにもハードルが高い業務だった。
台風一過の如く、2時間ほどして客足が漸く収まり、今現在店内にいる顔ぶれの殆どが常連に成り代わっていた。
昼間は質素なものしか食べれなかったので、既に体力は低空飛行。すんでで耐えているが殆ど限界である事に変わりはない。ここら辺で賄いの1つでもご褒美がてら頂戴したいのだが、人員的にも金銭的にもそんな余裕は無い。
痙攣する脚を揉みほぐしていると、無駄に喧しい音と共にカウンター上部の電子掲示板に番号が表示された。注文主は例の高校生からだ。
オーダーを取りに向かうと、テーブルの上にはコーヒーカップが幾つも並べられ、その中でノートと赤本が小ぢんまりと広げられていた。
だが、所々に皺が寄ったページに無数の消した痕跡がある辺り、あまり捗っていない様に見える。
「お待たせ致しました。ご注文の方をお伺いします」
「あっポテト1つ…以上で」
「かしこまりました、プライドポテトが1つですね」
彼は小さく頭を下げると、また目線をノートへ戻した。碌に利益を出す訳でもない客が夜の時間帯で長時間するのは、通常であれば禁止されている行為だ。『万が一注文を行うかもしれない』という理由で、調理用機材の電源をつけ続けなければならないので、電気代の上乗せになる。その上、閉店準備にも響き店員の退勤時刻も遅くなるので、店側としては何の得も無い。
だが、この店が24時間営業のファミレスであること。長居をする客のほぼ全員が最繁時の後の入店であるため、いい暇潰しになること。マナーが良いことなどの諸々の理由が重なり看過されている。
この高校生に関してはいつもこうしてポテトとドリンクバーを頼み、2人用の座席で数時間ほど勉強をしている。こういった外での勉強は数人の学生が料理を待つ間に意識散漫の状態で行う為、大概がやる気など殆ど見せず馬鹿騒ぎするのが定石なのだが、彼に至っては気迫が違った。何かしら家に居座れない理由があるから、こうして店にいるのだろう。
出来上がったポテトの傍にケチャップの小皿を乗せて座席まで運ぶ。香ばしい匂いが空腹を促進させる。ホールの仕事をしていて客空の無茶振りやクレームの次に辛いのがこの瞬間と言っても過言ではない。
座席に着くとどういう訳か、高校生は頭を抱えたままノートを凝視していた。先程の注文を取りに行った時も声のトーンが心なしか普段より低く陰鬱な雰囲気な気がしたが、難問にでも挑んでいるのだろうか。
「お待たせいたしました。プライドポテトになります。空いているカップなどは下げても大丈夫でしょうか?」
「あっすいません、お願いします…」
強張った表情で礼を言うと、手を付ける訳でもなく再びノートに目線を落とした。いつもであればすぐにありつくはずだが、今日はそれすらもしない。
受験の天王山は夏場というのは現役時代に耳が腐るほど聞いたが、些か早すぎないだろうか。
そんな思索をしながらバックに戻り、あの席の伝票を持って行こうとしたとき、ふとあることを考えついた。
いつかのクレーマーが来たとき、あの高校生は確か後ろから撮影をしてくれていた。結果的にあの行動があったからこそ、俺はクレーマーの前でそれなりに大胆な対応に踏み込むことが出来た。
これがその恩返しになり得るのかは定かではない。それに客と個人的なやり取りをするのは面倒なことに成りかねないので、なるべく遠慮しておくべきなのだろう。
だが、借りっぱなしというのも気が引けてしまう。
悩んだ末、伝票に書き込むことにした。
廃棄処分と搬入事務、容器メンテを反復して業務をギリギリまで希釈しながら時間を消費していると、漸く休憩の時刻に入った。疲労困憊の状態で事務室に向かい、ほんの少しだけ何もせずに身体を椅子に委ねて脱力する。
あまりにも向き合いたくない現実が多すぎるが、逃避したとて現状がひとりでに改善していくことはない。
事務室の長机でノートパソコンを開く。1時間という微々たる時間ではあるものの、それが進めない免罪符にはなり得ない。
兎に角今はやる。他に考える事などない。
ただそれだけだ。
「あーつっかれた」
キーボードを叩く音に異音が混ざる。振り向くまでもない。川内が肩を回しながら乱暴にエプロンと帽子をランドリーボックスに投げ入れ、椅子にどかりと座り込んだ。
「お疲れ様です」
「お疲れ、って何してんのそれ?」
「スライド作成です。近々プレゼンがあるのでそれの準備ですね」
「はえーめんどくさそう。てか字細かっ」
川内は珍妙不可思議な物を見るかの様にパソコンを覗きこんだ。本当なら隠してやり過ごしたかったが、今は悠長なことはやっていられない。
「…どうかしました?」
「いや?ただボーっと見てるだけ」
「はぁ…」
川内はそう言うと、早く消えて欲しいという願いとは裏腹にスライドを観察し始めた。だが、1分と経たないうちに見飽きたのか、席を立ち上がり身支度を始めた。
「まぁいいや。じゃ戻るから精々頑張ってね」
労う気など全くない激励の言葉を残し、川内は部屋から出ていった。相変わらず多情を体現化した様な不可解な人だが、仕事は要領よくこなしている辺り自分より遥かに優秀なのだろう。
「お、威崎君じゃん。お疲れ様」
扉が閉まった殆ど入れ違いのタイミングで、薪浦が事務室に入ってきた。
「あっ…薪浦さんでしたか。お疲れ様です」
「ん、それ宿題?」
「はい、ちょっと…プレゼンの資料を作っておこうと思いまして」
「えらいねー。てか、俺と威崎君とシフト被るのあんまり無いよね」
爽やかな笑顔でそう言いながら、手提げをロッカーに放り込みエプロンをつけ始める。
「滝浦さんとシフトはあんまり被りませんから…確かに珍しいですね」
「まぁ平日は夜の9時ぐらいの遅い時に入るからね。一緒にいても精々1時間ぐらいかな?あ、でも威崎君、俺じゃなくて川内と一緒に入ることは結構あるよね」
「あぁ…川内さんですか。今もいますしね」
「アイツもよく働くわホント。まぁ長期休みで旅行行くからなんだろうけど」
そう言い、薪浦は呆れた様な表情をする。
「薪浦さんって厨房とかでよく川内さんと雑談してたりしますけど、バイト以外でも結構面識あるんですか?」
「川内?あーまぁ大学一緒だしね。学部違うけど高校から結構付き合い良くて、その縁がまだ今まで続いてるって感じかなぁ。そんな特別な理由があるわけじゃないけど」
「えっ川内さんと大学一緒だったんですか?」
「うん。あれ?言ってなかったっけ」
「初耳でした…」
嫌味のつもりで言ったが予想外の返答が返ってきた。まさか同じ大学に通っているとは。
「薪浦さんから見て川内さんってどんな人なんです?自分はちょっとその…不思議な感じに見えるんですけど」
「どんな感じかぁ…まぁひと言で言うなら優秀だったかな。高校時代は委員長やってたし、友達も多いし、運動神経抜群だし。何より頭がいいかな。大学受験は国立二択で迷ってたらしいからね」
「結構リーダー気質だったんですね」
「まぁね。でもアイツ、大体の友達と話している時とかはいっつもニコニコしてるのに、俺の時はめっちゃ冷やかしてくるんだよね…性格わりーって思いながら、結局一緒にいるんだけど」
満更でもなさそうに薪浦は親友の話をした。
「いい関係じゃないですか」
「まぁこういう気が置けない間柄っていうか、遠慮しなくていい方が案外いいのかもね。実際アイツと一緒にいると楽だし」
「楽…?」
「あー…もしかして威崎君、アイツのこと苦手な感じ?なんか側から見てもぎこちない感じだったし」
思わず漏れてしまった疑心を察してか、バツが悪そうに薪浦は訊ねた。
「いえ、単純に知りたいんです…どうしてあんな情緒不安定でその、険のある言い回しをするのかなぁ…と」
「んー贔屓目だからあんまり説得力ないかもしれないけど、川内は悪い奴じゃないんだよ。
アイツなりに威崎君とどうにか仲良くしようとは努力はしてるんだと思うけど、さっきも言った様に性格は良くないから、食い違ってるだけだと思うよ」
「自分と仲良く…?なんでまた…」
川内が自分と?仲良く?
食い違った単語の羅列が登場して思わず困惑する。
「何かしら気に入ったところがあるんじゃない?まぁ俺もかれこれ5年は一緒にいるけど、アイツが何考えてるかなんてまだ全然分からないからね」
「全然分からないって…そんな不確実な状態で友人になるのはリスキーじゃないですか…?裏切られる可能性だってある訳ですし」
「裏切り?え、裏切りかぁ…いや、あはは、考えもしなかったな。威崎君って結構中々面白いこと言うんだね」
薪浦はまるで子どもを宥める様に煽てた。
「まぁでもさ、誰でも踏み込んで欲しくない領域っていうか…そういう秘密の1つや2つはあると思うよ。だから無理に全てを曝け出す必要もないし、こっちから詮索する必要もない。俺の場合はまず他人の内情なんてどうでもいいけどね」
「でも結局は、内面や素性を知らずに交友関係を結んで…それで裏切られたら、費やした時間は無駄じゃないですか…」
「んー…裏切られたら裏切られたでそこまでだと思うよ。ソイツはそういう奴だったってだけで、次の友人を作ればいい」
それならその『友人』に成り代わっているだけの他人へ与える善意には、果たして何の意味があるのだろうか。ただの有難迷惑であり、自分へのリターンも罪悪感から抽出された最低限の偽善しかない。
「無駄じゃないですかそんなの。時間も労力も」
「でもそういう経験は得られる。でしょ?」
「経験は見えないじゃないですか…成果も曖昧ですし」
「何も経験だけじゃないよ?もし結果的に裏切られても、その時までは紛れもない友人で楽しかったわけでしょ?ならそれでいいじゃん」
「でもそれは…」
あまりにも楽観的な返答を繰り返す薪浦に対して、徐々に言葉が詰まる。遠回りで曖昧な表現は一切ない故に反論に困る。
「ジャンプ漫画の主人公が言うテンプレみたいな言葉だけどね、まぁ…なんていうかな…えー…なんだっけ…」
同じ様に薪浦も何故か長考し始めた。
「まぁ…なんだろ。あれだよあれ…ちょっとカッコいいこと言って、バシッと決めようとしたんだけどな…あーまぁ要するに考え過ぎなんだよ」
「考え過ぎ…?」
「うん。考え過ぎ」
「いや……え?」
あまりにも簡素な結論に言葉が出ない。
「いや、別に打算的に生きるのも全然良いと思うよ。ただまぁ…たまにはあれこれ考えるより直感的っていうか、真っ直ぐ前向いてやってみるのもアリなんじゃない?」
「真っ直ぐ…」
「そ、まっすぐ。ごめん、ちょっと語彙力終わってたかも」
薪浦は乾いた笑い声で少し窮屈だった雰囲気を和ませた。定まらなかった末に無理やり捻り出したであろう結論を誤魔化している様にも思えた。
「まぁ、そう考え込まなくてもいつか良くなるよ」
「…そうなるといいですね」
「そうなるって!大丈夫大丈夫」
本人が言ったように何の説得力も無い言葉だったが、張り詰めていた心がほんの少しだけマシになったような気がした。
7時間に及ぶ労働の末、漸く退勤し腰を伸ばす。今すぐに家へ帰らなければ疲労が精算できないほどに蓄積している。休憩明けの業務は客が少なかったとは言えど、あまりにも遅緩な時の流れに精神的な苦痛も中々のものであった。
疲労困憊で棒の様になった足を引きづりながら信号待ちをしていた時、横でビニールの擦れた音が聞こえた。
「お疲れ様です川内さん」
「あぁ、お疲れ」
川内が横に並び、1つため息を吐く。ビニール袋の中身は賄いだろうか。
特に何かを話すわけでもなく、そのまま信号が変わり歩き出す。雰囲気としては最高に悪い。特段嫌悪を川内に対して抱いているわけでもないのに、あまりにも話すことが無い。
このまま険悪な空気のまま帰るのも居心地が悪いので、何かしら話してみることにした。
「今日、お客さん凄い多かったですね」
「いや、週末の方が多かったけど。深夜は威崎君いないから分からないか」
あっさりと否定され、そのまま会話は終わる。
「それ、賄いとかですか?結構いい香りがするんですけど」
「デミハンバーグ」
「あーそれ美味しいですよね、ソースとか結構濃いですし」
「いや?安いから買った。それだけ」
またしても会話が事切れた様に突然終わる。向こうに続けさせようという意思が更々感じられない。ならいっそ話題を一新して、相手を持ち上げる内容の方が良いのだろうか。
「こんな混んでる時とかって、キッチンとかやっぱり忙しいですよね。それなのに川内さん凄い手際良くてホントにすご─」
「あのさぁ」
適当な褒め言葉を並べていたとき、川内が牽制をするかのように声を上げる。
「思ってもないことを言わなくて良くない?」
そして並べられた賞賛を一蹴した。
「いや…思っていないわけじゃないですよ、別に。ただホントに凄いなと…」
「じゃ本心?それが?なら尚更ガッカリだわ」
弁解を聞く気など更々無いかの様に川内はまた1つ溜息を吐く。何がそんなに不満なのかが俺には分からない。
そう、今に至るまで俺は全く分からなかった。川内のことを俺は分からない。分からないまま、他人を知ろうとせずに表層だけを見て、本心が曖昧な状態で共に過ごす。薪浦はそう言っていた。
分からないならどうするべきか。
確かに全てを知る必要は無いかもしれない。
だが、他人を分かった気でいて筋違いな妄言を垂れ流しながら、引き攣った笑みを浮かべるのは真に相手を理解していない。
「1つ質問なんですけど、どうしていつもそう…情緒不安定というか苛々しているんですか?」
それでも遠回しな言い方をせずに、まっすぐに伝えてみるという薪浦の教訓は為にはなったかもしれない。
俺の質問に川内は眉間に皺を寄せて応えた。言葉は無かったが、どういう感情を抱いているかは大方想像が出来た。
俺と川内は互いに顔を見つめて、或いは睨み付けた。
十数秒ほど経ち、川内は顔を離して諦観する様に一際大きな溜息を吐いた。
「威崎君友達いる?」
横目で俺を見ながら訊ねる。
「友達なら…いますけど」
「正直に」
「正直にって…いや正直に言ってますけど…」
「ホント?」
やたらと執拗に訊ねてくる川内にたじろぐ。
「まぁ…一応ホントですね」
「一応?」
「…最近全員いなくなりました」
「へぇ?」
途端に薄気味悪い顔に切り替わる。なんなんだ本当にこの人は。
「じゃあついでにもう1つ。親友はいる?もしくはいた?」
「親友、ですか…」
薪浦の理論を借りるなら、裏切られたとて友人はいた。
だが『親友』となると首を傾げてしまう。
「いや、いなかったですね…」
「そうかぁ」
てっきりまた気色の悪い微笑みを向けてくるかと思ったが、川内は小さく呟くだけだった。
「俺はね、友達が沢山いるんだよ」
「みたいですね」
「…知ってたの?」
「凄い頭がいいらしいじゃないですか。まさか本当にそうだとは思いもしませんでしたよ」
「滝浦か……言うても旧帝は入り損ねたし。結局その辺の国立行ったよ」
満更でもなさそうに川内は謙遜する。
「それで?川内さんに友人がいるのがどうかしたんですか?」
「あぁそうだったね。うん、友達はいるね。100人くらい」
「本当に友達100人出来る人初めて見ましたよ」
「んなの簡単だよ、友達の作り方なんて。適当に媚び諂って同調しておけばいい。そうすれば何人でも作れるよ。"友達"はね」
川内の瞳に切なげな色が灯る。
「大学に入ってある日気付いたんだよ。学内では大体4,5人は俺の周りにいつも人がいるんだ。毎日毎日違うメンツがシフト制みたいにコロコロ替わるのはちょっと面白いな。…まぁでも、ソイツらと帰り道を共にすることがある訳でも無いし、休日に出かけることもない。あぁでも、せめて学内で友達なら良かったんだけどな」
「友人なんじゃないんですか?その100人は」
俺の問いに佐々山は首を横に振った。
「1人を除いて全員違う。親友はおろか、友達ですら無かった。2年次になって気付いたよ。結局、アイツらが求めてたのは俺じゃない。ただ理想の条件が重なる都合の良い人間が、アイツらにとって俺だったってだけの話。レポートの模範例が見れるだとか、幹事を引き受けてくれるだとか全て下らないものだろうけどね」
川内は小さく灯りを放つファミレスを一瞥した。恐らく薪浦はまだ中で厨房の点検業務でもしているのだろう。
「多分、俺はもっとアイツに感謝すべきなんだろうな。アイツが手を差し伸べてれなかったらマジで頭が変になるところだったから」
「いい親友じゃないですか。よかったですね」
「あぁホントだよ。ただ、俺はもう1人くらい親友が欲しかったんだ。もう潰えたけど」
「へぇ…不憫ですね。何があったんですか?」
そう訊くと川内は呆れたような表情を一瞬見せたあと、静かに失笑する。何がおかしいのか。
「…もしかして、結構鈍感?威崎君」
「いいえ?どうしてそうなるんですか」
川内は笑うのをやめて、人差し指を立てた。
そしてその指を俺の視界の上部、眉間辺りに向けた。
「俺はね、親友を作るにあたって1つ条件を考えたんだよ。自画自賛する様で申し訳ないけど、まず俺は頭がいい」
「はい」
「次に大抵のスポーツはできる」
「はぁ」
「そんで人脈もある」
「へぇ…」
「彼女は─」
「で、その条件ってなんなんですか?」
川内は途中で遮られたことで少し不満気な顔をした。
「…『対等であること』だよ。俺の周りに群がってる奴等はタチの悪いことに、俺との間に優越の差がそれなりにあることを自覚してるんだよ。だから、何度も何度も褒めちぎってくる。俺はね、どうしてもそれが苦痛で仕方なかったんだ」
「だからさっきあんなに…」
「だから俺は幻滅したんだよ、威崎君にね。良い意味で君は一時期、凄い失礼な時期があった。だけどそれは俺の付加価値を見てるんじゃなくて、俺自身を見てくれてるって言うことの裏返しだ。普通の人間は優秀だと分かっている奴は勿論、素性も分かってない奴にはある程度控えめな低姿勢で接するからね」
「ん?ということは、川内さん…俺と親友になりたかったんですか?」
「うん、是非ともなりたかったね」
さらりと川内は言ってのける。
「気がそれなりに合うし、無意味な謙遜もする必要は無いから一緒にいて楽だった。…でも威崎君は萎縮しちゃったからさ。その時点でもう、対等じゃないんだよ」
「…壁凹むくらい殴る様なとこ見たら誰でもビビりますよ」
「まぁそうだね。あれは申し訳なかった。店長にも結構キレられたし」
本人は笑いながら話しているが、本音は殺されるかと思ったほどだ。
「1つ気になったんですけど、川内さんはそういう強迫的な謙遜をする事が嫌なんですよね?でも、原初の目的も『そういう媚び諂いながら一緒にいるとか疲れる』って言ってませんでした?」
「うん言ってたね。それが嫌だったから、俺は一人で生きていけるくらいの学と体力を身に付けた。そしたらどういうわけだか周りに人が湧いてきたんだよ。そこで突っ返せばよかったんだけどね…俺にはちょっと無理だったよ」
川内はやるせない表情でまた溜息を吐く。その息の中には諦観が詰まっていた。
「多分アイツらはさ、最初は純粋な善意で誉めてくれてたんだよ。でもその善意がいつしか、俺から得られる利益に対しての対価みたいになってたんだ。そんな見せかけハリボテの優しさに何の価値もありゃしないのにさ。…それでも、それすらも俺は伝えられなくて、ただニコニコしながら自分を最小限に押し縮めて、謙遜することしかできなかった」
不意に川内は俯き気味の顔を上げた。
「だからもう、やめだ。謙遜はやめ。善意はもう、受け取れない」
口角を無理矢理上げながらそう豪語する様に言う川内を見て、抱いていた羨望が消えていくのを感じた。
自己研磨だの他人より自分が大事だの信用がどうだの言っておきながら、結局自身を取り繕うために身に付けた装飾で寄ってきた人間を、手放すことが出来なかった曖昧さ。
俺はそんな川内幻滅していた。
「そうですか」
そう言って、近くにある自販機に俺は近づく。そしてコーヒー缶2本を買った。
1本は徹夜に向けた自分への喝。
もう1本は─
「じゃあ俺からの善意です、これ」
川内に向けて振り投げる。缶は宙を回りながら舞ったのち、川内の手元に丁度良く落ちる。
「俺、ちょっとは尊敬してましたよ。性格こそ悪いですけど、一匹狼みたいに孤独を愛せる人だって。でも実際は、自分で巻いた餌に纏わり付く獲物に喰われるようなみっともない人で…正直言ってがっかりしました」
面と向かって真っ直ぐに川内に吐露する。
川内は呆気に取られた表情をしていたのちに、一度長めの瞬きをすると溜息を吐いた。
一際大きな溜息だった。
「今のさ、あれだよ。幻影旅団のクロロの『俺たちからのレクイエムです』になんか似てなかった?」
「クロロ…?ケロロ軍曹みたいな?」
「違う違う、ジャンプのH×Hの。知らない?」
「いや…聞いたことはありますけど…読んだことないんで…」
「マジ?知らないの?え、じゃあゼノシルバ戦うとことかは?」
畳み掛けるように話す川内。相変わらず緩急が激し過ぎる。
「全く分からないです。というか会話のキャッチボールでナックル投げないでください」
「えーマジかぁ…薪浦なら分かったんだけどなぁ…」
「薪浦さんとは同い年だからでしょうに。俺と2人じゃ1つ年離れてるじゃないですか」
「でもたかが1歳違いだよ。だからこそ、俺と威崎君の間にそんなに差はなかったんだよ」
不意に川内は喪失感溢れる顔をした。
“親友にそこまで拘る必要は無いじゃないですか"と、言えば少しは川内の気が楽になるのだろうか。
だがその言葉が出てくる事は無い。
「まぁ、じゃあこれからもこれまでもバイト仲間ですね」
「……だね」
少し遅れて川内も賛同した。
「あー…そういえば、1つ聞きたいんだけど。最近佐々山ちゃんどうしたの?」
「…佐々山さんですか?」
「うん。ここのとこなんか会わないなぁって。なんか知ってる?」
「いえ….」
完全に否定し切る前に過去の会話が脳裏に反芻する。
『知っているんだろ』
翻訳するとこうだ。純粋と思えた問いかけの裏には、淀んだ糾弾が見え隠れしている。
「ん?どしたの」
「いや、知っているわけじゃないんですけど、その…」
「その?」
別に俺は佐々山に対して何か危害を加えたわけじゃない。ただ、自分を抑圧する意味が無いから、偽って取り繕うことをやめただけだ。
なら俺は何故拒むことを躊躇っているのか。
「…原因になるかもしれないことなら」
歯軋りをしながら答える。口の中にいつかの苦味が溢れ始める。
「へー。で、因みに来ない理由は?」
詮索するように川内は会話を続ける。
「ちょっと口論になったので。それだけです」
「口論?」
「口論というか…」
口が渇く。
苦味も増す。苦汁が口内に溢れていく。
「もしー?」
追憶をする。
佐々山の模範的な振る舞いには確かに反吐が出ていた。行動から垣間見えるあのあざとさをどうしても受容することができなかった。
だが、それはただの起因でしかない。
本当に嫌悪すべき対象を俺は始めから理解していた。
「もし」
「うん?」
「もし、片方の意見を捩じ伏せながら、片方の意見の正当性を主張することが口論というなら…ただそれだけの話です。他に何もありません」
そうして俺は口を噤む。
これ以上話すことは何も言うことはない。話した所でそれはただの尾鰭がついた蛇足の弁明、自己弁護の都合の良い言い訳として働くだけだ。
俺と同様に川内も何も話さない。目を細めて長身から俺を見下すだけだ。失望している様にも納得している様にも見えた。
「あそう」
そして沈黙が破られる。
延々と感じた時間は実際には信号が1周期をしただけだ。
「まぁ俺も事情よく分からないけど、うまくやりなよ」
川内は何か言及するわけでもなく、ただそのまま自分の帰路と逆の方向を歩いていった。
1人になった俺はため息を吐いた。安心感ゆえにか、溜め込んだ不安を一度放出するためかは分からない。
結局のところ俺は何も分からなかった。
他人を見る目も無ければ、秀でた話術もなく、洞察力も本質を見抜けない半端もの。
何も分かっていない。他人はおろか、自分のことすらも。
そんな無知な自分が今出来ることは何なのか。それを考える時間が必要だ。