バケモノ館の囚われ娘(三十と一夜の短篇第23回)
領地と領地の境近くにあるその小さな町は『ミューデル』と呼ばれていた。
まだこの世界が領主制ではなく、小さな『国』の集まりであった遠い昔に、この一帯を治めていた一族の名だ。
当時のミューデルの『国』は、この周囲ではもっとも広い土地を持っていたらしい。だが最後の王と言われるフィクトル亡き後、周囲の国々に削がれるように縮小され、今のような領地制になった時には周囲の町や村と変わりない規模になった。
ミューデルの朝市には新鮮な野菜やカラフルな果物が並ぶ。
また、山には壮大で豊かな森林があり、土地の南の方には大きな河も流れているため鳥や獣の肉も魚介類も豊富だ。
月末に開かれる大きな市には、朝から料理や酒を出す店も多く立ち並ぶ。
昔よりずっと小さな土地になったとはいえ、やはりここは比較的潤っている町なのだった。
「あんた、いいとこの女中さんかと思ったら、あのバケモノのとこに囚われてるんだって?」
市場の中年女に『あんた』と声を掛けられた若い娘は、遠慮がちに振り返った。その言葉が自分に向けてのものだと理解すると、白い雪のような顔に戸惑いの表情を浮かべながらも小さくうなずく。
中年女は加工した肉と果物とを売っている店の女主人だった。がっしりと肉のついた丸い身体を大袈裟に震わせてため息をつく。
「かわいそうに……なんでも、その声もあのバケモノに取られたっていう話じゃないか」
だが娘は困惑気味に曖昧な微笑みを浮かべ、何もこたえない。
「言うなって言われてるんだね……一体どうしてそんなことに。あたしももう少し若けりゃぁ、あんたを養ってあげられたんだけどねぇ」
悪気のない世間話のつもりなのだろう。しばらくひとりで喋っていたその中年女は、市場の客や売り子たちが遠巻きに、だが不躾にその娘を観察していることにようやく気付き、慌てて話を切り上げる。
「まぁ、できるだけ長生きすることだね。そしたらきっと、あの館から逃げ出せる日も来るかも知れないよ――あんた、いつも買ってくれるから、今日は林檎を多めに入れとくよ。傷みかけのだから、早めに食べるなりジャムにするなりしとくれよ」
娘はコクリとうなずき、代金を支払う。
それは娘の質素な身なりからは想像できない、純度の高い銀から造られる領主銀符だった。それを受け取り手のひらの上で勘定した中年女は、満足げににんまりする。
「じゃあまた。道中気を付けて帰るんだよ」
領境の山の方の道へ去って行く娘を、中年女は少しの間見送る。それからもう一度手の中の銀符へ視線を落とし、周囲に聞こえるような大袈裟なため息をついてから、店の中へ戻って行った。
娘が人気の少ない上り坂に差し掛かった頃、軽い足音が追い掛けて来た。
「あんた、カトーに、騙され、てんだよ」
息を荒くしながらその足音の主が声を発する。
娘は驚きながら振り返った。身が細く背のひょろ高い、顔色の悪い女が肩で息をしながら立っていた。
闇夜色のローブを羽織っているその女は、この領地付の薬師だ。娘は薬師に世話になったことはないが、彼女がそれだということは知っていた。
「あんた、その干し肉の塊ふたつと芋一パンドと果物ひと籠に、領主銀符を三枚も払ってただろう? 一枚一リンゲルもする銀符だ。新鮮な生肉ならともかく、干し肉じゃないか。おまけに、カトーの店の品は悪くはないが上等な方じゃあない。本当ならそれ一枚でだっておつりが来るってのに――」
どうやら、この見掛けによらず人のよさそうな薬師は、わざわざ忠告のために娘を追い掛けて来たらしい。
眼を丸くしながら薬師の話を聞いていた娘は、やがて柔らかな微笑みを浮かべた。
「……まさか、わかってんのにあそこで買ってんのかい?」
その表情に、今度は薬師の方が驚く。
「それならどうして……他の店で買ったって――」
「……ほがでば、売っで、ぐでだいがら」
潮に嗄れた老人のような、がさがさと聞き取りにくい声で娘は短くこたえる。
その声を恥じるように視線を落とす様子を見て、薬師ははっとした。
「そうか……その声のせいで」
娘の紫掛かった髪色や柔らかで人を魅了せずにはいられない顔の造作は、向う隣の領地に多く生れるという『紫の魔女』特有のものだった。
彼女たちはその美貌で人を虜にし、その歌や呪文で人の生死を司ると言われている、稀有な存在だ。
歌の才能に特化している者は特にその声にも人を魅了する力があるはずで、そうでなかったとしても、この娘のような嗄声はありえなかった。
「それが、『バケモノ』に取られたっていう声――」
痛ましいものを見る表情で薬師がつぶやくと、娘は顔を上げきっぱりと首を横に振った。
「ぢがいばす」
「じゃあなんでまた――っと、いや、あたしなんかが立ち入る問題じゃないよね。あたしはあの町の住民じゃない、ヨソモノ扱いなんだし」
薬師は自嘲気味に笑う。
領都のギルドから派遣される薬師は、その薬やまじないの効果の高さにより尊敬はされるが、同時に敬遠もされる。
例え相手がカトーのようなお節介な商売人だとしても、親しげに話し掛けられるようなことは滅多にないのだった。
「あど……」
「あぁ、ごめん、あたしのことじゃなかったね――なんだい?」
「お館さばがゆるしでくださっだら、今度うちぎ来でくでださいばすか?」
「えっ?」
薬師が眼をぱちくりさせている間に、娘は柔らかな笑顔で会釈して去って行った。
* * *
山の中腹よりもう少し上に建っている大きな屋敷に辿り着くと、娘は門に手を当て呪文をつぶやいた。呪文が終わると同時に門がゆっくりと開く。
「今日はご機嫌だね? ラウリー?」
どこからか低めの男声が響く。娘はその声の主を探すように視線を上げ、にっこりした。
「そうか、それはよかった……あとで話を聞かせてもらってもいいかな?」
娘はこたえなかったが嬉しそうに頬を上気させ、廊下を歩む足を速めた。
娘は厨房の扉を開ける。そこは広く、料理人が一度に二十人働いてもまだ余裕があるほどの広さだ。半分は娘が使う調理場、そしてもう半分は館の主の、いわば『実験室』になっている。
「もう少しだけ待っていてくれたまえ。きみが思いのほか早く帰って来たので、私の方が間に合わなかったよ」
大柄な後ろ姿が肩を揺らして笑う。
館の主は娘の頭三つ分以上背が高く、横幅は娘の四倍以上もあった。そして薬師のようにゆったりとしたローブを羽織り、全身を隠している。
「あぁ……やっとできた。さあ、これをお飲みラウラ」
華奢なグラスに入れられた琥珀色の液体を、厨房の脚立に座って待っている娘に差し出す。
その指は娘の何倍も太く大きく、全体がふさふさとしたダークブラウンの毛で覆われていた。
初めの頃はその容姿に恐れおののいた娘――ラウラだったが、今はもう見慣れて怖くない。
むしろその毛並みの滑らかな手に触れられると心が落ち着くのだが、年頃の娘としては例え相手が『バケモノ』だったとしても触れてくれとは恥ずかしくて言えない。
琥珀色の薬液はひどく苦い。砂糖や貴重なハチミツを混ぜてどうにか少しでも味をよくしてくれようと、過去に何度か工夫もされたのだが、何を混ぜてもやはり苦く、飲むたびに震えが来るほどだった。
だからラウラは薬を飲んだ後には、急いで甘いホットミルクを飲む。
やがて薬が効き始めて、身体がじんわりと温まって来る。
「ただいま、です。お館さま」
生来の声を取り戻したラウラは館の主――ヨーリク・ペイルにやっと帰宅の挨拶をする。声を取られたというのは根も葉もない噂だった。
「おかえりラウリー。私の娘」
ヨーリクはそう言ってラウラの頭にそっと手を置く。
ローブの下の笑顔は大きな牙を持つ。だがラウラはその牙も、ヨーリクの長毛に覆われた『バケモノ』のような顔も、頭から生えている二本のねじくれた角も今では怖くない。
「お館さま、もうローブは脱いでもいいのではないですか?」
「ああ、そうか……道理で暑いと思った」
ヨーリクは低めの声で静かに笑うとローブを脱いだ。体温で温められたローブの中の空気が解き放たれると同時に、彼がつけている春の樹の花の香りが厨房に漂う。
暑がりな彼は、屋敷では年中短い袖の服を着ている。ラウラはそのつややかでふかふかな感触の腕を触るのが好きなのだが、あまりつきまとっていると「年頃の娘なのだから控えなさい」とたしなめられる。
それでもラウラはその腕に巻きつき、子どもが父親に甘えるようにして、外で観て来た色々なことを話すのだった。
「……でね、女主人の名前はカトーっていうらしいんです。それで、薬師さんはわたしが騙されているんじゃないかって思っていたらしくて」
「ふぅむ。随分と変わった性格の薬師もいたもんだなぁ……彼らは極力、他人と関わるのを避けるものなのに」
ヨーリクの太い指が獅子のたてがみのような顎髭を撫でる。その様子を見上げながら、ラウラは問い掛けた。
「そうなんですか? わたし、薬師さんとお話したのは初めてで――あ、そういえば、そのかたに『今度うちにいらっしゃいませんか?』ってお誘いしたんですけど。駄目だったかしら」
「うちに来ようなんて物好きは、そうそういないだろうなぁ」と、ヨーリクは苦笑した。
「そうかしら……あの薬師さんなら、わたしとお友だちになってくれそうな気がしたんですけど」
ラウラは少し寂しそうな表情になる。
ヨーリクの内心は複雑だった。
気まぐれに助けたこの娘を、いつの間にか手放したくないとも思うようになっていたからだ。
だが身体が治った暁には、館を出て行くのがこの娘のためだということも重々承知していた。
将来のためには、例え客を騙すような店主でも、いつまでこの町にいるかわからない薬師でも、知り合いになっておくのが娘にとって必要なことなのだろう。
「……風が出て来たな」
外はもうすっかり暗くなっていた。暖炉のそばは暖かだが、館の窓が風に軋む音がかすかに聞こえる。
ざわざわと揺れる樹々からは日に日に葉の数が減って行き、今も時折、葉が窓に当たって弾ける音がする。
一年を六季に分けるこの世界で、今は結実と落葉の季節。この分ではもう十日もすれば山には雪が降り始めるだろう。
「雪が降り始めたら、町にはたまにしか行けなくなるんですもの。その前に、一度だけでいいから……」
ラウラは幼子が甘えるように、ヨーリクの腕に顔をうずめる。
頬をすりつけられると、ヨーリクはほんの少しだけくすぐったい。
「そうだな……雪が降る前に」
いつまでラウラがこうして自分に甘えてくれるのか――そう考えると、ヨーリクは寂しさを感じる。この娘が現われるまで、もう何百年も抱いていなかった感情だ。
ふかふかした腕にもたれたままうたた寝し始めた娘を、『バケモノ』は愛おしげな様子で見守り続けた。