4 襲い来たるもの
デューラムは目をさます様子のないツァランの腕を掴み、彼を肩に担ぎ上げた。そのまま扉まで引きずって連れていく。
メロディを奏でる鐘がやむ。……ツァランの靴が戸口にひっかかる。デューラムは半狂乱でその足を蹴りつけ、部屋の外に出した。
ごおんとひとつ時を告げる鐘が鳴り響く。
「なんだ、なんだって言うんだ」
ツァランが目を覚ましてうめいた。デューラムはそれには答えず、彼の体をさらに数歩運んで、廊下の床に放り投げた。
ダグラスが阿呆のように目を丸くして突っ立っているのも無視し、デューラムはきびすを返し、部屋の入り口へと戻ろうとした。
——扉を、
——扉を閉めないと。
そのとき、二つ目の鐘が鳴り響いた。
デューラムは部屋まであと三歩という場所で、立ちすくんだ。朝や昼間の鐘よりもずっと控えめの音が、夜の静けさの中を伝わってゆく。荘厳で澄んだ音が、まっすぐに尾をひいて流れてゆき——
その最後の余韻が闇の中に消えた。
同時に、開いたままの扉の中でちらついていたカンテラの灯りが、最後のまたたきの後にふっと消えた。
沈黙。
そして、闇。
【うなり】——
そう、おそらく【うなり】だった。その場に凍りついた三人の耳に最初に届いたのは、低い、低い、耳鳴りのような、【うなり】——。
あまりに低音であるがために人の耳ではとらえられないような、その空気の震えは、しかし次第にその振動を上げて音となり……地の底から……どんどん高く……高く……
否、ただの音ではなかった。金属的で、人間離れこそしていたものの、床の下から聞こえてくるそれは金切り声だった。長い長い女の悲鳴が静寂を引き裂いて、地の底深くから駆け上って来るのだ。まっすぐに、こちらに向かって、
あの穴の底から。
どんどん大きくなるその金切り声に、別な音が混じり出す。やはり甲高く、耳障りで悲鳴じみた、……だが今度のそれは人間のものですらない。獣だ。獣の断末魔だ。まるで豚を何頭も同時に縊り殺すときの叫びのような——
どおん、と鼓膜を破らんばかりの轟音があった。建物全体が大きくぐらぐらと揺れる。そしてもうひとつ、轟音。たまらず、デューラムはその場に倒れ込んだ。振動でぱらぱらと壁土が廊下の床にこぼれ落ち、首や頭に降りかかる。
穴の部屋は廊下の横側に位置していたから、いまは角度のために、廊下にいる三人に部屋の中の様子はうかがえない。何が起こっているのかはわからなかった。ただ、デューラムは揺れる床を必死で掻いた。少しでも部屋から遠くへ這って逃れたい、その一心だった。
女と獣の金切り声は、すでに人の聴覚がまともにとらえうる領域をとっくに超えている。まるで途切れなく続く断末魔を頭蓋の中に直接、流し込まれているようで、耳の奥が破裂しそうだ。すでに嘔吐感は耐えがたく、飲み込んでも飲み込んでも胃液が口の中に逆流してくる。
振動がひどい。家がいまにも崩れそうだ——
そして、すべてはあの大穴を、這い登ってきているのだ。
ひときわ激しい衝撃が床を下から打ち据えた。同時に扉の向こうで、何かが穴から飛び出す気配があった。重く濡れたものが大量に、下から上に向かって一気に叩き付けられたような音——いちじるしく巨大な生物のはらわたを小さすぎる穴から無理矢理絞り出したような、不快きわまりない音。
一瞬、デューラムの視界が黒く染まる。部屋中にぶちまけられたその何かの一部が、開け放しになっていた部屋の扉から廊下に向かって飛び散ったのだ。【それ】は彼の目の前を横切り、びしゃっと音を立てて向かいの壁にはりついた。そのごくわずかな飛沫が、腰を抜かしていた彼の、シャツの袖をまくった腕に飛んだ。
女と獣の金切り声はそこで頂点を迎え——
そして、まっすぐ上へと駈け抜けていった。
床下はるか深くから接近してきて、【悪魔の穴】からひり出された何かは、そのまま部屋を通りすぎ、天井の穴から抜けていったのである。
わんわんと頭蓋の中を反響する絶叫がしだいに薄くなり——やがて、すすり泣くように遠ざかっていった。
気づけば、いつしか家を揺らす轟音もどこかに消えている。
闇の中、ふたたび静寂が戻っていた。
ただその場にいる三人の、殺そうとして殺しきれない息の音が断続的に漏れ聞こえるばかりだ。
そのまま、どのくらいの時間を身動きもせず過ごしたのか、デューラムにはわからない。ずいぶんと長かったような気がする。ふうーっとツァランが息をついたのに誘われて、彼も詰めていた息を漏らした。そのまま声もなく床を這って、体を壁際にもたれかけさせる。目をつむって深く吐いた息は、血の味がした。
床にしりもちをついていたダグラスがうめいた。
「冥府の主ハデスの名にかけて、くそったれ、なんだったんだ今のは」
「知るか」デューラムはかすれた声で答えた。「悪魔なんだろ?」
どこかで猫の鳴く声がした。家のすぐ外ではない。もっと遠くだ。二度、三度甘ったるい声をあげると、そのままどこかに去って行ったようで、その後はもう聞こえなかった。だが彼ら三人が奇異なる世界からいつもの街にようやく帰ってきた証を聞いたような気がして、デューラムは安堵した。
ツァランがだるそうに体を起こす。そのまま、彼は暗がりの中、何かを手探りで探しているようだった。しばしあって、かちん、かちんと火打石の音がして、灯りがともる。あたりに転がっていた木片を無理矢理たいまつにしたと見え、湿っていたらしいその木片はぶすぶすと煙を吐いた。
「見てみるか」
ツァランは言ったが、デューラムは正直な話、あの穴の部屋など見るのも嫌だった。だが、見なくては気持ちがおさまらないような気もした。不思議と、危険がまだ潜んでいる気はしなかった。【あれ】はもう完全に去ってしまった後だった。
たいまつの光で部屋の中を照らし出した三人は、呆然とその入り口に立ち尽くした。部屋一面には真っ赤な液体がぶちまけられていた。床と天井の二つの穴から放射線状に広がった血痕は、隅の本棚も、テーブルも椅子も、どす黒い赤色に染め上げていた。
どろりと灯りを照り返す血のしみのところどころには肉片のようなものまで散らばっている。あたりには、むせ返るような生ぐさい臭いが立ちこめていて、気分を悪くさせた。
二の刻からずいぶん経っていたから、朝ももう遠くなかった。それでも夜明けまでこの建物で過ごす気にはなれなかった。三人は来た時と同じように、戸板の半分はずれた入り口をくぐり抜けて外に出た。外はまだ真っ暗で、繁華街からも距離のある街並は、ひっそりと静まり返っていた。
「それじゃあ、あの血は明日にはきれいさっぱり消えてるってわけなんだな」
夜道を歩きながら、デューラムは鬱々と言った。
「悪かったよ」
ダグラスは珍しいほど萎縮して、歯切れ悪く言った。
「だがなあ、おれが聞いた話じゃ、悪魔が通り過ぎる日ってのは今日じゃなかったはずなんだ」
「いや」とツァランが呟く。
「今日だったのさ。いま気づいた。旧暦なんだ」
デューラムは立ち止まってツァランの顔を見た。「どういうことだ?」
ツァランはちらりとデューラムの顔を見返すと、ぎゅっと一度目をつぶり、
「説明しただろう、この国の歴史において、暦は一度変わっている。だがぼくも……考えもしなかった。ダグラス、おまえの話によると、あの穴は五十年前かそこらにできたものだということだったからな」
「おまえ、つまり……」
デューラムは唇を舐めた。「そうか。ズレたのか」
「そうだ」
ツァランは息をついた。
「今から七〇〇年ほど前、古代暦が現在の帝国暦になった時、日付も十日前後、前倒しになった。……ダグラス、おまえの聞いた悪魔の話はな、五十年前の逸話などではないんだ。おそらく何百年も前から連綿と語り継がれた伝承が形を変えたものなんだ……。あの家のあの部屋で『何か』が起きたのは——そしてあの穴が開いたのは、改暦前のことなのだろう。つまり、少なくとも七〇〇年は昔のことなんだ……。そして三の月の最初の安息日は、旧暦だと——今日になる」
そうか、とデューラムは思う。
五〇年前に消え失せたという画家は、【あれ】を。
彼らが通りすぎる音だけを聞いた、【あれ】を、目にして。
——贄だ。贄だ。贄だ。贄だ。
——贄だ。贄だ。贄だ。贄だ……
* * *
その後、デューラムの腕に飛び散った飛沫は洗っても洗っても完全には落ちず、腐臭を長く漂わせて、彼を悩ませた。幸いなことに、顔にこびりついていた血痕はすぐに落ちた。だが、その後彼の腕は何かにかぶれ、ぐずぐずに化膿して、何ヶ月も治らなかった。まわりの人間はみな、草の汁にかぶれただけだと言った。
だがデューラムには、鬼屋敷をあの日通り過ぎていった何かと関連があるような気がしてならないのだった。
以後、デューラムは二度とあの家には行っていない。