3 生贄
……ぽたん、ぽたんと音がする。
……ぐらん、ぐらんと世界が回っている。
……隅の本棚がひっきりなしに近くなっては遠くなり……窓枠がぐにゃぐにゃ粘土のように歪む……すべての輪郭があいまいだ。カンテラの灯りがゆらゆら揺れるので……床もそれに合わせてうねるのだ……。
――酔っているんだ。
デューラムはこみ上げる生唾を飲み下す。
……仲間たちは?
ひっくり返った人影が二つ……空になったどぶろくの瓶が大きな足の横に転がっている……あれはダグラスの足だ。
――ここはどこだったっけ。
――そんなに飲んだのか、おれは。
じくじくする胃液が喉と胸の間あたりで滞留し、舌の奥を灼いている。
仰向けに横たわったデューラムの目に映るのは、真ん中の穴を軸にして回転している天井だ。彼の横たわる床も、彼の臍を中心としてぐるんぐるんと動き回る。
……そうだ、……天井の穴……
ぴちゃんと顔に冷たい刺激があって、デューラムは眉を寄せた。……もうひとつ水滴が口のすぐ横を叩き、耳の横を伝わって首の辺りを垂れていく。
天井の穴から何か液体が滴っているのだ。それが下にあるデューラムの顔に当たっている。
デューラムは体を横にずり寄せるようにして、その場から顔をのけた。
……天井の穴は黒々と口を開けている。そしてその穴から、
――何かがのぞいている。
カンテラの光がちらちらとまたたく。……神経を逆向きに引っ掻き上げるような、いらいらさせる光だ。……デューラムは目を細めた。……たしかに何かがこちらをのぞいているような気がしたのだが……
ずるりと穴から何かが垂れ下がった。
やわらかく、細く長く揺れる、……髪の毛だ。
――マーヤ?
――なんでそんなところにいるんだ。
乾いて唇に貼りつく舌を湿らせて、デューラムは自分の家の隣家に住む娘の名を呼ぼうとする。同じ年頃で、一緒に作業をしたり、時間を過ごすこともある。ほがらかで素直な娘……。
……顔は見えない。見えないが、マーヤとわかるのだ。カンテラの光を橙色に照り返す丸い肩のつややかな曲線……首や腕に巻き付いた、かすかに波打つ髪……。穴のふちに手がかかり、闇の奥から体がずるずる引き出される……その胴はしなやかに長く……長く……伸びて……胸のふくらみが暗闇の中でねっとりと光り……
――近づいてくる。
両手の十本の指をまっすぐに開いてこちらへ伸ばしている……まだ下半身は穴の向こうだ。……やわらかな体で……もう、すぐそこで彼を求めている……両腕が彼の顔を包みこんだ。震える声が耳元で何かをささやく……なんと言っている……?
……デューラムは娘の細腕をやさしくゆるめると……手を伸ばし、彼女の顔を覆い隠している前髪をやさしく横に払いのけ、……
瞬間、冷水を浴びせられたように、酩酊感のすべてが消滅した。
デューラムは目を見開いて、息も触れんばかりの距離にあるその顔を凝視した。
その顔は口もなければ鼻もなく、つるりと平坦で、半熟卵のようにやわらかい剥き出しの皮膚が、彼の指の感触にひくひくと応えている。
ただ真ん中、左右に二つ、閉じられた両目だけが、
――太い針金で両のまぶたをびっしりと縫い合わされた両目だけが。
デューラムは叫んだ。目の前の怪物を突き飛ばし、横たわった体を跳ね上がらせるようにしてその場を飛び退く。転がるように部屋の隅に移動してから、さっと顔をあげ、怪物がどこにいるのかを――
カンテラの灯りがちらちらとまたたいている。
がらんとして薄暗い部屋の中が目に入る。
デューラムは唖然としてあたりを見回した。
――さっきの怪物はどこに行ったのだ?
夢などではないはずだった。濡れた息の感触が、まだ耳に鮮明に残っている。
それでも、部屋の中には何もいないのだった。二人の仲間が酔いつぶれてむしろの上に転がっているのが見えるばかりである。空になったどぶろくの瓶の横に、白目の杯が三つ転がっている。ダグラスが低い唸り声をあげて寝返りを打った。
――夢だったのか。
デューラムは長い息をついて、額から流れ落ちた汗をぬぐった。どっかりと床に座り込み、背中を壁に預けると、濡れた衣服がひんやりと背中にはりついた。全身にびっしょり汗をかいていたのだ。
考えてみれば、とデューラムは苦笑した。
――化け物屋敷の天井の穴からさかさまに手を突き出してくる女などが、マーヤであるわけがない。蛇のように体を伸ばして彼にすり寄ってくる【あれ】をなんの疑問もなく隣家の娘と判断しているあたり、自分が完全に夢の中にいたことがわかる。
おそらく、先ほど酒を飲みながら聞いた話が記憶の中でいろいろと歪んで、あんな夢を作り上げたのだろう。そういえば天井の穴からこちらを盗み見る化け物の話を、ダグラスが口にしていたではないか。
それにしても、あの化け物が耳元で何をささやいていたのかがデューラムは妙に気になった。たしか同じ言葉を何度も何度もくりかえしていたような気がする。
「に」で始まる単語だった、そんな気がする。だがその先がどうしても思い出せない。
――そういえば、いまはどのくらいの時間なのだろう。
奇怪な現象は二の刻(注:深夜三時ごろ)に起こると、ダグラスはそう言っていた。夜もすっかり更けたようだし、ひょっとしてすでに二の刻を過ぎているのではないか。もしかすると、自分の見た悪夢こそが、鬼屋敷の怪奇現象なのかもしれない。
ここに泊まり込んだ人間は、誰もが夜中に悪夢を見る。そんな話なのではないか。
苦笑しながら、額からもう一筋流れ落ちてきた汗を手のひらでぬぐう。その手になんとなく目をやって、デューラムはぎょっとした。
真っ赤だった。
顔を流れた汗が、どす黒い赤色なのだ。否――汗が流し落とした何か、すなわち顔に付着していた何かが、
――血のように赤いのだ。
ぽたん、ぽたんという音がデューラムの鼓膜に蘇る。
……水滴が……天井の穴から滴って……ぴちゃりと音……冷たい感触が……耳の横を流れ……
だが、あれは夢のなかの音のはずだ。
では、彼の顔を汚している、この液体はなんなのか?
どす黒く染まった手が震える。
記憶の中のささやき声が耳朶を甘噛みするように呟きつづける……何を? 「に」で始まる……何を……、
「……贄だ……贄だ……贄だ……贄だ……」
同時に――その言葉が蘇った瞬間に、甚大な恐怖が足の先から脊柱を這い上がってきた。今すぐにこの場所を離れなくてはならないと、デューラムは悟った。これから何かが起こるという、はっきりした理性の知覚などではない。鳥肌などという生易しいものでもなかった。
それは、表皮と内臓の表裏が口の部分からひっくり返るような、猛烈な吐き気だった。
肉が、肌が、この場所を全身で拒否しているのだ。手足がひきつけを起こしたようにびくびくと緊張する。デューラムは仲間の体に飛びついた。
「ダグラス! ダグラス!」
押しても引いてもびくともしない、酒のせいでぐっすりと深い眠りに入っている巨体を揺らして、彼は叫んだ。
「起きろ、今すぐここから出るんだ……起きろと言ってるだろ、聞こえないのか!」
反応する様子もない大男の様子に、とうとうしびれを切らしたデューラムは、その横腹を思い切り蹴りつけた。ぐうとダグラスが唸り、海老のように体を折り曲げて、二度、三度咳き込む。ぎょろりとまぶたが開いて、血走ったまなこがデューラムを睨みつける。
「おまえ、デューラム、何をしやがる……覚えてろよ」
「あとで百発でも殴られてやる! 早く立て! この部屋を出るんだ、今すぐに!」
ダグラスがのろのろと体を起こす。
「なんだってんだ? おまえ突然……気でも違ったのか」
「そうだよ!」
怒鳴り返して、デューラムは部屋の扉を乱暴に開けると、呆然とした様子で立ち上がったダグラスの体を部屋の外に押し出した。それが済むなり、今度はツァランの体に飛びつく。こちらはダグラスよりはるかに厄介だ。一度眠り込んだら、日が空高く登るまで、めったなことでは目をさまさない。
そのときである。窓の外の夜の中から寺院の鐘の音が聞こえてきて、デューラムは凍りついた。何重にも反響する、聞き慣れた短いメロディ。それが終わったあとに、ごおん、ごおんと時報の鐘が響いて、時を知らせるのだ。寺院の鐘は、夜のあいだに三回鳴る。夜の祈りの時刻を告げる晩課の鐘と、深夜と、二の刻である。晩課の鐘と深夜の鐘はもう鳴った。だとすれば、時報の鐘は二つ鳴るはずだ。二の刻を知らせるために。
それが鳴り終わるまでに、この部屋を出なくてはならないのだ。
焦りと恐怖に手足が震える。
――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。ここから離れたい、離れたい、離れたい、だが間に合わない。
間に合わない。