傷つけられたトイレの鏡
自宅の最寄り駅のトイレで胃の内容物を全て吐き出した男は、ふらつく足で洗面所へ向かった。
背広は着ているもののネクタイは頭に巻かれ、顔も真っ赤だった。
オマケに息も酒臭い。
契約ノルマを取れずに上司に叱責され、その憂さを晴らすための大量飲酒。
うだつが上がらないサラリーマンの典型例が、そこにいた。
「ふんっ…!どうせ、俺なんか…」
顔を洗って少しでも酔いを覚まそうとしてか、男は毒づきながらも蛇口に手を延ばそうとした。
「おっ…おおっ?!」
だが、酩酊状態の男は千鳥足。
あっさりバランスを崩すと、鏡に向かって前のめりに突っ込んでしまった。
「うわあああっ…!」
咄嗟の事で体勢も立て直せず、真っすぐに倒れ込む男は、両目を固く閉じる事位しか出来なかった。
割れた額を腫れ上がらせ、頬の皮膚を鏡の破片でズタズタにした間抜け面。
それが未来の自分の姿だった。
「あ…あれ?」
だが、鏡と壁面にぶち当たったはずなのに、何時まで経っても男は痛みを感じなかった。
「ど…どうなったんだ、俺は?」
男は目の前の風景に戸惑うしかなかった。
青いタイルで覆われた壁面に、3つ並んだ男性用小便器。
本来それは男の背後にあるべき物だった。
目線を下に向けると、そこにあるのは鏡の小脇に置かれていたはずのボトル入りハンドソープ。
手に取ってみれば、文字が反転して判読に手間がかかってしまった。
まるで、鏡に写したように…
「ま、まさか…俺は!」
男はようやく、自分が鏡の中の世界に入っている事を理解した。
一気に酔いが覚めた男は、体を反らせ、鏡面世界に突き出している上半身を現世に引き戻した。
「何だよ、これ…他のもそうなのかよ?」
先程までとは別の理由で息を荒げた男は、男子トイレ内にある鏡の3枚全てを軽く叩き、入り込めるか否かをあらためてみた。
しかし鏡面世界に入り込めるのは、最初に触れた中央の鏡だけだった。
その日から、男の新たな日常が始まった。
他の利用者がいないタイミングを見計らって駅のトイレに入り、洗面台の鏡を潜り抜けて鏡面世界へ。
左右が反転している以外、鏡面世界は現実世界と何もかもが同じだった。
唯一の違いは生物が存在しない事だったが、男にとっては好都合だった。
スーパーやデパートの総菜売り場から高級食材を持ち出して好きなだけ貪り食ったし、高級酒だって飲み放題。
更に好都合な事に、鏡面世界から現実世界へ持ち出した品物は、持ち出した瞬間に左右が反転した。
鏡面世界から持ち出した物を、そのまま現実世界でも使えるのだ。
番号が割り振られている紙幣は無理だったが、鏡面世界の商店やATМを襲撃して500円玉ばかりを抜き取り、それを現実世界で両替する。
やがて両替の手間が面倒になり、鏡面世界の宝石店や貴金属店を襲撃し、宝石や金塊を強奪しては、現実世界の質屋で換金した。
鏡面世界で何をしようが、現実世界には何の影響もなかった。
鏡面世界で襲撃した貴金属店や宝石店も、現実世界では何の被害も受けていないため、男が警察に追われる事はなかった。
男は金に不自由しなくなり、会社を止めて遊び歩くようになった。
金が乏しくなれば鏡面世界に行き、宝石や金塊を盗めば良い。
男は今の楽しい生活が永遠に続くと信じて疑わなかった。
その日も男は、鏡面世界で酒池肉林の限りを尽くし、宝石や金塊を略奪した。
「これだけあれば、当面は金に困らないな…」
略奪品の詰まったカバンに目をやり、男は満足そうに呟いた。
向かう先は駅のトイレ。
後は、いつものように洗面台の鏡を潜って、現実世界へ帰るだけだ。
遊び歩いている間に誰かがイタズラしたのか、鏡面には無数の切り傷が出来ていたが、男は気にも留めなかった。
「あん…?何だ、こりゃ?」
だが、その日に限って、男は鏡を潜れなかった。
いや、指や腕だけなら現実世界に出る事が出来る。
しかし、肩や頭が通らないのだ。
鏡面につけられた、無数の切り傷が邪魔をして。
「う…嘘だろ、おい…」
顔面蒼白になった男の呟きに答える者は、鏡の中にはいなかった。
その日から、男の孤独な旅が始まった。
最初の鏡と同じように、鏡面世界と現実世界を繋ぐ鏡が、きっと何処かの駅にあるに違いない。
それだけが、男の心を支えていた。
鏡面世界で彷徨う男は、様々な駅のトイレに現れ、人々に助けを求めた。
だが、その声や姿は一部の霊感が強い人々にしか認識出来ず、仮に認識されたとしても、幻覚か幽霊として片づけられるのが関の山だった。
もしもあなたが駅のトイレに入って、いるはずのない人間を鏡の中に見出したとしたら。
それは、鏡面世界の孤独な放浪者となった男が、あなたに助けを求めているのかも知れない…