4話
あのクレーマーの件の週末、俺は駅前の広場の噴水前に座り込みながら辺りをぼんやりと見ていた。
俺は人を待っている時や退屈な時は大体人間観察をしている様な気がする。それくらいしかやる事が無いというのもあるが、他人の顔色を伺う事がもはや頭に染み付いてしまっているというのもある。
「お待たせー」
声の方向に目をやると、白色の灰色のカーディガンにワイドタックパンツを着こなした佐々山がいた。
「あ、おはようございます。綺麗ですね」
「全部適当に揃えたいヤツだけどね。似合ってる?」
「似合ってます。凄い可愛いですよ」
「なら良かったー」
口に出しておいてなんだが、可愛いというよりも格好良さと妖艶さが佐々山を構成していて、年かさは1歳以上ある様にすら思えた。
「それじゃあ行こっかー」
約束通り、俺達は簡易なデートを始める事にした。
昨晩の別れ際、佐々山が提案をしてきた。あのクレーム客とのいざこざを含め、俺に何か恩返しをしてこの件をきっちり清算したいとのことだった。
それなら『昼食を共にする』、『景色が綺麗な場所に行く』など、一方的に佐々山が案を出していくうちにこうして殆どデートという体にまとまってしまった。
しまった、と言っても特段佐々山に苦手意識がある訳でも無く、普段連んでいる与束や柿島たちと過ごすより何倍も有意義な時間になることだろう。
だが何か引っかかる事がある。
駅から5分ほど歩き続けて、俺たちは小洒落たカフェの前へやってきた。
店名は"Monte Bianco"。外に出ているショーケースの料理名を見るに、学校のカフェより何倍も魅力的だった。
「入ろっか」
「はい」
中に入ると外装の雰囲気とは変わり、思いの外温かみがある内装に感じた。木造の床や家具に、心地の良い音を立てる大きな古時計、背後に流れるのは流行りの曲でもなくピアノのクラッシック。一度も行ったことはないのにも関わらず、何故か懐かしい気分になる。
「はーいいらっしゃい。好きな席使ってねー」
温かみのある嗄れた声がレジ奥から聞こえてきた。老人が店員なのだろうか。
「思ってたより落ち着いた感じですね」
「前来たときに食事を摂るならここしかないと思って。量も結構多いし」
「客層も普段のバイト先を見てるのもあって、穏やかですよね」
周りを見渡しても本を読みながらコーヒーを啜っていたり、何かノートに書き込んでいたりと、昨今では見かけない光景がそこにはあった。
「勢弥君は何頼む?私はグラタン頼むけど」
「あー…俺はじゃあ、えーと…」
メニュー表をパラパラと捲ると、写真の代わりに絵本のような料理の絵がズラリと載っていた。サンドイッチやデザート類、パスタ、ピザ等など殆どのライトミールは網羅されている。
「あ、そうそう。今日は私の奢りだから。遠慮なく頼んでね」
中々注文を決められずにいると、佐々山は優しそうな顔で言った。
「そんな、流石に悪いんで大丈夫ですよ。これくらいは─」
「払うからいいよ。色々とお世話になったからね。ほら、面目丸潰れになっちゃうから協力すると思って」
「それなら…分かりました」
訳の分からない取り決めをし、結局俺はデミグラスオムライスを頼む事にした。
ベルを押すと厨房から腰のかなり曲がった老婆が出てきた。足が悪いのか、引き摺りながら
俺たちのテーブルの前にやってくる。
「はぁーい、どうぞぉー」
はにかみながら老婆は注文を取り始めた。といってもエプロンのポケットから出てきたのは、端末機でもなくメモ帳と万年筆だったが。
老婆は注文を取りお辞儀なのかどうか分からない礼をした後、足を引き摺って厨房へと戻っていった。
「…なんていうか、凄くこう…古風というか、今時の眩しい感じのカフェじゃないですね、ここ」
「私も最初たまたま来た時はよくあるありきたりな所かと思ってさ。でも店に入ってみればびっくり仰天。全然違ったんだ。なんていうか実家にいる感じがする」
「それ、俺も思いました。懐古感くすぐられるっていうか。来たことないのに来た感じ…あー言うなら学校の図書館みたいな静けさがあります」
「あー分かる分かる。完全な静寂って訳じゃない感じがねー。でも私がこの店を気に入ってる1番の理由はあれだよね」
そう話す佐々山の視線は厨房に向いていた。顔を向けると、中では先程の老婆が料理をしていた。すると奥からもう1人姿勢の悪い老人が出てきた。老婆はその人に気付くと抱きしめ、老人もそれに応えるように抱きしめた。
「夫婦なんだよね、あの2人」
「和みますね、あの年になっても愛し合ってるのは」
「…そうだねぇ」
佐々山はどこか歯切れの悪い返事をした。
暫くして老婆が料理をカートに乗せながら現れた。
「お待たせぇーはいこっちがグラタンね、でーこっちがオムライス」
「あっ…ありがとうございます」
「ありがとうございますーおかあさん」
「お母さんだなんてそんなあんたもうワタシ80になるって」
そう笑いながら料理を俺たちの前へ移していく。前情報は聞いてはいたが、確かに量は多い。オムライスのソースには角切りの牛肉がゴロゴロ入っているし、佐々山のグラタンには写真には映ってなかった拳大のバケットが4〜5個付いている。
「これは…思ってたより結構多いですね」
「あーもしねぇ、食べ切れんかったら持ち帰りの容器に詰め直すからねぇ、心配せんでも大丈夫だよ」
老婆は顔をくしゃくしゃにしながら笑った。気遣いも良いあたり佐々山がこの店を気にいるのもよく分かる。
「それじゃ、いただきまーす」
「いただきます」
口の中にひと口、オムライスを入れるとほがらかな味わいが広がる。デミグラスソースは薄過ぎず濃過ぎずクリーミー、卵はふんわりトロトロの2種類の舌触りが楽しい。そしてソースに紛れた牛肉が良いアクセントになり、チキンライスに混ざった野菜がそれらをしっかりとまとめていた。
佐々山のグラタンを見ると、上に焦げ目の付いたチーズがぎっしりと乗っていて重たそうに見えたが、中には野菜が詰まっているためペロリと食べられそうな様子だ。
結局俺はオムライスを全て平らげ、佐々山は残りのバケットを持って帰ることにした。
「すみません…結局奢ってもらって」
「いやいや大丈夫!それにしても美味しかったよねーさっきの。ちょっとパンは多かったけど、ついでにジャム貰えたし明日の朝食にしようかな」
店を出た後、佐々山と暫く辺りを散策することにした。元々昼食以外の目的地を殆ど決めていなかったという事もあり、予定調和という言葉に拘束されずに比較的リラックスしながら散策を楽しめた。
「勢弥くんここ入ってみよー」
比較的。比べる対象がいつものヤツらというのもあるが、周りの意思に従いながら行動するのではなく、自分の意思で他人と行動を共にするのは存外疲れるという事を知った。
それは精神面とかの見えないモノではないので不快ではないが。
「あ、ここも入ってみようよ」
まさか佐々山の趣味がマラソンで、中学高校時代に駅伝部に所属していたのは流石に予想外だった。そのおかげで、俺はかれこれ20件ほどの売店に立ち寄りながら5kmは離れた次の駅まで歩く羽目になっている。
だが不思議と、俺の心情は脚の状態と違い浮世立っているのが現状だ。
そんな観光街の店々をハシゴしている最中、先導する佐々山はある店の前で歩みを止めた。
「…どうしました?」
「いや、ここ綺麗だなーって」
そこは真っ白の建物だった。入り口の横には棚が並んでおり数十冊の本が並んでいる。
『塔井麻弓の憩い画廊』
壁にはそんなポスターが貼ってあった。
「画廊、ギャラリーですか。入ってみますか」
「うん…」
呟く様に佐々山は頷いた。
中に入ると心地よい鈴の音と共に、無数のキャンバス画が目に飛び込んできた。
「白いですね」
「うん。真っ白」
館内は照明も白く、イーゼルも白く、床も、椅子も、絵画以外の全ての物が白くて圧巻の光景だった。だからこそ、肝心の絵が際立っている。
暫く鑑賞を続けていると、キャンバスに描かれているものが全て花の絵という事に気が付いた。瓶に入った一輪の花、同じ種類だけの花畑や様々な種類が混じり合った花、鮮やかで彩り豊かな花の絵だけがその画廊には沢山ある。
だが数分ほど見回って、俺は早々に飽き始めていた。“ただ綺麗だ"という感想しか出てこないのだ。
首を傾げようが、立ち位置を変えようが意味は無い。そもそも芸術鑑賞などこれが人生初な訳でどう見ればいいのか分からないというのが本音なわけだ。
だが佐々山は俺とは真逆な様で、この時間を存分に満喫しており、今は1つの絵の前に釘付けになっている。
「佐々山さんは美術館とかよく行くんですか?」
「うん…たまにかな」
試しに話しかけてみたが反応は希薄だった。
目の前に飾られた絵がそこまで素晴らしいものなのか。
佐々山が先程から見続けている絵は、白やピンクの花畑の中に鳥籠の様な物が描かれており、その中には数匹の鳥がいる。
そして更にその周りには一回り大きな籠が描かれている。つまり籠の中に籠が入っているという状態。
タイトルは『秘密』、ただの絵だった。
そう、どこまで行っても絵である。俺が見る限り。
芸術というのは受け取る側の感受性が成熟しない限り、ただの絵という観点で終わってしまう。
「どう…です…か?」
嘆息が漏れそうな時、か細い声が背後から聞こえた。反射的にその場2,3歩退く。
振り返ると真っ白の服を着て、首にはデジカメの様な物をぶら下げている若年の女性が立っていた。
「あっ…スタッフさんですか?」
「…ここの画伯です…塔井と…申します」
恐る恐る尋ねると予想外の解答が返ってきた。まさか作者本人だったとは。
塔井さんは俺の前に通り過ぎると佐々山の隣に移動し、そのまま共に絵画を見つめた。
「この絵の花はウツギです……花言葉は秘密で…」
「秘密?」
「はい…中心に在る籠は自己の殻……つまるところ…これは他人への像です」
途切れ途切れな上、今にも消えかかりそうな話し方で塔井は注釈を入れる。だが俺はこの絵からは相変わらず何も感じない。佐々山はというと、塔井さんの話に時折頷き先程から突っ立っているだけだ。
「鳥は…籠の外へ行き…ウツギに触れる事は叶わない…だから籠の扉をほんの少しだけ…開けてあげるんです…そうする事で……鳥は秘密に触れられる…ある程度の秘密に…それでも…まだ籠は続く…」
塔井は説明をするが、佐々山が喋る気配は無かった。
「…絵画は…自由です……受け取り方なんて人によっては…違うんですから…貴方が私に解釈を求めたところで……貴方の求めているものにならないでしょう…そちらのお兄さんは…分かりましたか…?」
塔井さんの答えと呼べるか分からない発言に俺は首を傾げるだけだが、佐々山は納得したらしかった。
「……強いて言うなら…この絵はどこまで…他人に自分の内面を曝け出すか……という事でしょうか…」
「あぁ、それなら少し…なんか…分かった様な気がします」
俺の反応に塔井さんの顔から憂いが少し減り、ほんのりと笑みを滲ませた。
「最初の籠の扉は開きやすいんです…周りに在るウツギの数は少ないですから…見せる秘密も少ない…でもその周りを覆い囲む次の檻は…徐々に開かれにくくなっていく…秘密が増えていきますから……」
「ここに来てその…1つ思ったんですが、塔井さんは白が好きなんですか?」
「…あ…いえ…そうわけではないです…ただその…これを撮る為に…」
そう言うと、首に掛けていたデジカメの画面を見せた。そこにはこの画廊に訪れた客の姿が映っている。
「……絵なんです…」
「え?」
「あっ…いや……えと…言い換えるとこの建物は…キャンバスという事に…なります」
「キャンバス…」
「つまりね、私たちを含めたこの景色そのものが作品って事なんだと思うよ」
いまいちピンと来ない俺に佐々山が補足をしてくれた。隣で塔井さんがキツツキの様に何度も頷いている。
「背景は…この画廊には…展示されているキャンバスくらいしか…なり得ないです…でもそれでいいんです……情報なんて少ない方が…私の絵の主題が花みたいに……ここに訪れてくれる貴方達を中心に…写真が撮れれば…」
「なるほど…それで、この景色は良い作品になりそうですか?」
「…はい…悪い作品なんて…この世には1つも…ありません。全ての作品には…意味があります…」
そう言い、塔井さんははにかむ。
見かけと口調に依らずポジティブな人だ。出まかせで言っている様な感じもしなければ、本当にそうなって欲しいという切実な願望の様に聞こえる。
そんな所がどこか佐々山と似ている様な気がした。
画廊を出た後、俺たちは最後の目的地である展望台へといき街を一望する事にした。別に展望台である必要など無い。なんとなくお開きの時に様になるだろうという愚直な考えからだ。
「見て見てー地平線凄いよ!」
佐々山は沈む太陽の方向を見ながら言った。
「永遠に続いてるみたいに見えますね。終わりがないみたいに」
「こうやって見るとホントに地球って丸いのかなって思っちゃう。ま、あんまり高くないっていうのもあるんだろうけど」
「一部の人は地球が平らだって信じてるみたいですよ。昔の天動説みたいに」
「ほえー…もし真っ平だったら、世界一周とかどうなっちゃうんだろ。裏側いくのかな」
気が抜けるような話題を佐々山は楽しそうに話し続ける。思い返せば、今日の行き先の大半は俺ではなく佐々山が決めていた。
俺は他人とどこかへ外出をするという事を、『自身の行動が制限される』などという理由から最低限の付き合いを除き、出来る限り疎んでいた。
だが、今日佐々山と過ごしても窮屈な感覚を味わう事も無く、充実感を保ったまま1日が終わろうとしている。
ひと通り屋上からの景色を眺めた後、俺たちは売店でソフトクリームを買った。
「勢弥くんの何味?」
「自分はいちごです。甘酸っぱい感じが好きなので。食べます?」
「え!いいの?じゃ私のもあげるーはい、あーん」
否応なしに佐々山はスプーンを差し出す。間接キスだとかそういうのはあまり気にしない人間だと自負しているが、いざこのシチュエーションに遭遇してみると、気恥ずかしくなってしまうのも無理はない。
「…美味しいです」
「良かった良かった!じゃあ私もひとくち頂戴しようかな」
「あっすみません。どうぞ」
俺はソフトクリームを差し出したが、佐々山は不服そうな顔をしながら首を傾げた。
「…どうかしました?」
「んー?真似しないのかなーって」
「えっ……」
言葉に詰まる。佐々山が意地悪そうな笑みを浮かべ、長い髪を垂らしながら見つめてくる。
「……はい」
おずおずとスプーンを差し出すと、佐々山は
ゆっくりと口を閉じて咀嚼した。その姿はハムスターの様な小動物を彷彿とさせると共に、少し艶めかしい感じがした。
「ありがとね」
佐々山は変わらない温かな笑顔を向けながら礼を言う。むず痒くなる様な照れ臭さが身体に伝わっていく。
「今日は凄い…楽しかったですね。沢山色々な場所見れましたし」
「うん、楽しかった。でもちょっと振り回しちゃって悪いなぁ。勢弥君最後の方のたい焼き屋さんとかのとき、凄いげんなりした感じだったからさ」
「あっいえ全然…ただ佐々山さんが大学で駅伝部だなのは意外でしたけど…」
「趣味の一環で入ってるだけだよー。ある程度身体動かさなきゃ鈍っちゃうからさ。まぁ現役でバリバリやってた頃の走りはもう無理だけどね」
佐々山はズボンを捲り、名残惜しげに自分の足を見つめた。細く引き締まった脹脛が、数多の道を駆け抜けてきたのが素人目でも分かる。
「…あの、こんな事言うのもなんですけど、もう大会とか出たりしないんですか?」
「んー出ないかなぁ。疲れちゃったんだよね、なんていうか」
「あぁーまぁ流石に何kmも走り続けてたら疲れちゃいますし…」
「あー違う違う。そういう事じゃないの」
佐々山は1つ小さな溜息を吐いた。
「元々私は陸上で長距離やってたんだけどね、そこで駅伝部からオファーがかかって。そこでそれなりにうまくやってた…いや、うまくやってるつもりになってたって言うべきかな」
「何かあったんですか?」
「んー駅伝ってほぼ個人戦みたいなものなんだけど、形式的には団体戦だからさ。まぁなんていうかさ、メンバー間でギクシャクしちゃってそれで…疲れちゃったんだ」
"ギクシャク"という曖昧な表現で佐々山は話したが、恐らくは煩わしい人間関係のいざこざなんだろう。
「あーすみません。変なこと聞いちゃって」
「いやいやこっちこそ!ただちょっと今日不安だったからさ」
「不安?」
「あー…私凄い方向音痴だし、柄にもないことベラベラ言っちゃうし、ひとつの事に無駄に熱中しちゃうし、色々迷惑かけたりとかしてないかな…って」
佐々山は再び溜息を吐く。それは失望ややるせない感情を吐露しているというよりも、安堵を噛み締めている様だった。もしかすると、今日度々見せていた気鬱な表情はそういう意味だったのかもしれない。
「佐々山さんでもそんな事考えたりするんですね。バイトのときとかは、なんか悩みなんてなさそうで、いつも明るくてポジティブな感じがしたんですけど…」
「前にも言ったかもしれないけどね、それは私がやりたい様にやった結果が、勢弥君から見てポジティブに見えてるだけだよ。んー…上手く言語化するのが難しいな」
佐々山が顳顬辺りを突く。
「結局のところね、場の空気を険悪にしない様に取り繕う行動を取り続けても、結局自分を抑制する事はできないんだって気付いたんだ。なら、いっそのことそういうのは止めにして、伸び伸びやってみようかなって。…それでもさ、不安なものは不安なんだ。変だよね、自分を優先するのに相手を不快にしてないかーとかって考えちゃうの」
「俺は別に不快とは思いませんよ。寧ろ自然体で接してくれた方が楽っていうか…」
「勢弥君ならそう言うと思ったよ。優しいからさ」
捲し立てる様に話したあと、佐々山は一息つき、溶け始めたソフトクリームを食べた。
「ごめんね、なんか微妙な空気にしちゃって。あーやめやめこんな話!」
そう言って佐々山はベンチから立ち上がり身体を伸ばした。華奢だが軸がしっかりしているボディラインが陽に照らされ浮き彫りになる。
「あ、それと意外と言えば私も1つあるよ。勢弥君のことでね」
「…と、言いますと?」
「意外と鈍感なんだなぁって」
「鈍感…ですか。個人的には神経質っていうか、結構アンテナ張り巡らせてるつもりなんですけど」
そう言い解いている最中、佐々山はこちらに指をさしていた。
「…どうかしましたか?」
俺の言葉を気に留めることもなく佐々山は前屈みになった。長い髪の隙間から橙の光がステンドガラスに照らされた様に視界に差し込む。
そして指を俺の顔へと近づけていくと、そのまま唇周りの部分に押し当てて、なぞり始めた。
「ほらね」
指を離すと、腹の部分にはピンク色のクリームが付いていた。
「訂正します…たしかに鈍感ですね」
「あはは、やっぱり勢弥君は生真面目だねー」
陽に照らされ、茶髪から黄金色に変色した髪を靡かせながら佐々山は言った。まぁ、楽しそうならそれでいいか。
「それじゃあキリもいいし、そろそろこの辺でお開きにしよっか。歩き過ぎて勢弥君の体調崩したらアレでし」
「俺の足はちょっとだけキツイですけど大丈夫ですよ。バイトでずっとホールやってきてるんで、足腰は強い方です」
「結構体力あるんだね勢弥君。またいつか誘っても大丈夫?」
「あ、はい。機会があればぜひ」
「ホント!?やったー!じゃあ次は山登りでもしてみよっかなぁって。ウソウソ冗談だよ!」
「冗談でちょっと安心しましたよ…」
俺の肩を叩きながら佐々山は茶化した。
「それじゃ、次のバイトでね。ありがとう勢弥君」
「はい。佐々山さんもありがとうございました」
か細い手をひらひらと振りながら、佐々山は展望台の出口に向かっていった。靡くセミロングの髪と眩い夕陽が幻想的な風情を作り出しており、改めて彼女の美貌に惹かれた。
そんな後ろ姿を眺めていると、階段に繋がる扉の前で佐々山は不意に一度立ち止まった。
そして振り返ると今日一番の満面の笑みを顔に浮かべて、先程より大振りで手を振った。
「またねーー!」
度々佐々山が見せる、真夏に咲く向日葵を彷彿とさせる晴れやかな笑顔。
恐らく彼女は俺に対して好意的な感情を持っているのだろう。
だが俺にはそれが愛想笑いに見えてしまうほど、他人を信用することができなかった。