第一話
夜も更けに更け、戌夜にも至らんとする折、一条の雷の光が古城の薄暗い一室を照らし出した。
そこには凡そ生命というものが感じられず。
かつては主人を優しく包み込んでいたであろう天蓋付きのベッドは今や骨だけを残し、活けられていたであろう花は瓶に死の匂いと汚れだけを残して、今はもうない。
部屋に、出入りを可能とするような扉は見受けられず、それが一層不気味さを際立たせている。
部屋の中心部には棺があった。床に掘られた幾何学的紋様と漆黒の棺は昏い美しさを確かに蔵していたが、これもまた、部屋に同じく、描かれた「死」に相違はなかった。
雷が鳴り止む頃。
永遠に続くように思われた静寂は、突如として終わりを告げた。
棺の蓋が、何度か音を立て、やがてコトリと滑り落ちる。
私はフ、と目を開けた。
…開いたが、何も見えぬ。
手をかざしてみる…と、硬質の感触を感じた。
少し力を入れる。
すると、持ち上がったようで、「それ」はギィィ…バタン………という音を立てた。
更に強く、押し上げる。
蓋は、存外に呆気なく持ち上がり、見たことがない天井がその姿を現した。
何かで塗り固めたような白さを持つ天井。
受ける印象、と言えば薄暗いの一言に尽きた。
…その真下の、何やら直方体の容れ物らしきものに私は横たわっているようである。
…おかしいな…
上体だけを軽く起こし、瞼を一杯に見開き、眼の玉だけをグルリ、と回転させてみた。
天井と同じく、塗り固められた白を持つ壁に囲まれた、三間ばかりの部屋である。
四方の壁は経年による劣化とみられる薄汚さが在する壁紙が張り巡らされている。
花模様が見事なことから、嘗ては美しかったのだろう、と予想した。
他に見当るものといえば、綿や布が風化し骨格だけとなったベッド、汚れが酷く、匂いの酷そうな花瓶、それだけである。
しかし、これらのものは私に不快を抱かせるものとしては十分に過ぎた。
生命の息遣い…有り体に言えば、生活の匂いが感じられないからである。
腐りすぎた鯛は食うことすら出来ない。
そもそも…
私は何故、こんな所に居るのだろうか。
………
いや…そもそも…私は…何者だ?
血の気がスッ…と引くのを感じる。
心臓が、早鐘を突くように乱れ打ち始める。
息が荒くなり、死ぬ程喘ぎだしたかと思うと、ヒッソリと静まり返り…また喘ぎ出し…
どれ程繰り返しただろうか。
漸く、とも言うべきか、激しい鼓動は鳴りを潜めた。
と言うよりは、体力を使い果たして動けなくなったのだろう。
…不思議なこともあるものだ…
自分で、自分自身のことをすっかりと忘れてしまって居る…
記憶喪失、と言う言葉が頭に浮かぶ。
健忘、とも呼ばれるそれは「一定の事柄に限定された想起の障害」のことである。
つまり、想起の障害の中においても自己認識(超越論的観念論のことである)及び知識の欠損は基本的に見られず、障害の対象となっていない事象に対するものの考えについても相違が生まれない状態のことなのだ。
今の状況においてはこう考えるべきであろう。
さて、私が記憶喪失であるとするならば、問題が生じる。
この症状は器質的要因と心因的要因のどちらか、あるいは両方によって起こると言われている。
器質、とは「器官や組織の構造的・形態的性質」のことであり、変化によってもたらされるものだ。
故に、原因が器質的なものと考える場合、「自分」に関する記憶を、余すことなくピンポイントで消し去られていることには人為的なものを感じざるを得ない。
次に、心因的なものに起因していた場合。
要因は、かなり強いストレスを脳に与えていたと予測される。
故に、それを思い出すことは、少なからず穏やかでない、ということからして、仮に心因的なことに端を発した記憶喪失である場合は、理由を追い求めることが正解とは限らないのである。
…問題とはこの事だ。
何を成せば良いか皆目見当も付かぬ、これでは赤ン坊と何の相違もない。
私は、足元の固まらないことによる浮遊感を伴う強烈な不安のままに部屋の隅にあった鏡へ這い出した。
鏡は埃と汚れで酷く汚れていたため、カーテンの裾を千切った布で拭いた。
存外に汚れはしつこくなく、直ぐに鏡としての機能を取り戻すことが出来た。
不自然なほどに。
私は、何の抵抗も無く、即樣鏡を覗き込んだ。
当然の如く、迷いもせず。
そこに24、5頃の青年の姿があると信じて…
映し出されたのは…
輝くような銀の髪に、鮮やかな赤の目。
髪は肩に漸く掛かるか掛からぬかといったところで、病的といっても良い程白い肌によくマッチしている。
年の頃は15、6と言ったところだろうか。
あどけなさが残る口元には、ピンク色の可愛らしい唇がそっと鎮座しており…
端的に言うと、少女であった。
混乱する頭で考える。
自己評価における贔屓を差し引いても、絶世の美少女…と呼んでも差し支えないほどである。
しかし、私の自意識においては、私はまごう事なき男なのだ。
はぁ、と息を吐き、汚れた壁に寄り掛かる。声も可愛らしいのが忌々しく感じられた。
取り敢えず、情報収集を行いたい…思考には、材料が必ず必要故に。
数歩歩き、部屋の端の壁紙を押す。
現れた扉を潜り隣の部屋へ…
思わず、手を止める。
今、無意識のうちに行なった行為を鑑み、身体の記憶だろう、と言う結論を出した。
いちいち驚いてもいられない…そう言うものだ、と割り切って行動しようか。
首を振り、半開きになったドアを再度潜る。
もう息は乱れていない。
少しばかりだが、心は落ち着いてきたようである。
さぁ、状況開始と行こうか。
賽は、既に投げられた。