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鬼屋敷  作者: 久元
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2 画家と悪魔

 なんでも、ツァランが推測したように、この家は建てられてウン百年になるらしい。だが五十年前かそこらまではふつうに人が住んでいた。床と天井に妙な穴も開いていなかった。


 伝えられるところによると、この家が廃屋になる前の最後の住人は、ぱっとしない画家だったらしい。

 しかし、その男には不思議な力があった。なんの因果でか、小さい頃から鬼や幽霊や妖精や、ふつうの人間には見えない何かを見たり感じることができたのだ。


 長じてからも、その力はなくならなかった。画家になってしばらくして、その男はふとした拍子に奇妙な気配を感じるようになった。自分が絵を描いている最中、たまにひたひたと足音が聞こえた気がして、はっと耳をそばだてると、もう足音はどこかに消えている。別なときには、耳のすぐ後ろからじいっと自分の絵を眺めている視線を感じる。絵筆をもった手に見えない何かがひやりと触れた事すらあった。

 画家も最初は気味悪く思った。だが次第に、その目に見えないものがいったい何をしているのか、興味を抱きはじめた。


 とうとうある日その画家は、画板の前に座る自分のすぐ後ろにわだかまっている気配に向かって喋りかけた。おまえは何者か、と。


 長い沈黙があった。そしてその画家が、何かに見られているなどというのは自分の妄想だったのかと思い始めたころ、耳のすぐ横で、喉の詰まったような、息だけのささやき声が答えた。自分は悪魔である、と。


 画家は飛び上がるほど驚いたが、なんとか動揺を押し隠した。そして震える声を落ち着けつつ、なぜ自分のまわりをうろつくのかと悪魔にさらに尋ねた。

 すると悪魔はこう答えた。


 ――人間の芸術家のなかには、たまに見る者・聞く者を地獄に誘い込んでしまうような、この世のものならぬ作品を産み出す力のある者がいる。そのたぐいの芸術家を探し出し、うまく彼らをみちびいて、狂気と邪悪をあらわに見せる絵や音楽や彫刻を作るようにそそのかす悪魔がいるのだと。自分はそうした悪魔のひとりである……

 さらに悪魔は続けた。

 ――だが、おまえはそういう才能をもつ画家ではない。おまえが絵を描き始めてからこのかた、ずっとおまえの絵を見つづけてきたが、そのことはもうはっきりした。だからもうおまえの周囲をうろつくこともないだろう、と。今日かぎりでおまえが自分の存在を感じ取ることも、もうないだろう……


 なるほど、そういうことだったかと画家は納得したが、同時に落胆もした。自分の絵の才能は悪魔さえひきつけないのかと思うと、悔しさが込みあげ、さらには怒りがふつふつと湧いてきた。その怒りを抑えきれなくなって、画家は去ろうとする気配を呼び止めた。

 ――待て悪魔、と。


 そうして画家は、悪魔にひとつの取引を持ちかけたのだった。


 ――たしかに自分は何の助けもなしには、人のたましいを惑わせるような傑作は描けないかもしれない。だが、おまえのような異界の存在とこうして会話ができるのは、ひとつの才能であるはずだ。おまえさえその気になれば、自分にはおまえの姿が見えるのではないか。どうだ、おまえがその姿をあらわにしてくれるならば、自分がそれを絵に映しとってみせようではないか。正真正銘の悪魔の姿の絵だ。これまでどんな人間も見た事のない……


 悪魔はこの取引に乗ってきた。ただし、ほかのいくつもの悪魔のお話と同じように、そこには交換条件がついていた。姿を見せて絵の材料を与える代わりに、その絵が認められたあかつきには、おまえのたましいをもらう、と悪魔はそう言ったのだ。


 そうして悪魔はその真の姿を画家の前にあらわにした。常人の想像の限界をゆうに超えた、冒涜的な姿だった。あまりに奇々怪々なその容貌に、もう少しで画家も正気を失うところだった。

 だが歯を食いしばって、震える手で絵筆を握り、画家はその姿を映しとりはじめた。ひっきりなしに胃液が喉元から口の中にこみあげ、画家は何度も吐いた。脂汗にまみれながら、それでも彼はとうとう絵を完成させた。


 この絵はひとたび世に出るなり、大当たりした。

 見るだけで心が地の底にひきずりこまれるような、これまで誰も見たことのない絵があるという噂は、ヘプタルクの国の中はおろか、西の帝国をはじめはるか彼方の国々まで伝わり、遠方からの見物客が大勢やってきた。

 寺院はその絵が忌まわしい力を持っていると言って、公開を禁じ、絵を燃やすように画家に申し渡した。しかし時すでに遅く、酔狂な貴族がその絵をべらぼうな値段で画家から買い取った後だった。その貴族はその後も、寺院や王宮に隠れて、こっそりと悪魔の絵の鑑賞会を続けるのだった。


 いまや誰もが画家の才能を疑いはしなかった。


 だが、彼の評判が定着した頃には、悪魔との約束の期日が近づいていた。絵が完成した次の年の、三の月の最初の安息日の夜にたましいを取りにくると、そう言い残して悪魔は去って行ったのだ。おとぎ話のなかで悪魔と取引した人間がみなそうであるように、この画家もまた己の取引が怖くなって、家中の扉という扉、窓という窓、出入り口という出入り口に、聖水をいやというほど振りまき、神の紋章をこれでもかこれでもかと貼りつけて、悪魔がどこからも入ってこられないようにした。


 そうこうするうちに、とうとう三の月の最初の安息日がやってきた。画家は怖くて一人でいられなかったので、たった一人の親友を呼んで、ふたりで酒を酌み交わしていた。だが、その親友の目から見ても画家は心ここにあらずという様子で、やけ酒を呷りながらも、その顔色は真っ青だった。


 しだいに夜は更けて、二の刻を知らせる真夜中の寺院の鐘が鳴り出す。画家はさらに青ざめて、その体はぶるぶると震えている。大丈夫だと親友は言った。心配するな、悪魔のやつはどこからも入ってこられない……


 そのとき、寺院の鐘の最後の余韻が消えた。その瞬間だった。突然、大きな振動が地の底から沸き上がって来たかと思うと、轟音がとどろき、部屋の床に丸い大穴が口を開いた。まるでナイフでラードでもくり抜くかのように、やすやすと、一瞬で。

 そしてその穴から、一声おそろしい叫びが響いた。


『――約束だ! たましいだ!』


 あっと思うひまもなく、画家の体がまるで巨大な手にわしづかみにされたように宙に浮き、次の瞬間にはすさまじい勢いで天井に激突していた。いやな音がして、血しぶきが飛び散り、……

 ……気がつけば、画家の姿はどこにもなく、ただ床と天井に同じように丸い穴がひとつずつ空いていた。天井の穴のまわりはべっとりと血で染まっていた。それが画家の最期だった。天井の血のしみを除けば、死体も、骨も、なんにも見つからずに、忽然と消えてしまった……



 * * *



「これでこの話は終わりさ」


 そう言って、ダグラスはどぶろくを一口飲んだ。


「その絵描きの家がここで、その二つの穴がこれだってのか?」

「そうだって話さ」


 デューラムは長く息をつくと、もう一度、ふりかえって床の穴を見た。穴の中はあいかわらず静かで、異界に住まうものの存在をうかがわせる蠢動などは見えない。

 けれども先ほどと同じように、その円の不自然なほど完全な形状が気になる。さらにその円のふちは――「ラードでもくり抜くように」とダグラスは言ったが――確かにまるで熱したナイフでバターでも切ったかのような、驚くほどなめらかな切り口を見せていた。石の床をそんなふうに切り取れる刃物を見つけるのはたやすくないはずだ。


「三の月の最初の安息日の夜といったか。その日が、悪魔が出るって日か?」

「そうらしいぜ。絵描きが天井を血まみれにして消え失せて以来、毎年その日になるとこの部屋中が血をまきちらしたみたいに真っ赤になるんだそうだ。さすがにそれは気味が悪いから、おれもその日は避けたってわけだ」


 デューラムはううんと唸った。「最初の安息日というと、十日くらい前だよなあ。だとすると、十日ほど前にはこの部屋が血に染まってたってわけか? いまはすっかりきれいだけどなあ」

「違いねえ」

 ダグラスはにやにやと笑い、「その血は一日経つときれいさっぱり消え失せちまうって話さ。怪談の噂ってのはいろいろ逃げ道を用意してるもんだよな」


「いや」

 と、そこで口をはさんだのはツァランである。がらにもなく真面目な表情で、

「なかなか興味深いぜ。じっさい、才能が突出した芸術家の作品は、いつだって悪魔の関与を連想させてきたんだ。画家でも、演奏家でも、作曲家でも、物語だってそうだ。……なにかそう思わせるものが、絵だの音楽だのには潜んでいるんだろうな……」


 そう言いつつ学士はしばらく考え込んでいるようだったが、一口どぶろくを啜ると眉を寄せた。


「さらに言えばだ、その怪談も真っ赤な法螺でもないかもしれないぜ。五十年前と言ったか? ぼくの記憶が正しければ、たしかそのくらいの時期に、世にも恐ろしい怪物を描いた絵で王国中の話題をさらい、その後行方しれずになった男が一人いたはずだ。名だたる芸術家の仲間入りをしようとしていたのに、ある日をさかいに忽然と姿を消してしまった。ちまたでは、常規を逸した己自身の想像力に飲み込まれ、気がふれたと言われている……」


 目を細めてそう言ってから、ツァランは肩をすくめた。

「まあ、その画家の話は有名だから、単に誰かがこの屋敷の穴とその画家のエピソードとをつなげて、でっちあげた怪談かもしれないが」


 デューラムはあきれた。「なんだい、はっきりしないな」


「怪談話なんてはっきりしないもんじゃねえか」

 ダグラスは顎をがりがりと掻きながらそう言うのだが、デューラムはどうも不満なのだった。


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