警告
君は何に幸福を感じ、何をするために生きている?
友達と話す、食事をする、本を読む、映画を観る――
人の数だけ幸福の時間は存在する。
そんな俺はh復習とこの時間のために生きている。至福の時間だ。
俺は悪魔の包み紙を口に咥え、幸福のシャボン玉をかみ砕く。途中で砕く人もいるらしいが、俺は最初から幸福度が最も高い時間を過ごしたい。息を吐きながら火をつける。とろけるほど魅惑的で甘美な香りと共に幸福物質が肺を満たしていく。
留年し、死ぬ気で勉強して、やっと入学できた大学。
そんな大学の講義を飛びながら味わう煙草の美味しさは禁断の果実のようだった。
スマートフォンの画面には十時半という表示だけ。メッセージアプリの通知などは無い。
二限目は十時四十分から始まる。二限くらいは出なくてはいけないと思い、フィルターすれすれまで灰が伸びたタバコをスタンド灰皿に押し当てた。
「蒼井奏くん」
「はい」
有名私立大学卒業という肩書きが欲しいためだけに通っている大学。出席確認があるから出席しているだけで興味はない授業。
つまらない。大学はつまらないことだらけだ。
俺は教授の目を盗み鞄の中に手を入れた。ザラザラとした使い込まれた質感のプラスチックが手に触れる。しっかりとした重量を感じながら鞄から一眼レフを取り出した。
このカメラは死んだ父の遺品。父はカメラマンをしていたらしい。スクープとか、そういう写真を撮るカメラマン。俺が六歳になった年の秋頃、父親は火事で死んでしまった。事故死として取り扱われたらしい。
無趣味だった俺は、父の遺品整理の時に出てきた写真に魅せられ、写真に溺れるように浸かった。今ではコンクールに応募することもある。まだまだ佳作や賞には遠く及ばないけれど。
一眼レフの電源を入れ、カメラロールを見る。どれもパッとしない写真ばかりで、あの日見た父の撮った写真を超えるようなものは撮れていない。
もっと、いい写真を撮らないと……。
そう考えていると、気がついた時には講義室には誰もいなくなっている。あんなに長いと思っていた授業が一瞬で過ぎ去っていた。
俺は背中に羽が生えたような足取りで大学を下校した。
「葵さん、こんにちは」
「奏くん。こんにちは。今日は大学サボってない?ちゃんと授業には出た?」
「ちゃんと出たって、人をサボり魔みたいに言わないでください」
二限はね、という言葉を心の中で付け足しつつ、エプロンを身につける。
この人は葵さん。僕がアルバイトしているちょっと変わったアンティークショップ「アプローズ」のオーナー兼店長だ。でも本名は知らない。俺がアルバイトの面接で自己紹介をした時「あおいっていい、僕も今日からあおいって名乗ろう」というトンデモ発言をぶちかました。本名を教えてくれないオーナーに疑問を持ちつつ、どうしても内定が欲しかったので名前ってそんな変えるものじゃなくないですか?というツッコミは飲み込んでおいた。
アプローズは変わったアンティークショップだ。取り扱っている商品はアンティークカメラやアンティーク喫煙具等。カメラ好き喫煙者の僕はこのお店が大好きだった。だがこのお店には秘密がある。
「葵さん、今日は依頼はまだ来てないの?」
「きてるよ、今日は二人いる。だからもう少ししたらお店閉めちゃおうかな」
「わかった、奥の部屋準備しておきますね」
「ありがとう、ちょっと忙しくなるけどよろしくね」
この世には表と裏がある。どんな人や場所だってそう。このお店にも裏がある。
ここでは記憶を写真に現像することが出来る。もちろん思い出を現像することも出来るし、本人の無意識の記憶も現像することが出来る。そして一番驚くのは、死人の脳内からも写真を現像することができるということだ。
考えたことはないだろうか。認知症を発症してしまった患者の思い出せない思い出全てを写真に残して見返せるようにしておけば良かった、死んでしまった人ともっと写真を撮っておけばよかった、と。そんな人々の願いが具現化した能力を持っている人こそが葵さんなのだ。
もちろんいいことだけでは無い。記憶を現像する代償として取り出した記憶を本人は忘れてしまう。
だが忘れてしまうことを利点にするお客さんも沢山いる。トラウマだったり、思い出したくない出来事を写真に現像し、その写真を焼くことで本人はその事実を綺麗さっぱり葬り去ることが出来るのだ。
お客さんの割合としては、トラウマ等を忘れたい人三割、死人の記憶を取り出したい人六割、その他一割くらいだ。裏社会の人が裏切り者やスパイなどを殺したあと、そうさせた人を突き止めるために記憶を現像することが多いため、死人の割合が高い。本来なら関わりたくない相手だが、それでもお得意様だ。
怪しいネット掲示板で記憶を現像できるアンティークショップがあるという書き込みを見つけ、半信半疑で葵さんの店に向かった。元々アルバイトをする気なんてなかった。そんな能力があるのか、確かめたくてここに来ただけだった。だが葵さんと話しているうちに人柄に惹かれ、気がついたらその場でアルバイトとして雇ってくれないかと頼んだ。葵さんは俺のどこが気に入ってくれたのか分からないが快く受け入れてくれた。そこから俺はこの店でアルバイトとして葵さんの補助をしている。
葵さんの元で働くことはとても楽しくて、わくわくする。写真以外でこんなに心が踊ることは初めてだった。最近は平日休日関係なくこのお店で葵さんの手伝いをしている。
一通り準備が終わったのでお店に戻ると、ティーカップを傾け紅茶を飲んでいる葵さんがいた。ステンドグラスのように色とりどりの薔薇と金のハンドペイントが施された繊細なロイヤルアルバートのカップに白くしなやかな指をかける葵さんは写真のように美しかった。
「葵さん、奥の準備終わりました」
「準備してくれてありがとう、奏くん。」
微笑みながら俺に対して感謝を述べる葵さん。
嗚呼、きっと初めてこの人に会ったときから外見にも内面にもひかれていたんだろうなと思う。
俺も葵さんと同じロイヤルアルバートのティーカップを棚から取り出しフレーバーティ―を注ぐ。脳が溶けるほどに甘いキャラメルの香りが心地良い。
「ねえ、まだあの人……調べてるの?やめろとは言わないけど……」
「葵さん、お茶がまずくなっちゃいますよ」
葵さんの言う「あの人」とは、俺の父親のことだ。
そう、俺は父親が事故死したなんて信じていない。この店でアルバイトしている理由は葵さんに人として惚れていることともう一つある。それは父親の死の真相を探るためだ。事故死だという説明はあった。だが俺の父親はとても慎重で心配性な人だったと母が話していた。そんな人が事故を起こして死ぬだろうか。
父親は記者だった。生前は芸能人の不倫だけではなく、政治家の悪事などの写真も撮っていた。敵が多い人だったのだ。火事で事故死。俺は疑問を感じていた。
この店にいれば、いつか父親に関係した記憶を現像しに来る奴がいるのではないかと思っている。
もちろんこのことを葵さんは知っている。この店で働きたいと疸見込んだ時、父親のことをすべて話した。やっかまれると思っていたが、「君の人生の質が上がるなら協力するよ、きっと何もつかめないと思うけど」といわれてしまった。
俺自身も自分が馬鹿だと理解している。警察が事故死と処理したんだ。事故死に決まっている。理解している。だが納得ができない。あの父親が事故で死ぬなんて思えないし、火事から逃げ遅れるなんて考えられない。
「奏君、僕は別に君がいつまでも真相を探ってもいいし、君が満足するまで付き合うよ。でも、つらい思いするならもうやめた方がいいんじゃない?」
葵さんはいつもこういう。父親の死の真相を探している俺はひどく苦しげに見えるらしい。
「葵さんありがとう。でもつらくないです。それに……決めたことだし。自分がもやもやするんです」
「そっか。奏君がしたいならいいよ。でも、無理はしないで」
いつの間にか俺の隣に来た葵さんに手を重ねられる。
心配してくれるのはうれしいが、過保護な母親のようで少しこそばゆい。
「葵さん、ありがと」
はにかみながら葵さんにお礼を伝える。今回のやり取りだけじゃなく、いつもやさしくしてくれている葵さんにいつもありがとうの気持ちを込めて。恥ずかしいから、口に出しては言えないけど。
「ふふふ、どういたしまして、奏君」
きっと葵さんには全部お見通しなんだろうな、と思った。
「おい写真屋!いるかー!」
「黒田さん、こんにちは。今日も荷物が大きいね、また死人の記憶を現像するの?」
「ああ、こいつよ、俺のシマにスパイしに来てたんだよ。ほかのシマから。ありえないよな。どこのシマか聞く前にやっちまったわ、今日も頼むよ」
「いつも大変だねえ、奏君、奥に案内してあげて」
「わかりました」
今日の一人目の客は常連の黒田だった。この人は所謂「や」のつく人だ。いつも死人の記憶を現像しにやってくる。同業間での争いが絶えないらしい。大変な人だ。お疲れ様です。
「おい奏、お前学校行ってんのか?いつでも俺の組で雇ってやるよ」
「ははは……冗談きついっすよ……俺オーナーに一筋なんで」
「お前はいっつもオーナーオーナーってマザコンかよ。まあいいけどよ。奏、お前写真屋の名前知ってんだろ?そろそろ教えてくれよ」
絶対に嫌だ。そもそも俺は葵さんの本名を知らない。でも「葵さん」であることは知ってる。葵さんを独占したい、葵さんと呼ぶのは俺だけでいい。
「俺も知らないんです」
「奏、お前嘘だろ。嘘はよくねえぞ殺すぞ」
「黒田さん、奏君をいじめないであげてくださいよー」
「ははっ、悪いね写真屋。こいついじりがいあるんだよなあ」
黒田の体が柔らかいソファに沈み込む。そっちは葵さん用のソファなのに。
「黒田さん、今日は何枚くらい現像する気なんすか?」
「今日は……五枚かな。いくらだ?」
「五枚だと二十五万っす」
「高ぇな。まけてくれよ奏ちゃん」
「すみませんがうちはそういう事してないんで。はい」
「ケチだなー、ほら」
黒田に差し出した右手の上に札束が置かれる。人を不幸にした代償に払われた汚いかね。それでも葵さんの生活費になるんだ。両手で大切に受け取った。
「ぴったりですね。ありがとうございます」
「さてさて、五枚現像ね。はい、黒田さん、遺体の右手かして」
「頼んだ。十日前の二十六時の出来事だ」」
葵さんの美しい白魚のような左手に血に濡れた汚い右手が乗る。
葵さんは現像する対象者と素手で手をつなぎながら特殊なインスタントカメラでシャッターをきることで記憶を現像することが出来る。カメラの構造については俺が聞いても教えてくれなかった。葵さん曰く「企業秘密♡」らしい。
なぜ素手同士じゃないといけないのだろうか。葵さんの手が汚れてしまうことがいつも嫌だ。
静寂を破るようにシャッターの音が響く。
葵さんの右手に収められたインスタントカメラから五枚の写真が出てきた。
葵さんはその写真を黒田に手渡す。
「この写真でよかったかな。うち、撮れ直しできないけど」
「ばっちりだよ写真家。ありがとうな」
黒田は写真を一通り見た後、死体をカバンの中に戻し店から消えていった。この後犯人のもとに乗り込んで報復でもするのだろうか。末恐ろしい男だ。
俺は手に持っていたホットタオルで血に汚れた葵さんの手拭く。
「奏君、汚いからいいよ。自分で拭くよ。奏君を汚しちゃう」
「大丈夫、葵さんはどんな手でもきれいだから」
「奏君は……ううん、ありがとう」
「よし、一応汚れは取れました」
「ありがとう、手を洗ってくるね。片付けといてくれる?」
「もちろん」
俺は使い終わったインスタントカメラを棚に戻した。
今日は二人といっていたが、もう来るのだろうか、葵さんに負担がかからないといいんだが……。
「あ、あの、すみません……記憶を現像してくれるって聞いたんですけど、ここであってますか?」
店の方から女の声が聞こえた。二人目の来店だ。
「ここであってます。現像したい記憶は?どんなの?」
「あなたがオーナーさんなんですか?若い……。じゃなくて、私、殺人現場を見たかもしれなくて、それがトラウマで。ここで現像したら記憶が消えるって聞いたので、記憶を消したくて」
なんだ、トラウマ治療か。死体を触らなくていいから葵さんが汚されることもないし現像もせいぜい一、二枚程度だろう。
「わかりました、五万円です」
「やっぱりいいお値段するのね、どうぞ」差し出した右手に名残惜しそうに五枚の一万円札がきれいに重ねておかれる。
「ありがとうございます。じゃ、案内するのでついてきてください」
「わっ、お店の奥にこんな空間あるんですね」
「オーナー、二人目の客です。トラウマ消したいらしい」
「こんにちは。オーナーの写真屋です。僕の手を握りながら消したい記憶のことを思い出してくださいね、ちょっと辛いかもしれないけど頑張って」
「え、あなたがオーナー?だってあなた……いえ、なんでも、ないです……」
葵さんと会った瞬間女の体が震えだした。何におびえているのだろうか。葵さんの勇逸無二の美しさにでも震えているのだろうか。わからなくもないな。
「じゃあ、今から写真を現像します。君のなくしたい記憶の日付、教えてくれませんか?」
葵さんは右手にインスタントカメラを持ち、女の手をふわりと握る。
「十五年前の……十月四日です」
俺はその女の言葉を聞いて全身の血が沸き立つように熱くなった。十五年前の十月四日……。この日は俺の父親の命日だった。今日は、もしかしたら、俺の運命の日なのかもしれない。賭けに出るべきなのかもしれない。
「お客さん、トラウマだから忘れたいって言ってましたよね。その写真、現像したら俺が捨てときましょうか?」
「奏君、お客様の記憶はお客様に返さないと……」
「何でですか、葵さん。今までのトラウマ治療の客の写真をこっちで焼くことなんて沢山ありましたよね」
「いや、この方の写真は……」
葵さんはなぜこんなに歯切れが悪いのだろうか。いつもならそうしようといってくれるのに。この女の消したい記憶は父親の死の真相がわかるかもしれないのに、なんで葵さんはわかってくれないんだ。
「私、お願いしたいです。写真を見るのも嫌なので。そう?さんに焼いてほしいです」
「葵さん、いいですよね」
「わかりました。お客様がそういうなら……奏君、本当に、いいんだね?」
「もちろんです」
これで父親の死の真相に近づく。俺は身体全体が強く脈を打つ心臓になったようだった。
「それじゃあ、その日のことをよく思い出してくださいね、現像します」
俺の鼓動はシャッター音が聞こえないほどに高鳴っていた。
「あ、えと……」
「これで記憶はなくなりましたよ、ありがとうございました」
「あ、こちらこそ。ありがとうございました」
女は足早に店を出て行った。
「葵さん。写真、見せてください」
「本当に見たいの?」
今日の葵さんはなぜか頑固だ。
「はい、見たいです。見せて」
険しい表情だった葵さんは諦めたように大きなため息をつきながら写真を差し出してきた。
その写真には父親が写っていた。十五年間、求めていた写真だった。
だが、見たくない写真でもあった。
葵さんが、写っている¦。
わけが、わからなかった。頭の奥で、本能が警告を鳴らしている。開けてはならない蓋を開けてしまったのだと。
初めて小説を書きました。改善点などあれば教えていただきたいです。notちくちくでいただけると嬉しいです。
前書きとあとがき、何を書くためのものなんですか?