サガンのようにはいかない男
松野グループの孫娘と海運王の娘では普通に釣り合いの取れた友人関係でもあるのだが、早坂海里の婚約者が「ユキちゃん」であったのだ。
ほとんど白髪に近い金髪にクリスマスツリーの様にピアスを右耳にぶら下げている男は、仕事のスケジュールが合わないからと、自分の相棒に梨々子を海里の元迄送り届ける事を託したのである。
そこまで思い出して、楊はがっくりと葉子の首筋に自分の頭を埋めた。
「やっぱり俺のせいじゃん。海里に会いに行って来いって梨々子の背中を押したのは俺じゃん。俺が余計な事をしなければ、あいつはあの蛇野郎に喰われることが無かったんじゃんか。」
「邪魔!」
楊は慰められるどころか葉子に肘鉄を喰らって振り払われ、楊はふくれっ面を作ると弁当箱のウィンナーを勝手に摘まんだ。
「こら。摘まみ食いするなら手伝いなさいよ。」
「じゃあ俺にも作ってよ。愛妻弁当。ウィンナーはタコさんにして。」
「あんたはあたしを過労死させる気か?忘れているようだけどね、あたしは普通におばあちゃんなんだからね。」
「俺はブラームスなんて好きじゃないから、その手で俺を追い払えないよ。」
楊は今度は弁当箱の中の卵焼きを抜き出して、しかしその前に葉子に摘まんだ手の甲をかなりしたたかに殴られた。
彼はそれでも卵を落とさず口に放り込み、弁当を台無しにされた葉子が歯ぎしりをする横で弁当をナフキンで包むとそのままダイニングからリビングに歩いて行き、適当に放ってあった自分のビジネスバッグに弁当の包を片付けたのである。
「もう。そんなことをしたら、今日の梨々子のお昼はどうなるのよ。」
「いいわよ、おばあちゃん。大学で適当に食べるから。」
梨々子が疲れた顔つきでリビングの戸口に立っていた。
美しかった彼女は悪阻が始まってから食が細くなり、頬がこけ、目元には深い陰影迄ついている。
両袖に白い花々が刺繍されている黒いブラウスとグレーチェックのサスペンダーパンツを身に着けていたが、髪の毛を寝起きの撥ねた状態のまま後ろで一つ髷にしていただけだからか、やつれたみすぼらしさだけが際立っていた。
楊はため息をふっとつくと、弁当を片付けたばかりのバッグから四角いヘアブラシを取り出した。
「梨々子、ソファに座って。髪の毛をなんとかしよう。」
梨々子が常に美しい姿を保っていられたのは過保護な母親のお陰であり、梨々子には出来ないという事を楊が気付くのには時間はかからなかった。
楊は彼女の髪を整えてやることが日課になっており、楊がいつものように梨々子を手招きすると、彼女はいつもと違って大きく首を振った。
「いいわよ。」
「よくないよ。大事な梨々子の髪の毛を梳くのは俺のこの家での仕事でしょう。ヒモ状態の俺の数少ない仕事を取らないであげてよ。」
梨々子はくすりと笑い、楊は梨々子の久しぶりの笑い声にほっと気が緩んだのだが、彼を見返す梨々子の目つきは冷たかった。
その眼つきにぞわっとした楊に追い打ちをかける様に、彼女は彼にわかるように口を動かした。
へんたい、と。
楊の手からすとんとブラシが落ち、楊が呆けている間に彼の大事な孫娘はリビングの戸口から姿を消していた。