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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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くたばれモラハラクソ野郎

「あのー、セブンスター下さい」

「セブンスターのどれですか?」

「えっ」

 想定していなかった質問に驚いて顔を上げると、無表情の店員の奥にある棚に、Seven Starsと書かれた色違いの箱がいくつも並べてあった。思い返してみると確かに西谷は、セブンスターのうんたらかんたら、みたいに言っていたような気がする。だが俺は煙草なんて吸ったことも無ければ当然買ったこともないから、聞き覚えのあるセブンスターという単語しか聴き取れずにそのまま買いに出てしまった、あの時すぐに聞き返せば済む話だったのに。と、俺は10分前の自分を呪うと同時に、煙草の存在自体を呪った。

「じゃあ……一番人気のやつで。すみません」

 そう言うと、店員は棚から緑色の箱を出してきた。その瞬間、西谷の怒号が幻聴として鼓膜の奥に聞こえた。種類こそ知らないが、少なくとも西谷が白い箱から煙草を取り出して吸っているのは何度も目にしているし、あいつが帰った後にその空き箱がシンクに放置されているのをいつも舌打ちしながらゴミ箱に捨てているのだから、あの忌まわしき白は目に焼き付いている。

 だけど一番人気のやつと注文して出してもらった手前、それじゃないですなんてもう言えなくて、俺は黙って600円払って店を出た。

 西谷の待つ部屋へ向かう帰り道、後悔が泥のように足にまとわりつく。別のコンビニへ行って買い直そうか、しかし白い箱のものの中にもいくつか種類があるようだったし、正解の煙草は未だ特定できていない。600円。俺の一日の食費と同じくらいの値段だ。誤って購入した分の金はどうせ俺が負担することになるのだから、二箱間違えて買ったとしたら、それは寿命を二日削られるのと同じことだ。あいつは人からの連絡にほとんど気づかないので、電話して聞くこともできない。何よりあいつの性格上、待たされることを一番嫌う。どうせ怒られるならば、その理由は最小限に留めておいた方が良い。そのように判断した俺は、この緑のセブンスターを西谷に渡すことにした。

 そう腹を括ったつもりでも、溜息が止まらなかった。


 深呼吸をしてからゆっくりとドアノブを捻り、極力音が立たないよう慎重に扉を開ける。一瞬あいつの姿が見えなかったので、もしかして帰ったのではと淡い期待を抱いたが、当然そんなはずもなく西谷は台所の前に座ってギターの弦を交換していた。そっと靴を脱いで中に入るが、西谷は俺が帰ってきたのに気づいていないのかそれとも気づいた上で無視しているのか、こちらに構う様子もなく黙々と作業に取り組んでいる。絵に描いたような抜き足と差し足で、台所と反対側の奥の方へ行き、静かに床に腰を下ろした。自分の部屋だというのに何でこんなに居心地の悪い思いをしなければならないのかと、ギターを触っているあいつを一方的に睨むと、急にぱっと顔を上げた西谷と目が合った。俺は素早く目を逸らした。

「岡田。煙草は?」

 何だその口の利き方は、と心の中では威勢よく怒鳴るも当然それを現実にする度胸はなく、俺は黙って上着のポケットから緑の箱を取り出し、西谷に向かって投げた。それが緩やかな弧を描いて奴の手の中に入ったと思ったら、次の瞬間、弾丸のような速度でこちらに向かって飛んできた。本能で目を瞑り身をすくめた俺の頭上で、アザラシが投身自殺したような音がして、そっと瞼を開けると、目の前に煙草がばらばらと雨のように降ってきた。最後に潰れた箱が膝の上に落ちた。

「メンソールじゃねえか」

 西谷はギターを床に置いて立ち上がり、ジャージのズボンのポケットに手を突っ込むと、中から銀色のライターを取り出した。炙り殺される。そう思った俺は声にならない悲鳴を喉奥にくすぶらせて、こちらに向かって歩いてくる西谷から逃れようと、後ろの壁にめりこむくらい後ずさりした。だが奴はすぐに近くまで来て、俺と視線を合わせるようしゃがみこむと、襟に引っかかっていた煙草を一本拾い上げ、小さく震える俺の口に差し込んだ。

「吸ってみて」

 金属が擦れるような音が響いて、ライターに火が点いた。嫌なオイルの匂いが漂ってくる。頭が真っ白になった俺は、言われるがまま煙草の先端を小さく揺らめく火に近づけた。細い煙が立ち、口の中に仄かな苦みが流れ込んでくる。それを肺に吸い込もうとした時、目の前の火が消えて、煙草が口から離れた。

「やっぱいいや。喉悪くされると迷惑だし」

 西谷は、取った煙草を自分の口に咥え、立ち上がった。台所に戻って換気扇をつけると、その回転する羽に向かって煙を吐き、「不味い」と呟いた。

 俺は恐怖と緊張でバクバク鳴る心臓を右手で押さえながら、左手で潰れた箱を戻し、頭と体の上に散らばった煙草をその中に詰め込んだ。服の中に入ったのは汗でぐっしょりと濡れて、もう火も点きそうにない。

 何て情けないのだろう。ヤクザでもない年下の男の一挙手一投足に怯え切って、煙草を買いに行かされることの屈辱さえも、ろくに感じられないでいるなんて。

 せめて、ここで何か言い返してやらなければ、すっかり縮んだ俺のプライドもいよいよ使い物にならなくなる気がして、俺は19本の煙草を詰め込んだくしゃくしゃの箱をポケットの中で握り潰し、思い切って口を開いた。

「次からは自分で買いに行けよ。俺、煙草とかわかんないからさ」

 今の俺にはこれが精一杯だった。握った手の平の内側がじんわりと湿ってくる。

 シンクに腰掛けてギターをいじっていた西谷は、俺を一瞥した後すぐに視線を手元に戻し、煙草を咥えたまま言った。

「じゃ、今度からはジュース買いに行かせるわ」

 

 座ったままうたた寝していたら、いきなり肩を叩かれて目が覚めた。膝の上にはメンテナンスを終えたギターが乗っかっている。

「ああ、ありがと」

 寝ぼけ眼でギターケースを探していると、西谷が玄関に歩いていき、立てかけてあった自分のベースを背負った。やっと帰ってくれる、と清々しい気持ちでその背中を見守っていたら、西谷がこちらを振り返って言った。

「練習行くぞ」

 一気に目が冴えた。俺は焦って食い下がる。

「練習は一昨日やったじゃん。今日はミーティングだけって話だったろ」

「だって矢崎の奴が来ねえから」

 時計を見ると、五時を過ぎている。俺らは今日、四時にこの家に集まるということで約束をしていたのだった。

「遅刻してるだけだろ。練習行った後に矢崎が来ちゃったらどうすんだよ」

「連絡してみろ」

 どういう訳か西谷は他のメンバーと連絡先を交換しないので、こいつが何か伝えたいこと等があるときには常に俺を介して連絡を取ることになっている。何でこんな面倒なことをしなければならないのかと思いつつ矢崎に電話を掛けた。だが、なかなか電話に出てくれず、三回掛け直したが留守番電話サービスの音声が三回耳元で流れただけだった。

「繋がんないな」

 寝過ごしているのか、それとも今まさに電車でこちらに向かっているところで、電話に出られないのか。いや、もしかして、事故にでも遭ったのではないか。不安になってもう一度掛け直したら、鳴り続ける発信音の傍らで西谷が淡々と言った。

「飛んだな」

 再び自動音声が流れ出した。西谷のその言葉に、流石の俺も反論をぶつける。

「そんなことする奴じゃないだろ。無断でグループを抜けるなんて、あんな真面目な矢崎がする訳ないって」

 すると西谷が、呆れたように俺に一瞥をくれた。

「お前、俺よりあいつとの付き合い長いだろ」

「そうだよ。それがどうしたんだよ」

「あいつ、ちょっと前から怪しかったじゃねえか」

 そう言われて、俺はここ最近の矢崎の行動を思い返してみた。だが特に不自然な点は思い当たらず、改めて西谷に言い返そうとしたその時、ふと脳裏に二週間前の出来事が蘇った。その詳細を思い出すうちに、全身の毛穴から冷たい汗が噴き出してきた。


 それは、ライブが終わった後に他のバンドのメンバー達と打ち上げをしているときのことだった。俺らのいたテーブルでは、例によって不参加の西谷の話題で持ちきりだった。

「キミのところのベース、ホント天才だよね。作詞作曲もあの子でしょ?」

 そう聞いてきたのは、インディーズバンドとしてもう10年近く活動している坂井さんという人だった。

「はい」

「つい調べちゃったんだけど、キミたちってYouTubeのチャンネルも持ってないよね? メジャーデビューとか考えてないの?」

 一人で相手するにはなかなかにしんどい相手だと悟り、俺は斜向かいに座っている矢崎に視線を送ったが、あいつは俯いて料理にも手を付けず、ししおどしみたいな動きで酒を飲み続けている。

「いや、俺ら……俺のスキルがまだ足りてないんですよね。今はあいつがって言うより、俺らの特訓期間って感じで」

 坂井さんは俺の目を見て、何も言わずにただ小刻みに頷いた。これは実際に西谷が打ち出した方針で、お前らが世に出せるレベルになるまでは一切メディアに出ないと、俺らに向かって言ってきたのだ。だから俺らの出番の前には撮影禁止のアナウンスが流れる。実績の無い一介のインディーズバンドごときが運営にそんな要求をしたら普通は干されるものだが、西谷の才能がそれを通してしまう。

「打ち上げとか一回も来たことないっすよね。何でなんすか?」

 坂井さんの隣に座っていたマミカさんという人がそう尋ねてきた。彼女はすっかり酔っぱらった様子で坂井さんの肩に手を回している。

「ああ、なんか、あんまりこういう場が好きじゃないらしくて」

 今頃あいつはライブ後にいつもそうするように、ファンの女の子とラブホテルに行っているだろう。そんなことを、同業者の中でもとびきり口の軽い彼らに話すわけにはいかないし、何より西谷から直接口止めもされているので、俺は毎回こんな風に茶を濁している。

「何もしかしてマミちゃん、あの子のこと狙ってんの?」

「当たり前じゃん、ヤリたいに決まってんでしょ!」

 場がわっと盛り上がる。慣れない雰囲気に耐えかねて矢崎の方を見ると、あいつは相変わらず一言も発さずに酒を飲み続けている。そのペースがちょっと異常に感じたので、俺は矢崎に声を掛けた。

「大丈夫かお前。飲みすぎじゃねえ?」

「大丈夫だよ。大丈夫……」

 そう言いつつも、奴の顔面はもう赤を通り越して紫と化している。こんな風に酔っているのは見たことがないので、心配になった俺は用事があると噓をつき、矢崎を連れて店を出た。

 まともに歩けない矢崎を支え、タクシーのある場所まで向かっていると、ずっと黙っていたあいつが呂律の回らない口で呟いた。

「お前、西谷のことどう思う」

 唐突な質問に、俺はそこまで深く考えずに先程の打ち上げでの評判を繰り返した。

「才能ある奴だなと思うよ」

 するとあいつは、真っ赤に充血した目で俺を睨んだ。

「それはバンドマンとしてのあいつだろ。人間としてどう思うかって話」

 その迫力に気圧された俺は、日頃言わない本音をつい口に出した。

「……まあ、好きではないよ」

「そうか。俺は大嫌いだよ。殺してやりたいと思ってる」

 俺が躊躇いながら言ったのをぶった切るような勢いでそう吐き捨てた。そしてそのまま凄い熱量で捲し立てた。

「この前な、お前がスタジオに来る前、あいつと二人きりになったんだよ。いつもの調子でダメ出しされて、それはまあ黙って聞いてたんだよ。心の中で死ね死ね死ねって思いながらな。でもさ、途中から、俺の人間性まで否定するようなことまで言ってきやがって。流石にカチンときてな、『お前に何がわかるんだよ』っつったんだよ。そしたらあいつ、何て言ったと思う」

「何て言ったんだよ」

「『お前みたいな底の浅い人間は何人も見てきた。だから、大体のことはもうわかる』、つったんだ。ショックでそれ以上何も言えなくなってる俺を見て、あいつ、鼻で笑ってたよ……」

 そのときの光景が脳内にありありと浮かぶ。いかにもあいつの言いそうな台詞だ。

「何だその程度か、って思ってるだろお前」

「いや」

 正直なところ当たっていた。もし俺が矢崎にそう言われたら、ショックを受けるどころか、確かにそうだと納得してしまいそうな気がする。

「お前、感覚がおかしくなってるよ。あいつに洗脳されてんだよ」

「洗脳って。大袈裟だよ」

「そう思うのは、お前がとっくに洗脳されてるからだろ。俺、お前の友達だから言うけどな、あいつとは今すぐ縁を切った方がいい。じゃないと、取り返しのつかないことになる……」

 俯いた矢崎の顔から滴が落ちた。まさか、泣いているのかと驚いていると、顔を上げた奴の口から、涎がだらだらと流れていた。

「お前、相当酔っぱらってんな」

 俺はそんな風にあいつをいなし、タクシーに乗せてそのまま帰らせた。

 矢崎とは、俺が三年前まで組んでいたバンドにサポートメンバーとして入ってくれたことがきっかけで知り合った。音楽の趣味が合い、笑いのツボなんかも似ていて、俺にとっては当時のバンドメンバーよりもずっと仲の良い友人だった。俺が西谷のバンドにギターとして入った後、ボーカルとドラムが立て続けに辞め、新しく加入したメンバーも定着せず、それを矢崎に相談したところ、あいつは西谷の人間性を不安視しつつも、ドラムとして加入することを決めてくれた。今から九ヶ月前のことだった。

 矢崎はあの夜、俺と別れた後、タクシーの窓の外に流れる風景を見ながら何を思っていたのだろう。

「またドラマー募集しとけ。練習行くぞ」

 もう一度、通話を試みた。だがスピーカーから聞こえてくるのは、相変わらず留守番電話サービスの機械的な音声だけだった。


[newpage]


 楽器演奏のできるカラオケで、ギターを弾きながら歌う俺の横で西谷はじっと目を瞑っている。いっそ眠り込んでいてくれと願いつつこいつが作った曲を演奏していると、サビに入ったところで西谷が瞼を閉じたまま片手を上げた。すぐに演奏を中断し、テーブルに置いてあるノートとペンを手に持った。

「お前、サビになるとテンション上がって全体的に雑になる癖あるんだよ。パフォーマンスが落ちるのは大前提として、馬鹿みたいで見てられねえから直せ。もう一回最初から」

 言われたことをノートに書き殴り、ペンをギターに替えてまた演奏を始めた。すると今度はAメロの途中でまた手が上がった。

「全然ダメ。最初から」

 ノートに"ぜんぜんだめ"と綴り、またギターを手に持った。白い紙の上に並んだその文字をぼんやりと眺めながら演奏していたら、次第に手が震えてきて、それを紛らわすために声を張ろうとしたら思い切り裏返った。

 案の定、西谷の手が上がったので動きを止め、ペンを手に持ち身を固くして説教を待っていると、その手はそのまま俺のギターの方に伸びてきて、ネックを掴んだ。

「貸せ」

 そう言って組んだ足の上にギターを構え、にわかに演奏を始めた。

 前奏から既に、一つ一つの音に込められた意味の存在を感じ、自分が弾いていたときとは全く違う曲に聴こえる。歌詞が無くても、譜面に仕掛けられた意図が、名探偵の推理を聞いているみたいにするすると頭の中に入ってくる。正確なのは勿論のこと、普段の西谷の冷酷な振る舞いからは想像もできない情緒的な音が、絶え間なく弦から生まれてくる。表現者としてのこいつと人間としてのあいつは、全くの別人だ。

 最後の一音が鳴り終えた後、俺は思わず手を叩いた。

 その瞬間、目の前のテーブルがいきなり倒れて物凄い音がした。驚いていると、いつの間にかギターから離していた奴の手が俺の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。動揺する視界の中、怒りに光る奴の瞳が振り回した花火のように線を描く。

「なに拍手なんかしてんだ。お前は客じゃなくて演者なんだぞ。その意識が無い奴は何年練習したって無意味なんだよ!」

 先程までギターの弦が繊細に震わせていた空気が、西谷の怒鳴り声で一気に張り詰めた。上手く息が吸えない。

「一人で練習してろ。しばらくてめえのギターは聴きたくねえ」

 そう言って西谷は、一度も使っていないベースを担いで部屋から出て行った。

 取り残された俺は、退室時間が来るまでの間、DAMチャンネルで知らないアーティストが明るく喋っているのをただ眺めていた。


[newpage]


 メンバー募集サイトに自分たちのバンド名を載せて投稿していたところ、ほんの数日で加入希望のメッセージが何件も届いた。俺達のことを知ってくれているのか、というより西谷のことを知っているのか、知っていたとすれば奴がメンバーを次々に辞めさせていくような人間であることも知っているのか。そういった諸々のことを確かめるためにも、彼らと一度会ってみる必要がある。日程調整のため、俺はとりあえず西谷に着信を入れてみた。運が良ければ五回目くらいで出るだろう。

『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』

 耳を疑った。俺が普段聞かされるのは、『お掛けになった電話は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため掛かりません』であって、こんなアナウンスは耳にしたことがない。発信履歴を確かめるが、間違いなく西谷の番号に掛けている。もう一度通話を試みるが、やはり同じ音声が流れた。駄目元であいつがほとんど見ないLINEからも電話を掛けてみたが、やはり繋がらない。西谷との連絡手段はこれ以外に無い。無論、住所も知らない。

 鼓動がどんどん速くなる。最悪な想像を振り払うように、スマホを胸の前に持ったまま部屋の中をしきりに行ったり来たりしていたが、不安は影のようにまとわりついてその色を濃くしていく。矢崎の憎悪に満ちた表情、俺への強い怒りがこもった西谷の声、不甲斐ない俺の演奏。そうした記憶の全てが、この不穏な現在に繋がっているように感じ、自分の存在ごと嘔吐しそうになる。

 その時、携帯が震え出した。見ると画面には、知らない番号が表示されている。

「もしもし」

 普段なら登録していない番号からの着信なんて無視するところだが、俺は一瞬の迷いもなく通話に出ていた。

「岡田か」

 西谷の声だった。腹の底から溜息が湧き出る。

「お前……殺されたかと思った」

「はあ。頭おかしいんじゃねえの。クスリやってんのか」

 突き放すように言う奴の声を聞いて、ようやく少し頭が冷えた。仮に西谷が殺されていたとしても、西谷の電話番号まで後を追うわけではない。

 ここのところ自分の身に起きた諸々の出来事、とりわけ矢崎のことで、俺の精神状態は気づかないうちに危ないところまで来ているのだろうか。病院で処方される方の"クスリ"を飲むことも真剣に検討すべき時がそろそろ来ているのかもしれない。

「番号、変わったのか」

「毎日毎日馬鹿みたいに公衆電話から掛かってくるからな」

「公衆電話? 何それ」

「着拒したメンヘラ女だろ」

 それを聞くと、西谷が殺されたという錯乱した俺の思い付きもあながちただの妄想で済まなかったかもしれないと思った。

「でもちょうど良かった。俺ちょうどお前に連絡しようと思ってたんだよ。ドラマーの応募があったから」

「ああそれ全部断っといて。知り合いから紹介があって、そいつ入れることにしたから。じゃ」

 通話が切れた。

 何の相談も無しにそんな重大な決断をしたことが信じられず、俺はすぐに着信履歴の一番上にある番号を押して通話を試みた。

『お掛けになった電話は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため掛かりません』

 この状況で俺は、西谷に殺意をおぼえられれば良かったのに、心中には虚しさだけが拡がっていた。


[newpage]


 バイトが終わり、夕陽が赤く照らす街の中を歩いていると、古いカラオケ店が目に入った。いつもは風景に溶け込んでいるそれが、今日の自分にはひどく魅力的なものに映って、街灯に吸い寄せられる夜の虫のように店内に吸い込まれていった。

 部屋に入ると、まず学生時代によく聴いていたバンドの曲を入れた。西谷の作った曲でないものをカラオケで歌うのはとても久し振りだ。当時流行っていたからというだけの理由で友達にCDを借り、軽音楽部の定期公演でも演奏した。現在、彼らがどんな活動をしているか知らないし、調べようという気にもならない。曲中に画面に流れる汎用性の高いドラマと、情緒の無い太い字で書かれた歌詞が、妙に心を落ち着かせる。歌い終わると点数が表示された。90点。ちょっと歌の好きな素人程度の歌唱力だ。

 俺が初めて西谷を見たのは、バンドとして活動を始めて約二か月後に参加した、小さなライブでのことだった。あいつらの出番中、客の異様な盛り上がりが楽屋にまで伝わってきて、他のメンバーと一緒に袖に見に行くと、才能の違いそれ自体が音楽を奏でていた。

 当時のあいつの担当はギターボーカルだった。ギターは勿論のこと、歌もインディーズとは思えないほど段違いに上手かった。それから数か月後に西谷を見たときには、あいつはベースを弾いていた。正直、音楽を聴いていて、ベースが上手いとか下手とか思ったことは無かったのだが、そんな俺でもわかるくらいあいつの演奏は上手かった。神なんて信じていないけど、奴は音楽の神に愛されているとしか思えなかった。こんな才能、すぐに世間に見つかって、あっという間に爆売れするのだろうと、純粋に他人事として感心を向けていた。

 西谷のバンドからギターが脱退し、メンバーを募集しているという情報を耳にしたとき、俺はただその才能に乗っかって売れてやろうというだけの軽い気持ちであいつに声を掛けた。俺の他にも応募した人間は多くいたはずだが、選考には案外あっさりと通りメンバー入りが決まった。その時の俺は、西谷から受ける精神的苦痛は勿論のこと、才能のある奴とバンドを組むことで担う責任やのしかかる重圧というものについても、全く考えが及んでいなかった。

 ライブの当日、ボーカルと連絡が付かなくなり、急遽誰かが代わりに歌わなければならなくなったとき、俺は少し珍しい形とはいえベースボーカルになるのだろうと思い、楽屋で少し仲の良い他の演者たちと呑気に駄弁っていたら、本番10分前になって急に、西谷が俺にボーカルをやらせると伝えてきた。

 当然、俺は猛反対した。だがあいつは「もし断るならメンバーから外す」と言い、ほとんど脅すような形で俺にボーカルをやらせた。その時まで俺は歌詞もちゃんと覚えていなかったから、全く勉強してこなかった奴が試験前の休み時間で教科書を目に焼き付けるみたいに、西谷から渡された歌詞カードを10分足らずで必死に頭に詰め込んだ。結果、何とか歌い切ることはできたものの、そちらに意識を集中しすぎてギターの方はグダグダになってしまった。出番が終わって楽屋に戻った後も、自分の指の強張った感覚がまだ残っていた。

「何で俺に歌わせたんだよ。お前が書いた歌詞なんだから、お前が歌えば良かっただろ!」

 俺は西谷を責めた。大声で奴に怒鳴った。今考えると恐ろしいことをしていると思うが、当時は今ほど力関係がはっきりしていなかったし、何よりその時の俺は自分の演奏のまずさを自覚していて、ひどくバツが悪かったのだ。

 生まれて初めて人に怒鳴り、両足ががくがく震えている俺を、あいつはソファに深く腰を掛けたまま、表情も変えず悠然と見上げて言った。

「俺よりお前のが華がある。そう思ってお前にボーカルを任せたんだけど」

 けど、それは間違っていた。そう続くのだろうと容易に予測ができ、こんなことを言われるくらいなら、ボーカルを任せると言われたときに断ってそのままバンドを抜けてしまえば良かったと思った。だが今度こそ、西谷がその言葉を口にした瞬間に脱退を叩きつけようと決心し、奴が口を開くのと同時に俺は大きく息を吸いこんだ。

「やっぱり間違ってない。さっきそう確信した。だからお前、これからもギターボーカルな」

 予想していなかった言葉にむせかえった。楽屋の端っこで知らん顔していたドラマーの吉岡も、明らかに怪訝な表情をこちらに向けた。

 西谷より華があるなんて、冷静に考えればそんなはずは無いとわかるのだが、単純な俺はそう言われて機嫌を良くし、とはいえ先程怒鳴った手前わかりやすく喜ぶわけにもいかず、渋々了承するというポーズを取りつつギターボーカルとしてやっていくことを受け入れた。吉岡が脱退したのは、その翌日のことだった。

 それから約二年間、俺は心のどこかで自分の内なるスター性がいつの日か開花することを信じながら、西谷の厳しい指導に耐えてきた。だが現状はあいつの言ったそれとは程遠く、俺が真ん中でギターを弾いて歌っている間、客の意識はほとんど西谷に向いている。同業者だったり、音楽がわかる奴ほどあいつに夢中になる。才能が無いことなんて自分が一番よく知っているのに、中心に立つことで下手なくせに目立とうとしている痛い奴みたいになっているのが本当に恥ずかしい。

 俺は時折、西谷という男の正体は、音楽の才能が無い奴を潰すために地上にやって来た天界人なのではないか、なんて想像することがある。見込みが無いくせに夢ばかり見ている奴を自分のバンドに引き入れ、指導と称してストレスを与え続けることで、音楽家としての道を自ら諦めるよう導いているのではないか、と。

 俺は、そんな妄想の中で犠牲になった自分の二年間を供養するように、カラオケで一人喉が潰れそうになるまで歌い続けた。


[newpage]


 携帯のアラームで目が覚めたと思ったら、部屋に差し込む光の色が、朝陽らしい淡さをすっかり欠いている感じがして、時計を見るともう昼の一時過ぎだった。こんな日に限って天気は良く、失われた爽やかな朝を惜しみつつアラームを止めようとすると、画面には先日変わった西谷の携帯番号が表示されている。

 長閑だった部屋の風景が、一気に絶望でフラッシュした。今日の午後一時、西谷とカラオケに集合して練習する予定になっていたのだ。現実から目を背けたくてしばらく着信を無視していたが、一向に鳴りやむ気配が無いので、俺は人差し指をスマホの上に身投げさせるような気持ちで通話を押した。

「おい何してんだ。集合時間とっくに過ぎてんぞ」

 西谷のその口調からは、多少の苛立ちを感じたものの思っていたよりは普通だった。しかしそれがかえって余計に恐怖をおぼえさせる。油断してカラオケに足をのこのこ運んだら、扉を開けた瞬間にマイクが顔面めがけて飛んでくるかもしれない。

「ごめん、その……」

 俺は自分の声に驚いて二の句が継げなくなった。鎌鼬が喉にもぐりこんで暴れたのかというくらい、声はぐしゃぐしゃでボロボロだ。昨日の一人カラオケで、本当に喉が潰れてしまったらしい。

「何だその声。酷いぞ」

 西谷に本当のことを言うわけにもいかず、少し逡巡した後、考え得る最も無難な言い訳をした。

「風邪かも。ちょっと体もだるい感じするし」

「体調管理すらできないのかお前」

「それは本当ごめん。途中でのど飴買ってくるから、ちょっと遅れる」

「もういい、来んな」

 一瞬、西谷が何を言っているのかさっぱりわからなかった。徐々にその短い言葉の意味が脳内で明らかになるにつれ、自分の顔がみるみるうちに明るくなっていくのが、鏡を見るまでもなくわかる。

「えっ、いいの」

 つい高揚してしまったが、幸い喉が潰れていたおかげでそのテンションは向こうに伝わっていないようだった。

「喋りもすんな。来週のライブまでに治せよ」

 そう言って通話が切れた。

 俺は布団の上で雄叫びをあげた。その勢いのまま立ち上がり、箪笥から服を引っ張り出して着替え、鞄を持って外に出た。自転車を漕いで駅に行き、練習場所にしているカラオケのある場所とは反対方向に走っていく電車に乗った。

 車窓に流れる空は見事に晴れている。今日はバイトも無い。朝の占いは見逃したけど、今日ばかりはどの番組でも一位に違いなかった。


 勢いで町まで出たものの、特に具体的な用事があって来たわけではないので何をしようか迷ってしまった。昼食どころか朝食もまだだから、どこか店に入ろうと思うけど、朝食べていないからがっつり食べられるところに行きたい気もするし、むしろお腹の準備態勢が整っていないから軽いものの方が良いような気もする。そんな些細な悩みも愛おしくすら感じ、こういった日々が死ぬまで永遠に続けば良いのに、そして空もずっと晴れていれば良いのにと思った。

 駅前の商店街を一往復して考えた結果、手書きの看板が出ているタイプの喫茶店に入った。客はちらほらいるが、程よく間隔を空けて座れるくらいの混雑具合だ。奥の方のテーブルに案内されて座ると、これもまた一枚一枚手で書いたであろうメニューに、サンドイッチにパスタにハヤシライス、果てにはエビピラフの文字までも並んでいる。どれにしようか悩んでいると、斜向かいに座っていた一人客の男が手を挙げた。

「すみません、注文いいですか」

 その声に妙に聞き覚えがあり、店主にハヤシライスを頼んでいる姿を盗み見すると、男はこんがりと焼いたパンみたいな顔をハットの下に覗かせ、花柄のシャツに白のジーパンを履いている。以前共演したバンドマンかライブの主催者だろうかと、記憶の中を探りつつ様子を窺っていたら、店主が離れた瞬間にその男と目が合った。

「岡田? 岡田か?」

 名前まで知っているということは、かなり関係性のある相手だ。俺は必死で脳内のアルバムを捲り倒した。すると不意に、自分のよく知っている人物が頭に思い浮かんだ。その二人の顔を照らし合わせる。

「矢崎じゃん!」

 驚きと喜びで思わず大声を出してしまった。店主や他の客からの視線を感じるが、それに構っている余裕は無かった。

「おい、声どうしたよ。大丈夫か?」

 矢崎が目を見開いて笑う。最初こそ雰囲気が変わっていて誰だかわからなかったが、その表情や話し方を見ると矢崎その人に違いない。俺は席を立ち歩いてその傍に行った。

「いや、ちょっと昨日ストレス発散に一人でカラオケ行ったら喉壊しちゃって」

「まじかよ。西谷がまた何か言ってくんじゃねえの?」

「風邪ひいたって嘘ついたら、今度のライブまでに絶対治せって。まあでも、いいや。どうでもいいよあいつのことは。色々話したいし話聞きたいんだよ。時間ある?」

「うん、全然いける。ここ座りなよ」

 そう促され、矢崎の座っている向かいの椅子に座った。

「注文した?」

「いや、まだしてない。迷っててさ。この店よく来るの?」

「いや、初めて。岡田は?」

「俺も初めて。この駅あんまり使わないからさ」

「そうだよな。じゃあ本当に奇跡的な再会だったんだな」

「本当だよ。お前ずっと連絡つかないし」

 矢崎はバツが悪そうに少し俯いて苦笑した。

「ごめんごめん。もう俺どうしても西谷と縁切りたくて。番号もあの後すぐ変えたんだ」

「そう。まあ今日ここで会えたしいいけどさ。あれから何してたんだよ」

「一昨日までハワイ行ってた」

「ハワイ?」

 慣れないその単語を復唱したら喉に突っかかって咳き込んだ。

「落ち着けよ。別に旅行じゃないし」

「じゃあ、何でハワイなんか」

「彼女の両親に会いに行ってたんだよ」

「彼女の……ハワイに?」

「その人達の別荘がハワイにあってさ」

「お前の付き合ってた人って海外の方だったっけ?」

「いや、みんな日本人。別荘ってだけだから」

「へえ……」

「お待たせしました。ハヤシライスです」

 テーブルの上に出来立てのハヤシライスが置かれた。矢崎が左手で持つ銀色のスプーンが、つやつやと光るソースに差し込まれる。

「俺もそこは初めて行ったんだけど、やっぱ凄いねハワイは。何か日本で悩んでたこととか全部馬鹿らしくなるっていうか」

「そうなんだ」

「ああ。音楽もさ、ハワイに住む人たちにとっては生活の一部なんだよ。歩いていると色んなところからウクレレの音色が聴こえてきて、見たらすごいちっちゃい子とかが楽しそうに演奏してんの。人と音楽との関係って、本来こうあるべきなんだろうなって思ったね。日本みたいに競い合って富やら名声やらを獲得する手段にしてんのって、本当に不健全だよ。そう思わねえ?」

 ソースの表面から立ち上る湯気が、矢崎の顔を霞ませている。俺は曖昧に相槌を打った。

「なあ、お前も遊びに来いよ」

「え? どこに」

「ハワイにだよ。ハワイにある別荘に」

「はあ? いや、流石にそれは申し訳ないっていうか無理だよ。言ったら、お前の将来の奥さんの家だろ? 俺なんか行ったら迷惑すぎるって」

「あの人たち優しいから歓迎してくれるよ。一緒に音楽やってたって言ったらなおさら」

「でも……」

 いきなりの提案に戸惑っていると、矢崎はスプーンを皿の上に置き、俺の目をじっと見据えた。

「ただし、条件が一つ」

「条件?」

「西谷と縁切れ。お前さっきの話だと、まだあいつとバンド組んでんだろ。俺、あいつのこと大嫌いだからさ。あんな奴とつるんでるお前のことまで嫌いになりそう」

 そう言って空々しく笑うと、再び料理に手を付けた。長い沈黙が流れる俺らの間で、スプーンが皿に当たる高い音だけが鳴っている。

 数分後、ハヤシライスを平らげた口をナプキンで拭うと、申し訳なさそうに俺に言った。

「ごめん、そろそろ行かなきゃ。バンド時代にお世話になってた職場の人に挨拶行くことになっててさ」

 そして、テーブルの下に置いてあったキャリーケースを開けた。その中から洒落た瓶を取り出し、俺の前に置いた。

「これお前にやるよ、ハワイのウィスキー。結構美味いんだよ」

「え? いやそれ、今から会う人に渡すやつじゃないのかよ」

「いいよいいよ、他にも土産買ってあるし。あ、そうだ。すみません、ペンあります?」

 矢崎はカウンターにいた店主からペンを借りると、新しく取ったナプキンの裏に走り書きして俺に渡した。

「これ、俺の新しい電話番号。何かあったらいつでも連絡しろよ。じゃあまた」

 伝票を片手にキャリーケースを転がし去っていく背中に、「ありがとう」と言った。その掠れた声が、矢崎に届いていたかどうかわからないまま、一人残されたテーブルでぼんやりと座っていると、店主がハヤシライスの皿を片付けに来た。

「何か注文されますか」

「あ、えっと……じゃあ、コーヒーお願いします」

「すいません、うちはコーヒー無いんですよ」

 喫茶店でこんなに多くのメニューがあるのにコーヒーが無いなんて、ただでさえ感情の居所がわからないのでいるのにますます混乱する。

 結局、何も注文せずに店を出て、そのまま電車に乗り家に帰った。時刻はまだ午後三時前だった。


[newpage]


 寝そべって、時計の針が回るのをいくら眺めていても腹が空きそうにないので、俺は矢崎から貰った酒を飲んでみることにした。空きっ腹に酒は良くないと言うが、ハワイのウィスキーとやらがどんなものなのかが気になるし、何よりせっかく自由になった今日の日をこのままで終わらせたくないという気持ちで、ガラスのコップに黄褐色の液体を注いだ。

 ウィスキーなんてほとんど飲んだことが無いので、恐る恐るといった感じで口に運んだら、思いのほか口当たりが良くて飲みやすく、甘みがあって後味がスパイシーな感じもかなり好みだ。コップはすぐに空になり、俺は手酌でどんどん飲み進めた。


 時計の針は徒に回転する。全人類が、ぐるぐる回るあの針に催眠をかけられていて、本当は存在しない時間なんてものを信じて肉体や精神を老いさせているのだ。その事実に俺だけが気づいている。だから俺だけは年を取らない。そんな考えが唐突に浮かぶ。そういえば昨日は俺の誕生日だった。誰も祝ってくれていないけれど。20代半ばに差し掛かり、去年までは半年に一度くらい米やお菓子を送ってきてくれていた親も、とうとう誕生日にすら連絡を寄越さなくなった。それも、両親が時計の催眠にかけられているせいだ。俺に年齢なんてあってないようなものなのだから、年齢が理由で夢を諦めるなんてことは有り得ない。才能が無いとわかっていても、俺は永遠に音楽を続けたい。

 だがそれも、音楽に対する愛が永遠に持続すればの話だ。俺が一番恐れているのは、夢追い人のまま富も名声も得られずに一生を終えることではなく、音楽が嫌いになることだ。矢崎の言葉を思い出す。焼きパン顔の方の矢崎ではなく、顔面真紫の矢崎の言葉だ。「あいつとは今すぐ縁を切った方がいい。じゃないと、取り返しのつかないことになる……」。初めてギターボーカルを任されたときの、指の強張りを思い出す。その日のうちに動くようになったけど、そのときの生々しい感触を指はまだ覚えている。カラオケで西谷の怒鳴られたときの、張り詰めた空気を思い出す。空気が無いところに音楽は生まれない。息が吸えなければ歌は歌えない。この世界から空気を失いようにするためには何をするべきか。CO2の削減、他の惑星への移住、あるいは。

 駄目だ、考えることは苦手だ。ウィスキーの瓶を傾けると、ガラスの口から滴が落ち、コップの底で静かに跳ねた。俺は部屋の窓辺に倒れていたギターを手に取った。何の曲というわけでもなく適当に鳴らすと、弦の表面から、何やら小さな球のようなものが浮かんだ。その球は部屋の中をぴこぴこと泳ぎ、最後には俺の手首にくっついた。目に近づけて見たら、それは小さなおたまじゃくしだった。何だか面白くなって、弦を滅茶苦茶に鳴らしたら、どんどんどんどんおたまじゃくしが生まれて俺の体に引っ付いてくる。

 段々と全身がむず痒くなってくる。どうやらこの不思議な生き物は、俺の肉体を齧っているらしい。酷くくすぐったくて、俺は床を転げ回って大笑いした。おたまじゃくしは俺の体をひとしきり食らって満足すると、合体して一匹の蛙になった。鮮やかな緑色をしたその蛙が部屋の中を飛び回るのを、這って追いかける。俺のスマホの上で休憩している蛙を捕まえてやろうと、その背中に素早く手の平をかぶせたが、向こうの方が一枚上手で、さっと逃げられてしまった。自分の手には携帯電話が握られている。

 何の気なしに電源を入れ、西谷に電話を掛けた。十数回のコールの後にあいつが出た。俺は言った。

「俺、バンド辞めるわ」

 すぐ通話を切った。


[newpage]


 着信音が鳴り続ける中、俺はリュックに荷物を詰め込んでいた。財布、通帳、イヤホン、パジャマ、お菓子、目覚まし時計。プレステも持っていきたいが重いので、本体は置いてソフトだけ持っていくことにする。ギターケースを背負い、靴を履いて外に出ようとしたら、まだ握っていないドアノブが勝手に回り出した。不思議な現象に首を傾げていると、ばこん。と大きな音がして、開いた扉の奥から伸びてきた手が俺のその首を掴んだ。

「取り消せ」

 そんな声が聞こえたと同時に、息苦しさと身体の裏側の痛みが襲ってきた。視界は滅茶苦茶で、天井の照明が俺の足の裏を照らし、床の上に落ちていたプレステの本体が巨大化して俺の眼前に迫っている。すると自分の右手の先に、先程の蛙がぴょこんと飛んできたので、腕を伸ばして捕まえようとすると、自分のものではない足がそれを踏み潰してしまった。あっ、と思いその足が離れるところを見守っているとその蛙は、潰れたセブンスターの緑色の箱に変わっていた。

 その瞬間、全てが現実に切り替わった。ぎらぎら光る西谷の目に、床に倒れて首を押さえられている俺の姿が映っている。煙草の匂いのする息が絶え間なく顔に吐きかけられる。奴の首の後ろから流れてきた汗が顎先で滴になり、俺の鼻先に落ちた。

「取り消せ!」

 俺は小さく頭を振った。首を押さえる手の力が強くなる。必死で息を吸う自分の喉がひゅるひゅる鳴っているのが、遠くの花火の音のように聴こえる。

「だって」

 潰れた喉の奥から声を絞り出すと、西谷が首から手を離した。肺が勝手に空気を吸い込んで吐きだす。

「だって俺、このままじゃ幸せになれない」

 ようやく少し呼吸が落ち着いたところで、西谷の目を見ながら言った。すると奴は俺の耳の横で思い切り床を殴った。

「お前みたいな奴が普通に生きてて幸せになれるとでも思ってんのか。どこまで頭が悪ぃんだよてめえは!」

 声の振動で全身の皮膚がびりびりと震える。だが、俺の心は不思議なほど動じず、汗で濡れた鼻を自分の袖で拭った。

「お前に何がわかるんだよ」

 自然と、矢崎が西谷に言ったという台詞を繰り返していた。それに言い返そうと口を開いた西谷の言葉を遮るように俺は続けた。

「お前みたいな底の浅い人間は何人も見てきたからもうわかる。そう言いたいんだろ」

 図星だったのか、西谷は言葉を詰まらせる。

「ああその通りだよ。俺は浅くて、頭が悪くて、才能が無い。だからもう解放してくれよ。お前という人間から、解放してくれ」

 皮肉を込めて懇願してみせると、西谷はしばらく黙って俺の顔を見つめた後、天井を仰いで長いため息をついた。そして「わかった」と呟いた。

 俺は深い安堵に包まれた。これでようやく、自由に好きな音楽がやれる。

 そう思っていたら、西谷が信じられない言葉を口にした。

「その代わりお前、二度と音楽やるな」

 怒りで頭が真っ白になった。俺は身体を起こし、奴の胸ぐらを掴んだ。

「はあ? 何だそれ。お前に何の権限があんだよ」

「才能が無いんだろ。だったら音楽やっても無駄だから辞めろっつってんだよ」

「俺は音楽が大好きなんだよ、大嫌いなお前とさえやってなければな!」

 甲高い破砕音が鳴り、視界の端に銀河が見えた。その眩しさに瞼を閉じると、流星がパラパラと細かい音を立てながら顔面に降ってきた。音が止み、目を開けると、西谷の手に割れた酒瓶が握られている。

 それを目にした俺の頭の中には、あの鋭く尖った先端が自分の喉に突き刺さる映像が瞬時に浮かんだ。全身から血の気が引いていく。

「バンド辞めるって言葉、取り消せ」

 瓶の内側にまとわりついた酒がしきりに下へと流れていく。よく見ると、西谷の手も震えていた。

 それに気づいた途端、自分の感情が急激に冷めていくのを感じた。

「嫌だ」

 ざくっ、と肉が裂ける嫌な音がして、俺はまた目を瞑った。まだ自覚されない痛みが、肉体に一挙に押し寄せてくるのを怯えて待っていたら、鼻の頭に温かい感触があった。それが頬、額、唇といった具合に拡がっていくので、不思議に思い目を開けると、赤い滴が眼前に落ちてきた。

 一瞬、何が起こっているのかわからず、俺は西谷を見上げた。奴は割れた瓶の先端を自分の方に向け、肩で息をしながら遠くの方を見つめている。顎の下あたりから首筋にかけて蛇行している赤い線は、鎖骨の上でみるみるうちに膨らみ、また顔の上に落ちてくる。

 呆然としてその光景を眺めていると、鋭利な先端が再び西谷の首の肉めがけて進むのを見て、俺は咄嗟に瓶を持っている奴の腕を掴んで首から引き離した。

 それでも奴は瓶を自分の首に引き寄せようとする。狂っている。まるで化物に憑りつかているかのようだ。同情でも、愛情でもなく、あまりの恐ろしさに耐えかねて俺は、遂にその言葉を口にした。

「わかった、取り消す。取り消すからもうやめろ。手離せ」

 そうすると、西谷はようやく動きを止めた。瓶が手から離れ、床の上を転がって壁にぶつかる。後には血の赤い線が点々と残されていた。

「ありがとう」

 それは、西谷の口からは聞いたことのないか細い声だったが、静寂な部屋の中でははっきりと響いた。

 西谷は顔を顰めて傷跡を押さえながら、先ほど自分で踏んづけた緑色の箱を拾い、ぐにゃぐにゃに折れている煙草を一本取り出した。台所の方へふらふらと歩いていき、換気扇を回してからライターで火を点けた。ぐったりと俯いて煙を吐く奴の背中には、もはや威厳も何も感じられず、平凡な一人の男にしか見えなかった。

 俺はそっと立ち上がり、壁の前にある割れた瓶を拾い上げた。音を立てないよう、ゆっくりと西谷の背中に近づいていく。一切気づかれる様子の無いまま、奴の真後ろに立った。

 換気扇の羽根の音を遠くに感じながら、冷たい瓶を、西谷の頭めがけて思いきり振りかぶった。

 その瞬間、西谷がこちらを振り返り、高く持ち上げた俺の腕を血に塗れた手で掴んだ。そして、いつも通りの冷淡な目つきで俺を見据えて言った。

「調子に乗るなよ」

 西谷が俺の顔に吹きかけた煙が肺に染み渡り、血液に運ばれて体中を巡っていくのを、永遠のように感じていた。

この作品は別サイトにて2024年1月15日に投稿したものです。

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