第三話
第3話
ロッカールームを通り過ぎて、つきあたりの部屋が事務室だった。ノックすると「どうぞ」 の声。スチールの事務机に椅子が四つ。超簡単で質素な事務室だ。事務机に五十代前後のふくよかな女性が座っている。その隣に女性よりやや若い男性が立っている。男性は薬子に向かってていねいに会釈した。女性は薬子を認めて軽くうなづき椅子から立ちあがった。薬子はまず頭を下げてあいさつする。
「はじめまして、派遣薬剤師の藤原薬子です。短い期間ですがどうぞよろしくお願いいたします」
「私が社長の餡祖です。横にいるのは事務長総括の吉本です。こちらこそよろしくお願いします」
餡祖は薬子に名刺を渡し、椅子に座るようにうながす。そしてあらかじめ派遣会社から送付されていた薬子の履歴書をおもむろに見た。面接慣れしている。
「えっと、病院のご経験の方が長いですね。調剤薬局は未経験とか。でも私たち薬剤師の仕事は調剤が基本ですし、まあここでもやっていけますよね」
「はい、そうですね。でもこちらでは投薬の服薬指導がメインだそうで。調剤はみんな補助の事務員さんが」
餡祖は薬子の話をさえぎって早口で言った。
「あの、ちょっとすみません。調剤は薬剤師がやっているのですよ。調剤印もみんな薬剤師がやっています。投薬時の服薬指導もみんな。誤解を招く表現はどうかおやめになってね」
「はあ……」
「確かに調剤補助の事務員さんはこちらでは多いです。ですが最終チェックはみんな有資格者の薬剤師がしていますしね、何も問題はありません。この点わかっていただかないとお仕事はできませんし、あの、藤原さん大丈夫ですよね?」
薬子は「はあ」 とどっちつかずのあいまいな表現をした。
つまり、餡祖社長は、ルンルン薬局中央病院前店で仕事をしたかったら、無資格調剤を認めろ、患者に投薬するのは有資格の薬剤師だから結局は薬剤師が調剤したことになる、そう言っているのだ。大木がさきほど言ったことと同じことをオブラートにくるんでいっている。つまり、そういうロジックなのだ。
薬子はまず仕事をしないと話にならないので、餡祖と吉本に向かってにこにこと笑った。
餡祖もまたにっこりとした。彼女は笑うと両頬にえくぼができる。年をとってもかわいらしい、そういう表現がぴったりな希有なタイプの熟年だ。餡祖は薬子に親しげに語る。
「ふふ、私もね、若い時は病院内の薬局にいました。でもね、病院の仕事って時間の切れ目がないでしょ。当直続きで身体をこわしましてね、ほーんと病院は人を安い給料でこきつかいますからね。その点、調剤薬局は気楽でおよろしいですよ、当直どころか注射業務も病棟も滅菌製剤もないですし、本当に仕事が楽でいいと思いますよ」
薬子も体力的な面では同感だった。だが薬子はどちらかというと病院での業務が好きだ。広い範囲で薬局内にとどまらず病棟内や臨検、オペ場にも出入りして活躍できる。また治療方針の実際を処方した医師から直接対面して話が聞ける、また過去の薬歴を調べるためにカルテが閲覧できると言うのは病院薬剤師ならではの特権ともいえる。
仕事で話す相手は調剤薬局では患者が主だが、病院では入院患者外来患者はもちろん医師、看護師、検査技師など多岐にわたる。そういうタイプの薬剤師だったが今はそうではない。自分は隠密なのだ。餡祖の経営方法などをそっとさぐるのが自分の使命だ。
だから素直にイエスという。
「そうですね、私もそう思います」
餡祖はにこっとした。またえくぼが浮きでて年若くみえた。
「じゃあ、忙しい職場ですがちょっとだけ一緒に仕事しましょうね」
「はいよろしくお願いします」
餡祖と吉本事務長が先に立ち、調剤室に戻る。調剤室には五分ぐらいしか離れていなかったのに、もう戦場のようになっていた。
FAX処方箋受けにはすでに十数枚が並び、調剤室の棚にはすでに調剤された薬剤が整然と並んでいる。餡祖は吉本に命じ大木管理薬剤師を呼んだ。大木は忙しそうにやってきて早口で「おはようございます」 とあいさつする。
「今日も忙しいけど調剤ミスはみのがさないこと、いいわね?」
「はい、わかりました」
「この人は派遣で三カ月だけだけどフルタイムできていただくことになりました、藤原さんです」
「はい、今朝あいさつしました」
「あなたよりずっと年長だけどいろいろ教えてあげて」
「はい、わかりました」
……まるで小学生の問答みたい、薬子は笑いだしそうになったが餡祖も大木もまじめな顔だった。特に大木は餡祖社長を怖がっているようにみえる。
それから三人で調剤室の通路に陣取る。調剤薬局にしては場所を広くとってはいる方だがこれだけ人が多いと通路も狭く感じる。一人通るのがやっとという感じだ。棚の上にも薬剤がぎっしり。大きな地震でもゆれば、ひとたまりもない、被害甚大だろうと思われる。
餡祖社長は満足そうに皆の働きぶりを見ていた。
受付担当が新しい処方箋が来るたびに、調剤室にあるトレイを取り出し入れていく。処方箋一枚につき、一トレイだ。PC入力同時に後ろについていた人が処方内容を読み上げ各場所に張り付いている調剤補助員が医薬品を取り出していく。そろえていくと同時進行で正しいものがそろえられているか監査役がチェック、患者名を確認しながら袋に入れていく。
良いチームワークだわ、と薬子も感心した。
餡祖はすでに出来上がった薬剤のかごを見まわしその中の一つを手にとった。それから薬子の方に向かって言った。
「じゃあ、藤原先生、まずこの薬剤をお願い。患者さまをお呼びして服薬指導してください。あなたの場合は即戦力になる方と見受けましたのでへんにオリエンテーリングするのもかえって失礼ですしね。早速やっていただくわ。薬のお代金は事務員が受け渡すので服薬指導だけに専念してくださいね」
「はい、わかりました」
薬子は手早くかごの中を確認する。
かごの中の薬剤は湿布一種類だけだった。ピーラステープのLサイズ。一袋七枚入りで五袋。一緒に入っていた今日の処方箋とその患者だけの服薬指導記録簿をぱらっと見る。それらによると前の中央病院の整形外科にサッカー授業でねんざ、本日で受診二回目とある。年齢は十四歳。アレルギー歴など特記事項なし。
薬子のやりかた、出方をみているのか餡祖と吉本、大木はだまって見ている。ほかの事務員も次々にやってくる業務をこなしながらもこちらの様子をうかがっているのが見えた。
……これは、これが私へのテストなんだわ、
薬剤師としてどれだけのことを手早く患者に説明できるか、それを見ようとしているのだわ、薬子はそう思った。雇用する側にとっては当然のことだろう。そしてまずは一番簡単な湿布だけの処方で能力を図ろうとしているのだ。
「じゃあ、やってみます」
餡祖はうなづいた。
「そこの投薬台、いつも大木がしているの、ここで私たち聞いてるからやってみて」
「はい」
薬子は投薬台に立ち、患者の名前を呼んだ。
「丸木まるたさんー」
「はい」 と小さい声がして学生服を着た少年が立ちあがった。そばには母親がつきそっている。少年は母親よりずっと背が高くひょろっとしている。
時間はまだ朝の九時半。
少年は湿布を受け取ったらそのまま学校へ行くのだろう。まだ春休みのはずだが、クラブ活動でもあるのだろうか。母親もスーツを着ている。少年を送った後は仕事に向かうに違いない。
少年は投薬台まで少しびっこをひきながら歩いてきた。