0.3「奇跡なんかじゃないよ」
0.3「奇跡なんかじゃないよ」
「そうダ、それでいいゼ。マイナロス様にたっぷり可愛がってもらうからよォ。安心しな、あのお方は慈悲深い」
ミノタウロスはのっしのっしとスピカに近づく。
太い腕を伸ばし、その華奢な身体に触れようとする。
その瞬間――肉が大きく裂ける音と共に、大理石の床が赤く染まった。
「っ――ガアアアアアアアアアアアアアアア!?」
牛頭の怪物は手首をおさえてのけぞった。
手首からは血が滴り落ちている。深く切れ込みが入っていた。
「なっ、なンダ、なンだこれは……! なンなンだヨォ!?」
ヤツは何が起こったのか数秒経っても理解できない。
その大きな図体から死角となった足元に――致命的なその距離に。
ぼくがとっくにもぐりこんで、スピカが光線で砕いた神殿の破片をつかみとり。
手首の動脈に突き刺したことを。
「きみたちさ、勝手に盛り上がってる所悪いんだけど……」
ミノタウロスもスピカも、ただポカンと口を開けてぼくを見ていた。
「茶番だよ、全部。いきなり異世界で目覚めて、いきなり勇者になれなんて言われて、いきなり牛のバケモノに襲われて……今、女の子がぼくを助けるために自分を犠牲にしようとした。まったく、度し難いな。軽く怒りすら覚えるよ」
ぼくはスピカの前に立って、
「これ、借りるけどいい?」
「え、あ、はいぃ! でも、それ儀式用の短剣で戦闘力は……!」
「これでいいよ」
胸に下げられた黒い短刀をもぎ取った。
「ねえ、きみのことスピカって呼んで良いかな。さっきから頭の中では呼んでたから事後承諾だけど」
「え、あ……もちろんです勇者さま!」
「じゃあスピカ。確認したいんだけど。レベル0ってのはいわゆる"魔術的な力"のサポートが受けられないって意味だよね。あとスキルも全くないとかなんとか」
「そうです、"祝福"は身体能力を高めたり、特別な能力を付加するものです……勇者さまにはそれがありません、"普通の人間"です。術式適正がなくて、魔術装備の適正も武器を扱うスキルも付加されてなくて……扱えるとしてもその短剣みたいな単純な武器くらいで……だから戦うなんて無謀なんです! やっぱりわたしが……むぐぅ!」
「レベル0でナイフ縛りってわけか……やっぱりどこの世界でも人生はクソゲーだな。よくわかったよ、ありがとう」
ぼくはスピカの両唇を指でつまんで話を止めた。
「"祝福"がどうのとか、正直どうでもいいんだ。さっきコルネリウスさんは言った。勇者には"全てを捧げてでも叶えたい願い"があるって。それを考えてたんだ」
「……ぷはっ……勇者さまの、願い……ですか?」
「自分がどんな人間なのか、何を望んでいるのか。考えたけど、結局はわからなかった。だけど一つだけわかったこともある」
「それって……」
「どうやらぼくは、自分を命がけで守ろうとしてくれた女の子を、追いて逃げたりできない。そういうヤツらしい。たとえ他人が赦したとしても、そんなのぼく自身が赦さない」
「てめェ……俺様に傷を……殺す! 殺す殺す殺す殺す! 殺すだけじゃァねェ、てめェら全員嬲り殺して生で喰い散らかしてやるァ!!」
やっと自分にダメージを与えたのがぼくだと悟ったらしい。
怒り狂ったミノタウロスが前のめりに突進してきた。
「だいたいさぁ」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオ!」
「"普通の人間"じゃあ"怪物"に勝てないなんて――誰が決めたんだ?」
ミノタウロスの一撃。
大振りだ。
脳天をかち割ろうと振り下ろされた斧を、ぼくは最小限の動きでかわした。
「怒りに身を任せた致命傷狙いの攻撃なんて、予測するのは容易いよ。スピードとパワーはあるけど、それだけだな」
「てン……めええええええええええ!」
「力みすぎで姿勢が崩れてる。リカバリーも遅すぎる。そんな隙だらけの相手に二撃目を許すと思うか?」
崩れた姿勢を立て直し、ミノタウロスは接近するぼくを腕で叩き落とそうとする。
でももう遅い。ぼくはすでに振り下ろされた斧の上に飛び乗っていた。
これが狙いだ。身長差がカバーできた。
ヤツはまだ気づかない。すでに自分が"死んでいる"ことに。
「終わりだ――」
短刀を振り抜く。
ミノタウロスの表皮は硬い。さっきの手首とは違って、首周りの分厚い筋肉は鋼のように頑強だ。
ぼくの――"普通の人間"の腕力だけじゃ切り裂くことは出来ない。
それは見ただけでわかっていた。
だけど今、ヤツ自身がぼくを叩き落とそうと身体をよじって腕を振り回している。
その分の力がぼくの攻撃に上乗せされる……いわゆるカウンターってやつだ。
自身の怪力によって、刃がミノタウロスの表皮と筋肉を貫いていく。
『とっさの反撃を誘われた』ヤツがその事実に気づいたときにはもう全部終わっていた。
ブシャ、という情けない音が神殿に静かに響く。
ミノタウロスの首筋に細く深い裂け目が走り、そこから勢い良く血が吹き出した。
頸動脈。脳に直結する血管で、牛だろうと人間だろうと同じく急所だ。
ミノタウロスの頸部が人間のものか牛のものかなんて考えるまでもない。
そこを切れば怪物だって例外なく……死ぬ。
「獣は獣らしく……地面に這いつくばってろ」
力なく崩れ落ちた怪物の亡骸に、ぼくはそんな言葉を投げつけていた。
自分でも驚くほど冷たい声だった。
"生き物を殺した"というのに、思ったより何も感じていなかった。
そうすることが自分にとって自然なことのようにすら思えた。
「……すごい」
その光景をぽかんと見ていたスピカが、少しして口を開いた。
「すごい、すごい、すごいです勇者さま!」
そしてぼくにまた抱きついてきた。
柔らかい。
コルネリウスさんはまだ絶賛気絶中みたいだし、もう邪魔者はいないだろう。
「"奇跡"です! 普通の人間のままなのに、ミノタウロスに勝っちゃうなんて! 勇者さまはすごいです!」
「奇跡なんかじゃないよ。きみのおかげだ」
「わたしの?」
ぼくはスピカから借りた黒いナイフを差し出した。
「このナイフ、かなり切れ味が良かったんだ。あいつの首の筋肉は予想より分厚くて、普通のナイフじゃたぶん一撃で仕留められなかった。だからきみのおかげだよ、スピカ」
「……その短剣、"黒水星"って名前なんです。勇者さまに差し上げます」
「いいの?」
「きっとこの子も喜ぶと思いますから」
スピカはそう言って微笑んだ。
「んー、だけどヘンですよね……?」
ふと気づいたように、スピカが怪訝そうに首をかしげる。
「こんなの"普通"じゃないです。それができる勇者さまって一体……。そういえばまだお名前も聞いてません。教えてください、勇者さまは何者なんですか……?」
「ああ、それね。言っただろ、自分がどんな人間か考えてたって。何を願っているのか。そもそも自分の名前ってなんだったっけ、ってとこからさ」
「勇者さま、それって……!」
ずっと考えていた。思い出そうとしていた。
わからなかったんだ。忘れてしまってたんだ。
ぼくは何者なのかを。
自分の名前も。
叶えたい願いさえ。
自分探しだとかアイデンティティの喪失だとか、そんな思春期にありがちなセンチメンタルな理由じゃなくて。
もっと単純で。
根本的で。
致命的で。
くだらない理由で。
「どうやらぼくは――"記憶喪失"ってヤツらしい」
Aliis si licet, tibi non licet...
13番目の(ニセ)勇者